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読切版 聖域における「偶然」の確率論 魔力ゼロの犯罪コンサルタント

作者: じょな
掲載日:2026/01/31


第1話 雨と計算式


 王都の最下層、第8スラム地区。

 都市の排泄物が流れ着くこの場所には、常に腐敗した生ゴミと、湿ったドブネズミの死骸の臭いが充満している。


 今夜は、とりわけ冷たい雨が降っていた。

 視界を遮るほどの豪雨が、路地裏の汚泥を叩き、少女の荒い呼吸音をかき消していく。


「……ハァ、ハァ……ッ」


 シスター・アリアは、泥水に濡れた修道服の裾を引きずりながら、廃ビルの陰に身を潜めていた。

 彼女の両手は、赤黒く錆び付いた一本のナイフを、祈るように握りしめている。

 その切っ先が震えているのは、寒さのせいではない。

 これから犯そうとしている「大罪」の重さに、魂が悲鳴を上げているからだ。


(神様なんて、いない)


 彼女は奥歯を噛み締め、視線を上げた。

 スラムを見下ろす高台、王都の一等地に、白亜の大聖堂がそびえ立っている。

 闇夜の中で、そこだけが神々しいライトアップに照らされ、淡い黄金色の光の膜――防御結界が展開されていた。


 あの中にいるのは、枢機卿グルガー。

 表向きは貧民救済を掲げる聖職者。だがその裏では、孤児院への支援金を横領し、立ち退きを迫り、逆らうシスターたちを私兵団に惨殺させた「神の代弁者」。

 アリアの育った孤児院も、明日には取り壊される。子供たちが奴隷商人に売り払われる未来が、すぐそこまで迫っていた。


(祈っても、何も変わらなかった。神様は見て見ぬふりをした)


 だから、私がやるしかない。

 この命と引き換えにしてでも、あの悪魔を――。


「……計算が間違っていますよ、シスター」


 不意に。

 雨音以外の「異質なノイズ」が、アリアの鼓膜を叩いた。


「ッ!?」


 心臓が早鐘を打つ。

 アリアは弾かれたように振り返り、ナイフを闇へと向けた。

 教会の私兵団か? それともスラムの強盗か?


 だが、そこに立っていたのは、そのどちらでもなかった。


 黒髪に、上質な素材で仕立てられた黒の三つ揃え(スリーピース)

 銀縁の丸眼鏡を掛け、革手袋をしたその男は、スラムの汚泥に革靴を浸しながらも、まるでそこだけ時間が止まったかのような静寂を纏っていた。

 傘も差さずに佇んでいるのに、なぜか彼のスーツは濡れていないように錯覚させるほど、その立ち振る舞いは優雅だった。


「だ、誰……? 教会の追っ手?」


「いいえ。しがないコンサルタントですよ。名前はネロ」


 男――ネロは、怯えるアリアには興味を示さず、彼女が握りしめるナイフだけに視線を注いだ。

 その眼差しは、人間を見る目ではない。

 実験動物を観察する科学者のように、無機質で、冷徹な解析の光を宿していた。


「そのナイフの素材は、第三期採掘層の屑鉄ですね。精錬技術が未熟な時代の代物だ。赤錆による深層腐食で、分子結合はボロボロ。モース硬度は4.5……いや、4.2といったところか」


「な、何を言って……」


「それでは、枢機卿を守る結界はおろか、彼が着込んでいる最高級絹の法衣すら貫通できません。刺した瞬間、刃が砕けて終わりです」


「う、うるさい! あんたに関係ないでしょ!」


 図星を突かれ、アリアは絶叫した。

 分かっている。こんな錆びたナイフで、国の中枢にいる怪物を殺せるはずがないことなど。

 それでも、これ以外に縋るものがなかったのだ。


 ネロは表情一つ変えず、懐から純白のハンカチを取り出し、眼鏡のレンズについた微細な水滴を丁寧に拭った。


「枢機卿グルガーのユニークスキル【聖域(サンクチュアリ)】。半径5メートル以内の『害意を持つベクトル』を自動感知し、斥力場で弾き返す自律防衛システム。……過去、S級の暗殺者が放ったミスリルの矢でさえ、彼の肌に触れることなく空中で分解されました」


 彼は眼鏡を掛け直し、アリアを見下ろした。

 レンズの奥の瞳が、雨の冷たさよりも冷酷に、現実という名の氷柱を突き立てる。


「正面突破の成功率は、0.00001%以下。それは勇気ではありません。ただの感情的な自殺です」


「……っ、う、あぁ……!」


 アリアの膝から力が抜け、泥水の中に崩れ落ちた。

 ナイフが手から滑り落ち、悲しい音を立てる。

 正論だった。あまりにも正しい、救いのない事実だった。


「じゃあ……どうすればいいのよ……! あいつが生きてる限り、子供たちは……みんな売り飛ばされる! 私が刺し違えるしか、方法がないじゃない!」


 涙が溢れ、雨と混ざり合う。

 慟哭する少女を見下ろしながら、ネロは小さく溜息をついた。

 そして、革靴のつま先で、落ちたナイフを転がす。


「方法なら、ありますよ」


 その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして低く響いた。


「え……?」


「なぜ、殺そうとするのです? 『殺す』という行為には、必ず殺意――すなわち『悪意』が伴う。だから【聖域(サンクチュアリ)】に感知される」


 ネロは一歩、アリアに近づいた。

 彼の影が、少女を覆い尽くす。


「ならば、『死なせれば』いい」


「死な、せる……?」


「病死、老衰、あるいは――あまりにも不幸な事故。重力、摩擦、化学反応、エントロピーの増大。……自然界の物理法則に、『悪意』など存在しません。神の加護は『敵』を防ぎますが、『運命』までは防げない」


 アリアは息を呑んだ。

 目の前の男が言っていることの意味が、理解できなかった。

 いや、理解することを本能が拒絶していた。

 この男は、殺人を犯そうとしているのではない。

 もっと恐ろしい、世界の「ルール」そのものを書き換えようとしているのだ。


「私に依頼なさい、シスター。物理的な暴力ではなく、論理的な死を彼にプレゼントしましょう」


「あ、あんたは……何者なの……?」


「申し上げたでしょう。コンサルタントです。……解決不可能な問題を、最適なロジックで処理する専門家」


 ネロは白い手袋をした掌を、スラムの泥に塗れた少女へと差し出した。


「報酬は金貨ではありません。あなたが孤児院の地下書庫で見つけたという、大聖堂の『旧・地下配管図』。……あれを頂きたい」


 アリアは戦慄した。

 なぜ、この男はそれを知っているのか。

 あの図面は、孤児院の院長が隠し持っていた、数百年前の王都のインフラが記された禁書だ。誰にも話していないはずなのに。


(この人は、最初から知っていたんだ。私がここに来ることも、失敗することも、図面のことも)


 それは、神のような全能感か。あるいは、悪魔のような狡猾さか。

 だが、アリアに選択肢はなかった。

 子供たちの未来を守れるなら、この魂を悪魔に売っても構わない。


 彼女は震える手で懐を探り、羊皮紙の束を取り出した。

 そして、ネロの手袋の上に置く。


「……助けて。子供たちを、助けてください」


「ええ。契約成立です」


 ネロは図面を一瞥し、満足げに懐へと収めた。

 そして、踵を返す。


「明日の正午。大聖堂の広場で、素晴らしいショーをお見せしましょう。……神が作りたもうた物理法則が、いかに残酷で、公平かというショーをね」


 男は闇の中へと歩き出した。

 その背中は、一度も振り返ることなく、雨の向こう側へと溶けていく。


 後に残されたアリアは、泥の中でただ祈るしかなかった。

 自分が解き放ってしまった「怪物」が、標的だけを食い殺してくれることを。


 雨はまだ、降り止まない。

 だが、王都を支配する腐った秩序は、明日、確実に崩壊する。

 死神の書いたシナリオ通りに。


第2話 変数のセットアップ


 翌日。

 王都は、年に一度の「聖誕祭」の熱気に包まれていた。

 大聖堂前の中央広場には、早朝から数千の民衆が押し寄せ、屋台から漂う肉を焼く香ばしい匂いと、安酒の酒精、そして人々の熱気が混ざり合い、一種異様な喧騒(けんそう)を生み出している。


 その光と音の渦の最後尾。

 広場全体を見渡せる噴水の縁に、ネロは腰を下ろしていた。


 黒のスーツに身を包んだ彼は、祭りの熱狂から完全に切り離された異物のように見える。

 膝の上には、一冊の分厚い書物が開かれていた。

 タイトルは『流体力学と界面活性剤(サーファクタント)の応用』。

 傍から見れば、祭りの最中に研究に没頭する変わり者の学者だ。だが、銀縁眼鏡の奥にある双眸は、文字ではなく、広場の「空気」そのものを読み解いていた。


(気温24度。湿度68%。南南東の微風、風速1.2メートル。……変数(パラメータ)は想定の範囲内だ)


 ネロは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、視線を上げた。

 広場の最奥、大聖堂のバルコニー。

 正午の演説を行うため、そこに現れるはずの標的――グルガー枢機卿の姿を探す。


 いた。

 バルコニーに出て、演説の予行演習を行っている肥満体の男。

 ネロの「観察眼」が発動する。

 網膜に映る景色が、瞬時に数値と情報のタグへと分解されていく。


『対象:グルガー(推定体重112kg)』

『歩行分析:左足に重心の偏り。痛風の兆候あり』

『精神状態:極度の緊張。32秒ごとに首元の汗を拭う動作。視線は定まらず、常に「足元」と「群衆」を往復している』


(……豚が肥え太るには理由がある。彼はストレスを、過食と異常な清潔への執着で埋めているわけだ)


 グルガーの周囲には、陽炎のように揺らめく淡い光の膜が見えた。

 スキル【聖域(サンクチュアリ)】。

 物理的な矢も、魔力の刃も、彼に届く前に「悪意」を感知され、消滅する。

 まさに神の盾。

 だが、ネロにとってそれは、攻略しがいのあるセキュリティシステムに過ぎない。


「……さて。最初のドミノを置きに行きましょうか」


 ネロは本を閉じ、立ち上がった。

 彼が向かったのは、広場の隅で異国のスパイスや木の実を売っている露店だった。


「いらっしゃい! 珍しい木の実があるよ! 南方のジャングル直送だ!」


 陽気な店主が声を張り上げる。

 ネロは商品棚を一瞥し、瓶詰めされた赤黒い木の実を指差した。


「これを一袋いただけますか。『火炎樹の実』ですね」


「おっ、旦那、目が高いね! こいつは料理の隠し味に使うと最高だ。ただ、入れすぎには注意しな。辛いってレベルじゃねえ、口から火が出るぞ」


「ええ、知っています。……鳥類の生態研究に使おうと思いましてね」


「研究? 変わった客だなぁ」


 店主は笑いながら、紙袋いっぱいに実を詰めて渡した。

 ネロは代金を支払い、人混みを離れる。

 紙袋の中で、乾燥した実がカサカサと乾いた音を立てた。


 火炎樹(フランボワ)の実。

 そのカプサイシン濃度は、通常の唐辛子の50倍に達する。

 人間なら一口で失神する劇物だが、味覚受容体の構造が異なる鳥類は「辛味」を感じない。

 しかし、感じないだけで、体内には確実に吸収される。

 摂取から約15分後。代謝によって急激な体温上昇を引き起こし、鳥は強烈な「渇き」と「興奮」に襲われることになる。


 ネロはバルコニーの真下、大聖堂の給水塔の陰に立ち止まった。

 そこには、観光客のこぼしたパン屑を目当てに、数百羽の鳩が群がっていた。


「……たくさんお食べ。君たちが今日の主役だ」


 彼は革靴の踵で実を踏み砕き、粉末状にしてから地面に撒いた。

 鳩たちが一斉に群がり、赤い粉をついばんでいく。

 ネロはその様子を数秒だけ冷ややかに見つめ、すぐに背を向けた。


(タイマーセット。潜伏期間は15分。12時01分に効果が発現する)


 第一段階、完了。

 次は、この計画の要となる「処刑台」の設置だ。


 ネロは人混みを縫うように歩き、大聖堂の通用口付近へ近づいた。

 そこには、一人の老婆がいた。

 教会の清掃員だ。彼女は腰を曲げ、バルコニーへ続く大理石の床を磨く準備をしていた。

 その表情には、疲労と焦りの色が濃く滲んでいる。


(連日の祭りの準備で睡眠不足。加えて、上司からの理不尽なノルマ。……思考力は低下し、判断能力は著しく鈍っている)


 ネロは、彼女の背後10メートルの距離で足を止めた。

 周囲は祭り太鼓と歓声で満ちている。

 普通なら、声など届くはずもない距離。

 だが、ネロには「武器」があった。


 Fランクスキル【助言(ウィスパー)】。

 攻撃力皆無。防御力皆無。

 ただ、「特定の音域」に対象の脳波を同調させ、言葉を深層意識に滑り込ませるだけのゴミスキル。

 しかし、使い方次第で、それは最強の洗脳ツールとなる。


(ターゲット、ロック。……脳のセキュリティホールへ侵入する)


 ネロは口元だけで、音のない言葉を紡いだ。


「――助言(ウィスパー)


 音が、指向性を持った弾丸となって飛ぶ。

 老婆の耳ではなく、脳髄へ直接響くような、甘く、親切な囁き。


『……奥さん。今日の汚れはしつこいですね』


 老婆の手がピタリと止まる。

 彼女は顔を上げ、キョロキョロと周囲を見回した。

「……え? 誰だい?」

 雑踏にかき消され、声の主は見つからない。

 ネロはタイミングを見計らい、彼女が「気のせいか」と思考を切り捨てようとした瞬間に、畳み掛ける。


『そのワックスだけじゃ、日が暮れてしまいますよ。……腰に下げている“お酢”を少し混ぜると、驚くほど楽に落ちます』


 それは、老婆が腰にぶら下げていた、石像洗浄用の「酸性洗剤(酢酸)」のことだった。

 彼女の疲弊した脳は、その提案を「外部からの声」ではなく、「自分自身の閃き」あるいは「天啓」だと誤認する。

 楽になりたい。早く仕事を終わらせたい。

 その欲求が、論理的思考を停止させた。


「……そういえば、昔そんな裏技を聞いたような気もするねぇ」


 老婆は独りごちると、震える手で酸性洗剤の栓を抜き、床磨き用のバケツにドボドボと注ぎ込んだ。

 バケツの中身は、アルカリ性の最高級ワックス。


 ボコッ、ボコボコッ。


 微かな泡立ちと共に、バケツの中で劇的な化学反応が始まった。

 酸とアルカリの中和反応。

 ワックスの乳化状態が破壊され、成分中の「油分」と「水分」が急激に分離していく。

 さらに、生成された(えん)の結晶が、微細なベアリングのように作用し始める。


 老婆はそれに気づかず、分離した液体をモップに吸わせ、バルコニーの床と手すりに塗りたくった。

 一見すると、床はピカピカに輝いているように見える。

 だが、その表面は今、油と水と結晶の層で覆われていた。

 摩擦係数0.05以下。

 それはもはや床ではない。人間が立っていられる限界を超えた、見えないスケートリンクだ。


(……完了(コンプリート)。処刑台は完成した)


 ネロは腕時計を確認する。

 秒針が、11時56分を刻んでいた。

 正午の鐘まで、あと4分。


 ネロは雑踏に紛れ、再び噴水の縁へと戻った。

 本を開き、何食わぬ顔でページをめくる。

 だが、その指先は微かにリズムを刻んでいた。

 死へのカウントダウンを。


 広場を埋め尽くす民衆も、得意げにバルコニーへ向かう枢機卿も、誰も知らない。

 この世界がすでに、一人の詐欺師によって書き換えられた「脚本」の上で動いていることを。


第3話 執行:マクスウェルの悪魔


 正午。

 王都の大時計が、重厚な鐘の音を響かせた。

 ゴーン、ゴーン――。

 その振動が合図であるかのように、大聖堂のバルコニーへの扉が開かれた。


 わあっ、と広場を埋め尽くす群衆からどよめきが上がる。

 現れたのは、煌びやかな法衣に身を包んだ巨漢、グルガー枢機卿だ。

 彼の周囲には、陽光を反射して淡く輝く黄金の膜――ユニークスキル【聖域(サンクチュアリ)】が展開されている。

 それは神の寵愛の証であり、あらゆる敵意を拒絶する絶対の盾。


「愛すべき子羊たちよ! この(きよ)らかな陽光を見よ! これぞ我らが信仰の輝きである!」


 グルガーが両手を広げ、よく通る声で演説をぶつ。

 その背後、影のように付き従う護衛隊長が、鋭い眼光で周囲を警戒していた。

 右目に黒い革の眼帯をした歴戦の騎士。

 戦場で右目を失った彼は、死角となる「右側」からの気配に対し、過剰なほど神経質になるよう訓練されている。反射神経レスポンスは常人の三倍。それが彼の強さであり、同時に――ネロが仕込んだ最大の「穴」でもあった。


 広場の噴水縁。

 ネロは腕時計の秒針を見つめていた。


(12時01分40秒……41秒……)


 世界がスローモーションのように感じられる。

 全ての要素ピースは盤上に揃った。

 あとは、指先で軽く弾くだけ。


(――時間タイムだ)


 バサバサバサッ!


 突如、広場の片隅から異様な羽音が沸き上がった。

 先ほどまで地面をついばんでいた数百羽の鳩が、狂ったように空へ舞い上がったのだ。

 火炎樹(フランボワ)の実の効果が発現した。

 カプサイシンによる急激な体温上昇。血液が沸騰するような熱さと、焼けるような喉の渇き。

 鳥たちの思考は、一つの欲求に塗り潰される。


『水! 水ヲ寄越セ!』


 彼らの眼下に、広場の噴水がある。だが、そこは人間の壁で埋め尽くされており、降り立つ隙間がない。

 本能が、別の水源を探知する。

 頭上。バルコニーの脇に設置された、なみなみと水を湛えた「儀式用の聖水盤」。


 ドッ、と黒い塊になった鳩の群れが、弾丸のようにバルコニーへ殺到した。


「な、なんだ!? この鳥どもは! 不潔な!」


 演説の最中に襲来した鳥の群れに、グルガーが素っ頓狂な悲鳴を上げる。

 バタバタという耳障りな羽音。舞い散る羽毛。そして空中から撒き散らされる糞。

 極度の潔癖症である彼にとって、それは生理的な拷問に等しい。


「シッシッ! あっちへ行け! 汚らわしい!」


 グルガーはパニックに陥り、顔を覆って無様に後ずさった。

 護衛たちが剣を抜こうとするが、相手は数百の小動物。斬り払うこともできず、混乱が広がる。


 その混沌の最中。

 ネロだけが静寂の中にいた。

 彼は口元だけで笑い、最後の一手を打った。


「……助言(ウィスパー)


 音の弾丸が、喧騒を縫って飛ぶ。

 標的は、混乱する護衛隊長の聴覚野。


『――右だ。短剣が見えたぞ』


「ッ!?」


 護衛隊長の身体が、思考よりも速く反応した。

 長年の戦闘経験が、右側の死角に対する恐怖を呼び覚ます。

 彼は存在しない暗殺者を弾こうと、右腕を大きく、鋭く振り払った。


 ガシャンッ!


 その鉄の手甲が、横に控えていた配膳係の手元を直撃した。

 係が持っていた銀のトレイ上の「最高級赤ワイン」のボトルが宙を舞う。

 重力に従い、落下。

 パリンッ、という硬質な音と共にボトルが砕け、真紅の液体が床にぶちまけられた。


 ここで、ネロが仕掛けた化学の罠が牙を剥く。


 床にはすでに、酸とワックスの反応で分離した「油膜」が張られている。

 そこへ大量の「水分ワイン」が乗る。

 油の上に水が浮く。タイヤと路面の間に水が入るのと同じ現象。


 ――水膜現象(ハイドロプレーニング)


 摩擦係数が限りなくゼロになる「死の潤滑領域」が、グルガーの足元に出現した。


「ひっ、あ……!?」


 鳩を避けようとステップを踏んだグルガーの革靴が、その領域に踏み込む。

 ツルッ。

 まるで氷の上、いや、空気を踏んだかのように、足元のグリップが消滅した。

 100キロを超える巨体が、慣性の法則に従って宙に浮く。


「なっ!?」


 世界が反転する。

 グルガーは必死に手を伸ばした。

 背後にある大理石の手すり。あれを掴めば助かる――!


 だが、その手すりもまた、清掃員の老婆によって丹念に、酸性洗剤とワックスの混合液でヌルヌルにコーティングされていた。


 ヌルリ。

 脂ぎった指が、何の手応えもなく滑る。

 重心が手すりの外側へ移動する。

 視界に映るのは、青い空と、驚愕に見開かれた民衆の顔。


(助けてくれ! 聖域(サンクチュアリ)ッ! なぜ発動しない!?)


 落下するコンマ数秒の間、グルガーは心の中で絶叫した。

 これまで数多の暗殺を防いできた絶対の盾。

 それが沈黙している理由が、彼には理解できなかった。


 だが、理屈は単純だ。


 床が滑ったのは「化学反応」。

 鳩が水を求めたのは「生理現象」。

 護衛が腕を振ったのは「条件反射」。

 そして彼が落ちるのは――地球の「万有引力」。


 そこには、ネロの指紋どころか、殺意の欠片さえ存在しない。

 ただの、あまりにも不幸で、あまりにもピタゴラス的な連鎖事故。

 悪意なき物理現象を、【聖域(サンクチュアリ)】は敵と認識しない。


「ギャアアアアアア――ッ!?」


 断末魔の悲鳴が、重力加速度によって引き延ばされる。

 10メートルの高さからの自由落下。

 受身も取れない巨体が、石畳へと激突する。


 グシャッ。


 濡れた雑巾を力一杯叩きつけたような、重く、湿った音が響いた。

 広場の歓声が凍り付く。

 鳩たちが驚いて飛び去った後には、首があり得ない方向に曲がり、口から大量の血を吐き出した枢機卿の死体だけが残されていた。


 静寂。

 誰もが事態を呑み込めず、呆然と立ち尽くす中。

 噴水の縁で、ネロはパタリと本を閉じた。


「……Q.E.D.(証明終了)」


 小さく呟くその声は、熱狂的な歓喜も、陰鬱な罪悪感も含んでいない。

 ただ、難解な数式を解き終え、答え合わせを済ませた数学者のような、静謐な冷たさだけがあった。


 彼は懐からハンカチを取り出し、眼鏡の位置を直すと、騒ぎ始めた群衆に背を向けた。

 死神の仕事は終わった。

 あとは、残された人間たちが「悲劇的な事故」として処理するのを待つだけだ。


第4話 死神の報酬


 大聖堂前広場は、蟻の巣をつついたような大パニックに陥っていた。

 悲鳴、怒号、そして神への祈り。

 墜落した枢機卿グルガーの遺体を取り囲むように、群衆が波打っている。遅れて到着した治癒術師たちが、すでに事切れた肉塊に対して無意味な蘇生魔法を唱え続けていた。


 その喧騒から切り離された、薄暗い路地裏。

 湿った石畳の上に、シスター・アリアはへたり込んでいた。

 彼女の顔色は紙のように白く、胃の腑からせり上がってくる吐き気を必死に抑え込んでいる。


(死んだ。本当に、死んだ)


 瞼の裏に焼き付いているのは、落下する枢機卿の姿と、地面に叩きつけられたあの湿った音。

 つい数分前まで、絶対的な権力と神の加護を誇っていた怪物が、まるでゴミ屑のように処理された現実。


「……ほ、本当に……」


 声が震える。

 自分の依頼が、世界を変えてしまったという恐怖。


「ええ。第二頸椎の粉砕骨折、および脳挫傷。即死です」


 闇の奥から、平熱の声が響いた。

 ネロが、足音もなくそこに立っていた。

 広場の混乱の中を通り抜けてきたはずなのに、その黒いスーツには乱れ一つなく、埃すらついていない。彼は懐から取り出したハンカチで、眼鏡のレンズを丁寧に拭っていた。


「ま、魔法も使わずに……どうやって? 結界は? 神罰は下らなかったの?」


 アリアは縋るように問いかけた。

 信じられなかったのだ。

 あれほど強固だった【聖域(サンクチュアリ)】が、何一つ発動しなかったことが。


「言ったはずです。あれはただの『不幸な事故』だと」


 ネロは眼鏡を掛け直し、アリアを見下ろした。

 その瞳の奥にある冷徹な理性に、アリアは背筋が凍る思いがした。

 この男は、殺人に対して高揚感も罪悪感も抱いていない。ただ、事務処理を終えた役人のように淡々としている。


「鳩に餌をやり、掃除のコツを教え、独り言を言っただけ。……この国の法律のどこをどう解釈しても、私を裁く条文は存在しません。神でさえ、私を『殺人者』とは定義できない」


「あ、あんたは……人間、なの?」


「コンサルタントですよ。……さあ、報酬を頂きましょうか」


 ネロが白い手袋をした掌を、無造作に差し出す。

 アリアは弾かれたように懐を探り、古びた羊皮紙の束を掴み出した。

 大聖堂の地下深くに眠る、旧時代の魔導配管図。

 かつてこの国を支えていた古代インフラの全貌が記された、禁断の地図。


 それを手渡した瞬間、アリアは感じた。

 自分は今、金貨などより遥かに危険な「凶器」を、この男に渡してしまったのではないか、と。


「……契約完了ですね」


 ネロは図面の中身を一瞥し、満足げに頷くと、懐へと収めた。

 そして、何事もなかったかのように踵を返す。


「ま、待って!」


 アリアは衝動的に声を上げた。

 恐怖と、そして奇妙な感謝が入り混じった感情で。


「あんた、これからどうするの!? こんなことをして、ただで済むわけが……」


「この街で小さな店を開きますよ。古書店、兼、よろず相談所をね」


 男は一度も振り返ることなく、片手を挙げて答えた。


「この王都には、掃除が必要な『汚れ』が、グルガー以外にも山ほどありますから」


 ネロの姿が、路地裏の深い闇へと溶けていく。

 後に残されたのは、雨上がりの湿った空気と、遠くから聞こえる群衆の悲鳴。

 アリアは、自分が悪魔と契約し、そしてその悪魔を野に放ってしまったことを悟り、震えながら十字を切った。



第5話 探偵の証明


 事件発生から30分後。

 現場検証のため完全封鎖された大聖堂のバルコニーに、軍靴の音が鋭く響き渡った。


「――どいて。邪魔よ」


 立ち尽くす衛兵たちを押しのけ、黄色い規制線を潜り抜けてきたのは一人の女性だった。

 帝国の異端審問官(インクイジター)、シルヴィア・ローゼンバーグ。

 燃えるような赤髪を高い位置で縛り、漆黒の軍服を隙なく着こなす彼女は、若くして「魔女狩り将軍」の異名を持つ、帝国最強の捜査官である。


「シ、シルヴィア様! ここはまだ検証中で……現場は混乱しており……」

「うるさい。あなたたちの『検証』なんて、どうせ『不運な転落事故』で処理するつもりでしょう?」


 シルヴィアは鼻を鳴らし、怯える部下たちを一蹴した。

 彼女はバルコニーの中央まで歩み寄ると、青い瞳を細め、現場に残された痕跡を精査(スキャン)し始めた。


 砕け散った最高級ワインのボトル。

 床に広がる赤黒い染み。

 手すりにこびりついた鳩の糞。

 一見すれば、不運が重なっただけの事故現場だ。だが、シルヴィアの「直感」と「論理」が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていた。


(……違和感がある。美しすぎるのよ、この死に様は)


 彼女は膝をつき、テラテラと光る床の表面を凝視した。

 手袋を外し、素手で床のぬめりを拭う。

 そして、周囲の衛兵が息を呑む中、その指先を躊躇なく口に含んだ。


「……ッ、ぺっ」


 舌を刺すような強烈な酸味。


「酢酸(お酢)の味。……それに、ワックスの油脂が分離して浮き出ている」


 彼女の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい速度で組み合わさっていく。

 なぜ、勤続20年のベテラン清掃員が、洗剤を混ぜるという初歩的なミスを犯したのか?

 なぜ、歴戦の護衛隊長が、存在しない暗殺者に反応してワインを落としたのか?


 そして極めつけは――。


 シルヴィアはバルコニーの隅、排水溝の近くに落ちていた「鳩の吐瀉物」を拾い上げた。

 そこに含まれていた、未消化の赤い木の実。


「火炎樹の実。……南方のジャングルにしか自生しない強力な興奮剤。こんなものが、王都のど真ん中に落ちているはずがない」


 シルヴィアは立ち上がり、眼下に広がる広場を睨みつけた。

 背筋に、氷のような戦慄が走る。

 これは事故ではない。ましてや、衝動的な犯行でもない。


「鳩の生理現象。ワックスの化学反応。護衛の心理的死角ブラインドスポット。……すべての『変数』を秒単位で計算し尽くして、枢機卿をここから突き落としたのね」


 彼女には見えていた。

 このバルコニーに張り巡らされていた、目に見えない巨大かつ精緻なピタゴラ装置と、それを操っていた何者かの指先が。


「グルガーのスキル【聖域(サンクチュアリ)】の発動条件は『悪意の感知』。……犯人はそれを逆手に取った。自分が手を下さず、物理法則(世界)そのものに殺させることで、神の目を欺いたんだわ」


 シルヴィアは、大理石の手すりをギリと強く握りしめた。

 石が軋む音が響く。

 湧き上がってくるのは、怒りではない。

 自分と同等、あるいはそれ以上の知能を持つ「獲物」を見つけた狩人のような、凶暴な歓喜だった。


「……面白い。力任せの魔法チートで無双するだけの馬鹿な犯罪者には、飽き飽きしていたところよ」


 彼女は広場の雑踏の中に、すでに見えなくなった「死神」の背中を幻視していた。

 黒いスーツの男。顔も名前も知らない、論理の怪物。


「名乗りもしない臆病者ファントム。……あんたが書いた数式、私がすべて解き明かしてやる。首を洗って待っていなさい」


 遠くで雷鳴が轟いた。

 雨上がりの王都の空の下。

 知能と知能。

 嘘と真実。

 死神と名探偵の、命とプライドを賭けた長いゲームの幕が、今ここに上がった。



最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


「チート能力を、物理法則と論理ロジックだけで攻略する」

そんな一人の犯罪コンサルタントの物語、楽しんでいただけましたでしょうか。


もし、「面白かった!」「続きが気になる!」「ざまぁ展開にスカッとした!」と思っていただけましたら、

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好評であれば、即座に「第2章:王都炎上編」へ突入します。

次は「直感(野生の勘)」を持つ最強の警務局長を、目に見えない「気体」で追い詰める頭脳戦です。


どうぞよろしくお願いいたします。


▼続きはこちら

聖域における「偶然」の確率論 魔力ゼロの犯罪コンサルタント

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