亡霊の願い
赤川達郎は隣町の大学に通っており、その通学の途中の道を歩いていた。すると目の前に40代半ばくらいの男が立っていた。よく見るとその男は目が虚ろでとても生気を感じられない。達郎は不気味に感じて早く通り過ぎようとした。
すると突然その男が、
「お兄さん、ちょっとだけ話を聞いてくれないか?」
と声をかけてきた。達郎はビジネスか宗教の勧誘か何かかと思い、
「すいません、ちょっと急いでますので」
と嘘をついて先へ進んだ。
「頼む、話を聞いてくれ」
その男は深々と頭を下げた。何か尋常ではない事態のようだ。さすがに達郎は聞かなければ悪いと思い、
「少しだけですよ」
と返答した。
「実は助けてほしい人がいるんだ。僕が片思いしている女性でね、その人の命を助けてほしい」
思っていたよりも面倒そうな話で戸惑いながらも達郎は話を続けた。
「まあ内容にもよりますが、できることならやりましょう。でその人は一体どういった理由で死ぬ可能性があるんですか?」
「ここからの話は信じてもらえるか分からない。もしかしたら僕のことを狂人だと思うかもしれないがそれでも信じてほしい。今から話すことは全て本当のことだ」
「分かりました。話してください」
「実は私はすでにこの世には存在しないのだ。いわゆる霊としてこの世に戻ってきている」
とんでもないことを口にする男に対し、達郎は呆れた顔をせざるを得なかった。
「ほらそういう顔をするだろう。信じてもらえないと思った」
「そうですね、時間の無駄になりそうなのでもう行ってもいいですか?」
「いや頼むよ、頼むから話を聞いてくれ。一生のお願いだ」
「あなたの一生はもう終わってるんじゃなかったんですか?」
「ああそうだった。そうなんだよ。俺はすでにこの世を生きていない。今特別にこちらの世界に足を運ぶ許可をもらっているんだ。だが信じられないだろ?それが当然の反応だ。だがこれを見てくれたら信じてくれるだろう」
すると突然男の輪郭が薄くなり始め、全身がぼやけ始めた。そのまま目の前で消えてしまってもおかしくないほどであった。さらによく見ればその男には影がない。達郎は恐る恐るその男に触れようとした。しかしその男にはいくら手を伸ばしても触れることができない。
「これで信じてもらえたか?」
「信じるのは信じましょう。それで僕は何をすればいいんです?」
「今日の午前10時43分20秒頃に、ここから最寄りの駅の前の交差点でトラックが突っ込み1人の女性が亡くなることになっている」
達郎は時計を見た。今は10時過ぎだから30分ほど後のことである。その交差点はここからすぐ着く。とはいえ時間はあまりない。
「それがあなたの好きな女性ですか?」
「そうだ。あの世では未来のことを知ることができる。そして僕はその事実を知り、急いでこちらの世界に戻ってきたというわけだ。しかしこちらにいられる時間は1時間だけだ。戻ってきたのは9時30分頃だから、10時30分頃には戻らないといけない。つまり事故が起きる時間には私は帰っていないといけないということだ」
「なるほどだから誰かに託すしかないというわけですか。しかしそれならその事故の時間にこちらにいれるように時間を調整して戻ってこればよかったでしょうに。そうしたら見ず知らずの人間に頼まずとも自分で助けられるでしょう?」
「もちろんそうしたかったさ。しかしこの世に戻れる時間は自分では選べない。予約制なんだ。申し込み時点ではもはやその時間しか空いていなかったんだ。だから僕は誰かに頼んで彼女を助けてもらうことにした」
予約とか申し込みとか、あの世もそんな現世のようなシステムで動いていると思うと死んでも案外退屈しないかもしれない、などと達郎は関係のないことを少し考えた。しかし目の前の亡霊が本気になって志を遂げようとしていることを思い出して、真剣な表情に戻った。
「帰ってきてからずっといろんな人間に声をかけまくったがだめだった。誰も言うことなど聞いてくれないし、気味悪がって離れていった。君がいてくれて本当によかった。どんな手を使うかは君に任せる。ちなみにその女性は30代半ばで身長は167センチほどだ。その時間に交差点を渡るのはその女性だけだから分かると思うが」
2人は交差点まで移動した。その途中、達郎は亡霊にさらにいろいろな質問を重ねた。
「その女性とはどんな関係だったんです?」
達郎はこれからの自分の行動には直接関係のない内容だが知りたいと思ったし、自分にはそれくらい知る権利があるはずだとも思った。
「どんな関係といっても喋ったこともない。その女性がどんな人で何をしているのかも知らない。名前さえ知らないさ。だがいつも電車で同じ車両になってな。それから気になっていたんだ」
知り合いですらない女性の死因を自分が死んでから調べ、その女性を助けるために亡霊になってまで舞い戻ってくる、何という執念深さであろうか。とはいえやろうとしていることは一応人助けである。非難はできない。
「僕は2年前に病気でこの世を去った。若いと思われるかもしれないが、もはやこの世には何の未練もなかったからそれでよかった。もちろん彼女には恋をしていたが、そんなものはどうせ叶わないことも知っていた。だが彼女がこれから死を遂げるということだけは許されない。あってはならないことなんだ。それさえ防げたなら私は何の思い残すことはない。成仏できる。」
「必ず助けます」
助けられなかったらこの男が時々化けて枕元に出てきそうな気がする、目の前の男の執念と情熱を前に達郎はそんな気にさせられた。
「ありがとう。君のような男がいてくれて本当に助かった」
そう言って男は達郎の手を握った。とはいえ握られた感触はない。そしてそのまま男は消えてしまった。どうやら期限の1時間が経ったようだ。全ては達郎に託された。
これから13分後、目の前の交差点にトラックが突っ込む。果たしてどのようにその女性を助けるべきか。その女性に対して「今からトラックが突っ込むから渡らないでくれ」と言っても信じてはもらえず、おかしな人だと思われてお終いだろう。それよりはその女性に声をかけて足止めする方がいいかもしれない。
時間が来てついにその女性が現れた。あの男の話からも、事故の時間から逆算しても間違いなかった。そして達郎からすれば都合の悪いことに彼女は急いでおり、小走りでこちらへと向かってくる。ほんの数秒でいい。それだけでも彼女を足止めできたら目的は果たされる。
「お姉さん、ちょっとご飯でも行きませんか?」
と言って達郎は彼女の前に立ち塞がった。午前中から小走りの女性にナンパをするなんて、本来なら達郎が心から軽蔑する行為であったが、今は人命救助が全てである。
「時間がないんです。どいてください」
彼女が強行突破しようとしたから、達郎は彼女の腕を掴んで引き止めた。もはやこうするより他に手段はなかった。するとこちらにトラックが走ってくるのが見えた。もう少しである。あのトラックが目の前の交差点に突っ込み終えるまでこの腕を離してはならない。仮に今「あのトラックが突っ込んでくる」などと言っても信じてはもらえないのだ。
「何をするんですか?あなたみたいな人は大嫌いです」
まさか自分が命の恩人であろうなどと彼女には分かろうはずもない。平素から人に迷惑をかけず生きようと決めている達郎は彼女の言葉に少し傷ついたが、それでも腕を離すわけにはいかなかった。命を助けるためなのだから仕方がない。善と悪とはときに紙一重なのである。
どうしても交差点を渡りたい彼女は全身で達郎にタックルして達郎はよろめき、不覚にも腕を離してしまった。彼女は交差点へと駆け出した。
「戻れ。行っちゃだめだ」
達郎は叫んだが、それが無駄なことにすぐに気づいた。こうなれば後ろから急いで追いかけて再度引き止めるしかない。
その時トラックが停止線で止まらず、交差点のド真ん中まで突っ込んできた。彼女が交差点を渡るほんの直前であった。ついに目的は果たされたのである。
そのトラックは交差点を抜けて少し先まで進んで急ブレーキを踏んだ。彼女は一瞬振り向いてこちらを睨みつけてから走って交差点を渡っていった。まさか自分がトラックのことを知っていて足止めしていたなどと思うはずがなく、自分は彼女の中でただの迷惑なストーカーに過ぎないに違いない。
達郎は空を見上げた。あの男は今の光景を見ていたのだろうか。きっと見ていたに違いない。彼女を救うことに全身全霊をかけていたのだから。すでにこの世にいないあの男だけは自分に感謝し続けてくれるのだろう。




