読切版 聖域における「偶然」の確率論 魔力ゼロの犯罪コンサルタント
第1話 雨と計算式
王都の最下層、第8スラム地区。
都市の排泄物が流れ着くこの場所には、常に腐敗した生ゴミと、湿ったドブネズミの死骸の臭いが充満している。
今夜は、とりわけ冷たい雨が降っていた。
視界を遮るほどの豪雨が、路地裏の汚泥を叩き、少女の荒い呼吸音をかき消していく。
「……ハァ、ハァ……ッ」
シスター・アリアは、泥水に濡れた修道服の裾を引きずりながら、廃ビルの陰に身を潜めていた。
彼女の両手は、赤黒く錆び付いた一本のナイフを、祈るように握りしめている。
その切っ先が震えているのは、寒さのせいではない。
これから犯そうとしている「大罪」の重さに、魂が悲鳴を上げているからだ。
(神様なんて、いない)
彼女は奥歯を噛み締め、視線を上げた。
スラムを見下ろす高台、王都の一等地に、白亜の大聖堂がそびえ立っている。
闇夜の中で、そこだけが神々しいライトアップに照らされ、淡い黄金色の光の膜――防御結界が展開されていた。
あの中にいるのは、枢機卿グルガー。
表向きは貧民救済を掲げる聖職者。だがその裏では、孤児院への支援金を横領し、立ち退きを迫り、逆らうシスターたちを私兵団に惨殺させた「神の代弁者」。
アリアの育った孤児院も、明日には取り壊される。子供たちが奴隷商人に売り払われる未来が、すぐそこまで迫っていた。
(祈っても、何も変わらなかった。神様は見て見ぬふりをした)
だから、私がやるしかない。
この命と引き換えにしてでも、あの悪魔を――。
「……計算が間違っていますよ、シスター」
不意に。
雨音以外の「異質なノイズ」が、アリアの鼓膜を叩いた。
「ッ!?」
心臓が早鐘を打つ。
アリアは弾かれたように振り返り、ナイフを闇へと向けた。
教会の私兵団か? それともスラムの強盗か?
だが、そこに立っていたのは、そのどちらでもなかった。
黒髪に、上質な素材で仕立てられた黒の三つ揃え。
銀縁の丸眼鏡を掛け、革手袋をしたその男は、スラムの汚泥に革靴を浸しながらも、まるでそこだけ時間が止まったかのような静寂を纏っていた。
傘も差さずに佇んでいるのに、なぜか彼のスーツは濡れていないように錯覚させるほど、その立ち振る舞いは優雅だった。
「だ、誰……? 教会の追っ手?」
「いいえ。しがないコンサルタントですよ。名前はネロ」
男――ネロは、怯えるアリアには興味を示さず、彼女が握りしめるナイフだけに視線を注いだ。
その眼差しは、人間を見る目ではない。
実験動物を観察する科学者のように、無機質で、冷徹な解析の光を宿していた。
「そのナイフの素材は、第三期採掘層の屑鉄ですね。精錬技術が未熟な時代の代物だ。赤錆による深層腐食で、分子結合はボロボロ。モース硬度は4.5……いや、4.2といったところか」
「な、何を言って……」
「それでは、枢機卿を守る結界はおろか、彼が着込んでいる最高級絹の法衣すら貫通できません。刺した瞬間、刃が砕けて終わりです」
「う、うるさい! あんたに関係ないでしょ!」
図星を突かれ、アリアは絶叫した。
分かっている。こんな錆びたナイフで、国の中枢にいる怪物を殺せるはずがないことなど。
それでも、これ以外に縋るものがなかったのだ。
ネロは表情一つ変えず、懐から純白のハンカチを取り出し、眼鏡のレンズについた微細な水滴を丁寧に拭った。
「枢機卿グルガーのユニークスキル【聖域】。半径5メートル以内の『害意を持つベクトル』を自動感知し、斥力場で弾き返す自律防衛システム。……過去、S級の暗殺者が放ったミスリルの矢でさえ、彼の肌に触れることなく空中で分解されました」
彼は眼鏡を掛け直し、アリアを見下ろした。
レンズの奥の瞳が、雨の冷たさよりも冷酷に、現実という名の氷柱を突き立てる。
「正面突破の成功率は、0.00001%以下。それは勇気ではありません。ただの感情的な自殺です」
「……っ、う、あぁ……!」
アリアの膝から力が抜け、泥水の中に崩れ落ちた。
ナイフが手から滑り落ち、悲しい音を立てる。
正論だった。あまりにも正しい、救いのない事実だった。
「じゃあ……どうすればいいのよ……! あいつが生きてる限り、子供たちは……みんな売り飛ばされる! 私が刺し違えるしか、方法がないじゃない!」
涙が溢れ、雨と混ざり合う。
慟哭する少女を見下ろしながら、ネロは小さく溜息をついた。
そして、革靴のつま先で、落ちたナイフを転がす。
「方法なら、ありますよ」
その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして低く響いた。
「え……?」
「なぜ、殺そうとするのです? 『殺す』という行為には、必ず殺意――すなわち『悪意』が伴う。だから【聖域】に感知される」
ネロは一歩、アリアに近づいた。
彼の影が、少女を覆い尽くす。
「ならば、『死なせれば』いい」
「死な、せる……?」
「病死、老衰、あるいは――あまりにも不幸な事故。重力、摩擦、化学反応、エントロピーの増大。……自然界の物理法則に、『悪意』など存在しません。神の加護は『敵』を防ぎますが、『運命』までは防げない」
アリアは息を呑んだ。
目の前の男が言っていることの意味が、理解できなかった。
いや、理解することを本能が拒絶していた。
この男は、殺人を犯そうとしているのではない。
もっと恐ろしい、世界の「ルール」そのものを書き換えようとしているのだ。
「私に依頼なさい、シスター。物理的な暴力ではなく、論理的な死を彼にプレゼントしましょう」
「あ、あんたは……何者なの……?」
「申し上げたでしょう。コンサルタントです。……解決不可能な問題を、最適なロジックで処理する専門家」
ネロは白い手袋をした掌を、スラムの泥に塗れた少女へと差し出した。
「報酬は金貨ではありません。あなたが孤児院の地下書庫で見つけたという、大聖堂の『旧・地下配管図』。……あれを頂きたい」
アリアは戦慄した。
なぜ、この男はそれを知っているのか。
あの図面は、孤児院の院長が隠し持っていた、数百年前の王都のインフラが記された禁書だ。誰にも話していないはずなのに。
(この人は、最初から知っていたんだ。私がここに来ることも、失敗することも、図面のことも)
それは、神のような全能感か。あるいは、悪魔のような狡猾さか。
だが、アリアに選択肢はなかった。
子供たちの未来を守れるなら、この魂を悪魔に売っても構わない。
彼女は震える手で懐を探り、羊皮紙の束を取り出した。
そして、ネロの手袋の上に置く。
「……助けて。子供たちを、助けてください」
「ええ。契約成立です」
ネロは図面を一瞥し、満足げに懐へと収めた。
そして、踵を返す。
「明日の正午。大聖堂の広場で、素晴らしいショーをお見せしましょう。……神が作りたもうた物理法則が、いかに残酷で、公平かというショーをね」
男は闇の中へと歩き出した。
その背中は、一度も振り返ることなく、雨の向こう側へと溶けていく。
後に残されたアリアは、泥の中でただ祈るしかなかった。
自分が解き放ってしまった「怪物」が、標的だけを食い殺してくれることを。
雨はまだ、降り止まない。
だが、王都を支配する腐った秩序は、明日、確実に崩壊する。
死神の書いたシナリオ通りに。
第2話 変数のセットアップ
翌日。
王都は、年に一度の「聖誕祭」の熱気に包まれていた。
大聖堂前の中央広場には、早朝から数千の民衆が押し寄せ、屋台から漂う肉を焼く香ばしい匂いと、安酒の酒精、そして人々の熱気が混ざり合い、一種異様な喧騒を生み出している。
その光と音の渦の最後尾。
広場全体を見渡せる噴水の縁に、ネロは腰を下ろしていた。
黒のスーツに身を包んだ彼は、祭りの熱狂から完全に切り離された異物のように見える。
膝の上には、一冊の分厚い書物が開かれていた。
タイトルは『流体力学と界面活性剤の応用』。
傍から見れば、祭りの最中に研究に没頭する変わり者の学者だ。だが、銀縁眼鏡の奥にある双眸は、文字ではなく、広場の「空気」そのものを読み解いていた。
(気温24度。湿度68%。南南東の微風、風速1.2メートル。……変数は想定の範囲内だ)
ネロは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、視線を上げた。
広場の最奥、大聖堂のバルコニー。
正午の演説を行うため、そこに現れるはずの標的――グルガー枢機卿の姿を探す。
いた。
バルコニーに出て、演説の予行演習を行っている肥満体の男。
ネロの「観察眼」が発動する。
網膜に映る景色が、瞬時に数値と情報のタグへと分解されていく。
『対象:グルガー(推定体重112kg)』
『歩行分析:左足に重心の偏り。痛風の兆候あり』
『精神状態:極度の緊張。32秒ごとに首元の汗を拭う動作。視線は定まらず、常に「足元」と「群衆」を往復している』
(……豚が肥え太るには理由がある。彼はストレスを、過食と異常な清潔への執着で埋めているわけだ)
グルガーの周囲には、陽炎のように揺らめく淡い光の膜が見えた。
スキル【聖域】。
物理的な矢も、魔力の刃も、彼に届く前に「悪意」を感知され、消滅する。
まさに神の盾。
だが、ネロにとってそれは、攻略しがいのあるセキュリティシステムに過ぎない。
「……さて。最初のドミノを置きに行きましょうか」
ネロは本を閉じ、立ち上がった。
彼が向かったのは、広場の隅で異国のスパイスや木の実を売っている露店だった。
「いらっしゃい! 珍しい木の実があるよ! 南方のジャングル直送だ!」
陽気な店主が声を張り上げる。
ネロは商品棚を一瞥し、瓶詰めされた赤黒い木の実を指差した。
「これを一袋いただけますか。『火炎樹の実』ですね」
「おっ、旦那、目が高いね! こいつは料理の隠し味に使うと最高だ。ただ、入れすぎには注意しな。辛いってレベルじゃねえ、口から火が出るぞ」
「ええ、知っています。……鳥類の生態研究に使おうと思いましてね」
「研究? 変わった客だなぁ」
店主は笑いながら、紙袋いっぱいに実を詰めて渡した。
ネロは代金を支払い、人混みを離れる。
紙袋の中で、乾燥した実がカサカサと乾いた音を立てた。
火炎樹の実。
そのカプサイシン濃度は、通常の唐辛子の50倍に達する。
人間なら一口で失神する劇物だが、味覚受容体の構造が異なる鳥類は「辛味」を感じない。
しかし、感じないだけで、体内には確実に吸収される。
摂取から約15分後。代謝によって急激な体温上昇を引き起こし、鳥は強烈な「渇き」と「興奮」に襲われることになる。
ネロはバルコニーの真下、大聖堂の給水塔の陰に立ち止まった。
そこには、観光客のこぼしたパン屑を目当てに、数百羽の鳩が群がっていた。
「……たくさんお食べ。君たちが今日の主役だ」
彼は革靴の踵で実を踏み砕き、粉末状にしてから地面に撒いた。
鳩たちが一斉に群がり、赤い粉をついばんでいく。
ネロはその様子を数秒だけ冷ややかに見つめ、すぐに背を向けた。
(タイマーセット。潜伏期間は15分。12時01分に効果が発現する)
第一段階、完了。
次は、この計画の要となる「処刑台」の設置だ。
ネロは人混みを縫うように歩き、大聖堂の通用口付近へ近づいた。
そこには、一人の老婆がいた。
教会の清掃員だ。彼女は腰を曲げ、バルコニーへ続く大理石の床を磨く準備をしていた。
その表情には、疲労と焦りの色が濃く滲んでいる。
(連日の祭りの準備で睡眠不足。加えて、上司からの理不尽なノルマ。……思考力は低下し、判断能力は著しく鈍っている)
ネロは、彼女の背後10メートルの距離で足を止めた。
周囲は祭り太鼓と歓声で満ちている。
普通なら、声など届くはずもない距離。
だが、ネロには「武器」があった。
Fランクスキル【助言】。
攻撃力皆無。防御力皆無。
ただ、「特定の音域」に対象の脳波を同調させ、言葉を深層意識に滑り込ませるだけのゴミスキル。
しかし、使い方次第で、それは最強の洗脳ツールとなる。
(ターゲット、ロック。……脳のセキュリティホールへ侵入する)
ネロは口元だけで、音のない言葉を紡いだ。
「――助言」
音が、指向性を持った弾丸となって飛ぶ。
老婆の耳ではなく、脳髄へ直接響くような、甘く、親切な囁き。
『……奥さん。今日の汚れはしつこいですね』
老婆の手がピタリと止まる。
彼女は顔を上げ、キョロキョロと周囲を見回した。
「……え? 誰だい?」
雑踏にかき消され、声の主は見つからない。
ネロはタイミングを見計らい、彼女が「気のせいか」と思考を切り捨てようとした瞬間に、畳み掛ける。
『そのワックスだけじゃ、日が暮れてしまいますよ。……腰に下げている“お酢”を少し混ぜると、驚くほど楽に落ちます』
それは、老婆が腰にぶら下げていた、石像洗浄用の「酸性洗剤(酢酸)」のことだった。
彼女の疲弊した脳は、その提案を「外部からの声」ではなく、「自分自身の閃き」あるいは「天啓」だと誤認する。
楽になりたい。早く仕事を終わらせたい。
その欲求が、論理的思考を停止させた。
「……そういえば、昔そんな裏技を聞いたような気もするねぇ」
老婆は独りごちると、震える手で酸性洗剤の栓を抜き、床磨き用のバケツにドボドボと注ぎ込んだ。
バケツの中身は、アルカリ性の最高級ワックス。
ボコッ、ボコボコッ。
微かな泡立ちと共に、バケツの中で劇的な化学反応が始まった。
酸とアルカリの中和反応。
ワックスの乳化状態が破壊され、成分中の「油分」と「水分」が急激に分離していく。
さらに、生成された塩の結晶が、微細なベアリングのように作用し始める。
老婆はそれに気づかず、分離した液体をモップに吸わせ、バルコニーの床と手すりに塗りたくった。
一見すると、床はピカピカに輝いているように見える。
だが、その表面は今、油と水と結晶の層で覆われていた。
摩擦係数0.05以下。
それはもはや床ではない。人間が立っていられる限界を超えた、見えないスケートリンクだ。
(……完了。処刑台は完成した)
ネロは腕時計を確認する。
秒針が、11時56分を刻んでいた。
正午の鐘まで、あと4分。
ネロは雑踏に紛れ、再び噴水の縁へと戻った。
本を開き、何食わぬ顔でページをめくる。
だが、その指先は微かにリズムを刻んでいた。
死へのカウントダウンを。
広場を埋め尽くす民衆も、得意げにバルコニーへ向かう枢機卿も、誰も知らない。
この世界がすでに、一人の詐欺師によって書き換えられた「脚本」の上で動いていることを。
第3話 執行:マクスウェルの悪魔
正午。
王都の大時計が、重厚な鐘の音を響かせた。
ゴーン、ゴーン――。
その振動が合図であるかのように、大聖堂のバルコニーへの扉が開かれた。
わあっ、と広場を埋め尽くす群衆からどよめきが上がる。
現れたのは、煌びやかな法衣に身を包んだ巨漢、グルガー枢機卿だ。
彼の周囲には、陽光を反射して淡く輝く黄金の膜――ユニークスキル【聖域】が展開されている。
それは神の寵愛の証であり、あらゆる敵意を拒絶する絶対の盾。
「愛すべき子羊たちよ! この聖らかな陽光を見よ! これぞ我らが信仰の輝きである!」
グルガーが両手を広げ、よく通る声で演説をぶつ。
その背後、影のように付き従う護衛隊長が、鋭い眼光で周囲を警戒していた。
右目に黒い革の眼帯をした歴戦の騎士。
戦場で右目を失った彼は、死角となる「右側」からの気配に対し、過剰なほど神経質になるよう訓練されている。反射神経は常人の三倍。それが彼の強さであり、同時に――ネロが仕込んだ最大の「穴」でもあった。
広場の噴水縁。
ネロは腕時計の秒針を見つめていた。
(12時01分40秒……41秒……)
世界がスローモーションのように感じられる。
全ての要素は盤上に揃った。
あとは、指先で軽く弾くだけ。
(――時間だ)
バサバサバサッ!
突如、広場の片隅から異様な羽音が沸き上がった。
先ほどまで地面をついばんでいた数百羽の鳩が、狂ったように空へ舞い上がったのだ。
火炎樹の実の効果が発現した。
カプサイシンによる急激な体温上昇。血液が沸騰するような熱さと、焼けるような喉の渇き。
鳥たちの思考は、一つの欲求に塗り潰される。
『水! 水ヲ寄越セ!』
彼らの眼下に、広場の噴水がある。だが、そこは人間の壁で埋め尽くされており、降り立つ隙間がない。
本能が、別の水源を探知する。
頭上。バルコニーの脇に設置された、なみなみと水を湛えた「儀式用の聖水盤」。
ドッ、と黒い塊になった鳩の群れが、弾丸のようにバルコニーへ殺到した。
「な、なんだ!? この鳥どもは! 不潔な!」
演説の最中に襲来した鳥の群れに、グルガーが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
バタバタという耳障りな羽音。舞い散る羽毛。そして空中から撒き散らされる糞。
極度の潔癖症である彼にとって、それは生理的な拷問に等しい。
「シッシッ! あっちへ行け! 汚らわしい!」
グルガーはパニックに陥り、顔を覆って無様に後ずさった。
護衛たちが剣を抜こうとするが、相手は数百の小動物。斬り払うこともできず、混乱が広がる。
その混沌の最中。
ネロだけが静寂の中にいた。
彼は口元だけで笑い、最後の一手を打った。
「……助言」
音の弾丸が、喧騒を縫って飛ぶ。
標的は、混乱する護衛隊長の聴覚野。
『――右だ。短剣が見えたぞ』
「ッ!?」
護衛隊長の身体が、思考よりも速く反応した。
長年の戦闘経験が、右側の死角に対する恐怖を呼び覚ます。
彼は存在しない暗殺者を弾こうと、右腕を大きく、鋭く振り払った。
ガシャンッ!
その鉄の手甲が、横に控えていた配膳係の手元を直撃した。
係が持っていた銀のトレイ上の「最高級赤ワイン」のボトルが宙を舞う。
重力に従い、落下。
パリンッ、という硬質な音と共にボトルが砕け、真紅の液体が床にぶちまけられた。
ここで、ネロが仕掛けた化学の罠が牙を剥く。
床にはすでに、酸とワックスの反応で分離した「油膜」が張られている。
そこへ大量の「水分」が乗る。
油の上に水が浮く。タイヤと路面の間に水が入るのと同じ現象。
――水膜現象。
摩擦係数が限りなくゼロになる「死の潤滑領域」が、グルガーの足元に出現した。
「ひっ、あ……!?」
鳩を避けようとステップを踏んだグルガーの革靴が、その領域に踏み込む。
ツルッ。
まるで氷の上、いや、空気を踏んだかのように、足元のグリップが消滅した。
100キロを超える巨体が、慣性の法則に従って宙に浮く。
「なっ!?」
世界が反転する。
グルガーは必死に手を伸ばした。
背後にある大理石の手すり。あれを掴めば助かる――!
だが、その手すりもまた、清掃員の老婆によって丹念に、酸性洗剤とワックスの混合液でヌルヌルにコーティングされていた。
ヌルリ。
脂ぎった指が、何の手応えもなく滑る。
重心が手すりの外側へ移動する。
視界に映るのは、青い空と、驚愕に見開かれた民衆の顔。
(助けてくれ! 聖域ッ! なぜ発動しない!?)
落下するコンマ数秒の間、グルガーは心の中で絶叫した。
これまで数多の暗殺を防いできた絶対の盾。
それが沈黙している理由が、彼には理解できなかった。
だが、理屈は単純だ。
床が滑ったのは「化学反応」。
鳩が水を求めたのは「生理現象」。
護衛が腕を振ったのは「条件反射」。
そして彼が落ちるのは――地球の「万有引力」。
そこには、ネロの指紋どころか、殺意の欠片さえ存在しない。
ただの、あまりにも不幸で、あまりにもピタゴラス的な連鎖事故。
悪意なき物理現象を、【聖域】は敵と認識しない。
「ギャアアアアアア――ッ!?」
断末魔の悲鳴が、重力加速度によって引き延ばされる。
10メートルの高さからの自由落下。
受身も取れない巨体が、石畳へと激突する。
グシャッ。
濡れた雑巾を力一杯叩きつけたような、重く、湿った音が響いた。
広場の歓声が凍り付く。
鳩たちが驚いて飛び去った後には、首があり得ない方向に曲がり、口から大量の血を吐き出した枢機卿の死体だけが残されていた。
静寂。
誰もが事態を呑み込めず、呆然と立ち尽くす中。
噴水の縁で、ネロはパタリと本を閉じた。
「……Q.E.D.(証明終了)」
小さく呟くその声は、熱狂的な歓喜も、陰鬱な罪悪感も含んでいない。
ただ、難解な数式を解き終え、答え合わせを済ませた数学者のような、静謐な冷たさだけがあった。
彼は懐からハンカチを取り出し、眼鏡の位置を直すと、騒ぎ始めた群衆に背を向けた。
死神の仕事は終わった。
あとは、残された人間たちが「悲劇的な事故」として処理するのを待つだけだ。
第4話 死神の報酬
大聖堂前広場は、蟻の巣をつついたような大パニックに陥っていた。
悲鳴、怒号、そして神への祈り。
墜落した枢機卿グルガーの遺体を取り囲むように、群衆が波打っている。遅れて到着した治癒術師たちが、すでに事切れた肉塊に対して無意味な蘇生魔法を唱え続けていた。
その喧騒から切り離された、薄暗い路地裏。
湿った石畳の上に、シスター・アリアはへたり込んでいた。
彼女の顔色は紙のように白く、胃の腑からせり上がってくる吐き気を必死に抑え込んでいる。
(死んだ。本当に、死んだ)
瞼の裏に焼き付いているのは、落下する枢機卿の姿と、地面に叩きつけられたあの湿った音。
つい数分前まで、絶対的な権力と神の加護を誇っていた怪物が、まるでゴミ屑のように処理された現実。
「……ほ、本当に……」
声が震える。
自分の依頼が、世界を変えてしまったという恐怖。
「ええ。第二頸椎の粉砕骨折、および脳挫傷。即死です」
闇の奥から、平熱の声が響いた。
ネロが、足音もなくそこに立っていた。
広場の混乱の中を通り抜けてきたはずなのに、その黒いスーツには乱れ一つなく、埃すらついていない。彼は懐から取り出したハンカチで、眼鏡のレンズを丁寧に拭っていた。
「ま、魔法も使わずに……どうやって? 結界は? 神罰は下らなかったの?」
アリアは縋るように問いかけた。
信じられなかったのだ。
あれほど強固だった【聖域】が、何一つ発動しなかったことが。
「言ったはずです。あれはただの『不幸な事故』だと」
ネロは眼鏡を掛け直し、アリアを見下ろした。
その瞳の奥にある冷徹な理性に、アリアは背筋が凍る思いがした。
この男は、殺人に対して高揚感も罪悪感も抱いていない。ただ、事務処理を終えた役人のように淡々としている。
「鳩に餌をやり、掃除のコツを教え、独り言を言っただけ。……この国の法律のどこをどう解釈しても、私を裁く条文は存在しません。神でさえ、私を『殺人者』とは定義できない」
「あ、あんたは……人間、なの?」
「コンサルタントですよ。……さあ、報酬を頂きましょうか」
ネロが白い手袋をした掌を、無造作に差し出す。
アリアは弾かれたように懐を探り、古びた羊皮紙の束を掴み出した。
大聖堂の地下深くに眠る、旧時代の魔導配管図。
かつてこの国を支えていた古代インフラの全貌が記された、禁断の地図。
それを手渡した瞬間、アリアは感じた。
自分は今、金貨などより遥かに危険な「凶器」を、この男に渡してしまったのではないか、と。
「……契約完了ですね」
ネロは図面の中身を一瞥し、満足げに頷くと、懐へと収めた。
そして、何事もなかったかのように踵を返す。
「ま、待って!」
アリアは衝動的に声を上げた。
恐怖と、そして奇妙な感謝が入り混じった感情で。
「あんた、これからどうするの!? こんなことをして、ただで済むわけが……」
「この街で小さな店を開きますよ。古書店、兼、よろず相談所をね」
男は一度も振り返ることなく、片手を挙げて答えた。
「この王都には、掃除が必要な『汚れ』が、グルガー以外にも山ほどありますから」
ネロの姿が、路地裏の深い闇へと溶けていく。
後に残されたのは、雨上がりの湿った空気と、遠くから聞こえる群衆の悲鳴。
アリアは、自分が悪魔と契約し、そしてその悪魔を野に放ってしまったことを悟り、震えながら十字を切った。
第5話 探偵の証明
事件発生から30分後。
現場検証のため完全封鎖された大聖堂のバルコニーに、軍靴の音が鋭く響き渡った。
「――どいて。邪魔よ」
立ち尽くす衛兵たちを押しのけ、黄色い規制線を潜り抜けてきたのは一人の女性だった。
帝国の異端審問官、シルヴィア・ローゼンバーグ。
燃えるような赤髪を高い位置で縛り、漆黒の軍服を隙なく着こなす彼女は、若くして「魔女狩り将軍」の異名を持つ、帝国最強の捜査官である。
「シ、シルヴィア様! ここはまだ検証中で……現場は混乱しており……」
「うるさい。あなたたちの『検証』なんて、どうせ『不運な転落事故』で処理するつもりでしょう?」
シルヴィアは鼻を鳴らし、怯える部下たちを一蹴した。
彼女はバルコニーの中央まで歩み寄ると、青い瞳を細め、現場に残された痕跡を精査し始めた。
砕け散った最高級ワインのボトル。
床に広がる赤黒い染み。
手すりにこびりついた鳩の糞。
一見すれば、不運が重なっただけの事故現場だ。だが、シルヴィアの「直感」と「論理」が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていた。
(……違和感がある。美しすぎるのよ、この死に様は)
彼女は膝をつき、テラテラと光る床の表面を凝視した。
手袋を外し、素手で床のぬめりを拭う。
そして、周囲の衛兵が息を呑む中、その指先を躊躇なく口に含んだ。
「……ッ、ぺっ」
舌を刺すような強烈な酸味。
「酢酸(お酢)の味。……それに、ワックスの油脂が分離して浮き出ている」
彼女の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい速度で組み合わさっていく。
なぜ、勤続20年のベテラン清掃員が、洗剤を混ぜるという初歩的なミスを犯したのか?
なぜ、歴戦の護衛隊長が、存在しない暗殺者に反応してワインを落としたのか?
そして極めつけは――。
シルヴィアはバルコニーの隅、排水溝の近くに落ちていた「鳩の吐瀉物」を拾い上げた。
そこに含まれていた、未消化の赤い木の実。
「火炎樹の実。……南方のジャングルにしか自生しない強力な興奮剤。こんなものが、王都のど真ん中に落ちているはずがない」
シルヴィアは立ち上がり、眼下に広がる広場を睨みつけた。
背筋に、氷のような戦慄が走る。
これは事故ではない。ましてや、衝動的な犯行でもない。
「鳩の生理現象。ワックスの化学反応。護衛の心理的死角。……すべての『変数』を秒単位で計算し尽くして、枢機卿をここから突き落としたのね」
彼女には見えていた。
このバルコニーに張り巡らされていた、目に見えない巨大かつ精緻なピタゴラ装置と、それを操っていた何者かの指先が。
「グルガーのスキル【聖域】の発動条件は『悪意の感知』。……犯人はそれを逆手に取った。自分が手を下さず、物理法則(世界)そのものに殺させることで、神の目を欺いたんだわ」
シルヴィアは、大理石の手すりをギリと強く握りしめた。
石が軋む音が響く。
湧き上がってくるのは、怒りではない。
自分と同等、あるいはそれ以上の知能を持つ「獲物」を見つけた狩人のような、凶暴な歓喜だった。
「……面白い。力任せの魔法で無双するだけの馬鹿な犯罪者には、飽き飽きしていたところよ」
彼女は広場の雑踏の中に、すでに見えなくなった「死神」の背中を幻視していた。
黒いスーツの男。顔も名前も知らない、論理の怪物。
「名乗りもしない臆病者。……あんたが書いた数式、私がすべて解き明かしてやる。首を洗って待っていなさい」
遠くで雷鳴が轟いた。
雨上がりの王都の空の下。
知能と知能。
嘘と真実。
死神と名探偵の、命とプライドを賭けた長いゲームの幕が、今ここに上がった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
「チート能力を、物理法則と論理だけで攻略する」
そんな一人の犯罪コンサルタントの物語、楽しんでいただけましたでしょうか。
もし、「面白かった!」「続きが気になる!」「ざまぁ展開にスカッとした!」と思っていただけましたら、
下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に評価していただけると、執筆の励みになります!
(ブックマーク登録もぜひ……!)
皆様の応援が、ランキングを駆け上がるための最大の燃料です。
好評であれば、即座に「第2章:王都炎上編」へ突入します。
次は「直感(野生の勘)」を持つ最強の警務局長を、目に見えない「気体」で追い詰める頭脳戦です。
どうぞよろしくお願いいたします。
▼続きはこちら
聖域における「偶然」の確率論 魔力ゼロの犯罪コンサルタント
https://ncode.syosetu.com/n5730ls/




