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第五章 距離の変化

商店街の取材から一週間後、志保は会社の企画会議で、大きな決断をした。


「この香水の企画、少し方向性を変えたいんです」


上司と同僚が、驚いた顔で志保を見た。


「どう変えるんだ?」


「『強く香る』ではなく、『そっと寄り添う』をコンセプトにしたいんです」


志保は、プレゼン資料を開いた。


「現代人は、香りに疲れています。満員電車でも、オフィスでも、強い香りに囲まれて。だから、私たちが提案するのは、『自分だけが気づく香り』です」


会議室がざわついた。これまでの志保の企画は、常に「目立つこと」「印象に残ること」を重視していた。


「橘さん、それ、売れるのか?」


「売れます。今、無香料製品の市場が伸びてます。でも、『香りが欲しい』という需要もある。その間を狙うんです」


上司は腕を組んで、じっと志保を見た。


「面白い。やってみろ」


会議が終わった後、同僚の美咲が駆け寄ってきた。


「志保さん、どうしたの? いつもと全然違う!」


「そう?」


「うん。なんか、柔らかくなった気がする」


志保は、窓の外を見た。


「猫のおかげかな」


「え? 猫カフェ、まだ通ってるの?」


「毎日」


「毎日!?」


美咲は目を丸くした。


「それって、もしかして……猫じゃなくて、人目当て?」


図星を突かれて、志保は慌てて否定した。


「違うよ! 猫に会いに行ってるの!」


「嘘だ。顔、真っ赤」


志保は、もう何も言い返せなかった。


その日の夕方、志保はいつものように「月と花」に向かった。


店に入ると、蓮がいつもの席にいた。でも様子が違う。パソコンに向かっているのではなく、窓の外をじっと見つめていた。


「蓮さん?」


声をかけると、蓮は顔を上げた。その表情は、どこか疲れているように見えた。


「志保さん」


「大丈夫ですか?」


「ええ……ちょっと、行き詰まってて」


志保は隣に座った。普段なら遠慮するところだが、今日は自然にそうしていた。


「何か、話せることなら聞きますよ」


蓮は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「志保さんに心配されるなんて、立場逆転ですね」


「最初は、蓮さんに助けてもらってばかりでしたから。今度は私の番です」


蓮は、膝の上に乗ってきた三毛猫を撫でながら言った。


「締め切りが近いんです。でも、最後の一章が、どうしても書けない」


「どんな話なんですか」


「自分を変えようとする女性の話です」


志保の心臓が、大きく跳ねた。


「それって……」


「モデルは、志保さんです」


蓮は、まっすぐに志保を見た。


「あなたが猫に嫌われて、でも諦めずに努力して、少しずつ変わっていく姿。それを小説にしました」


「私が……小説に」


「でも、最後が書けない。主人公が、どうやって幸せになるのか、見えないんです」


志保は、蓮の横顔を見つめた。彼は、いつも観察者だった。猫を見て、人を見て、世界を見て、それを言葉にする人。


でも今、彼は悩んでいる。答えを探している。


「蓮さん」


「はい」


「私、もう猫に嫌われなくなりました」


「ええ、知ってます」


「でも、それって、ゴールじゃなかったんです」


志保は、膝の上に乗ってきた「たま」を撫でた。


「最初は、猫に好かれることが目標でした。でも、本当に手に入れたものは、それだけじゃなかった」


「何を手に入れたんですか」


志保は、蓮を見た。


「自分のペースで生きる勇気、です」


蓮の目が、少しだけ見開かれた。


「ずっと、結果ばかり追いかけてました。効率的に、合理的に、正しく。でも、猫と過ごすようになって気づいたんです。人生って、もっと曖昧で、もっと柔らかいものなんだって」


志保は、窓の外を見た。夕日が、街を優しく染めている。


「蓮さんが教えてくれたんです。待つことも、観察することも、ただそこにいることも、全部大切なんだって」


「僕は、何も──」


「教えてくれました」


志保は、蓮の手に、そっと自分の手を重ねた。蓮は驚いて、志保を見た。


「蓮さんは、いつも観察者でいようとする。でも、本当は違うんじゃないですか」


「どういう……」


「蓮さんも、この物語の登場人物なんです」


志保の言葉に、蓮は息を呑んだ。


「私を観察してた蓮さんも、きっと何か変わったはずです。だって、私が変わるのを見てくれてたから」


蓮は、じっと志保を見つめた。その目には、いつもの冷静さではなく、何か別の感情が浮かんでいた。


「志保さん」


「はい」


「僕、あなたのことを──」


言葉が途切れた。蓮は、眼鏡を外して、顔を覆った。


「観察対象として見てたはずなんです。興味深い人だって。でも、いつの間にか──」


志保の胸が、激しく高鳴った。


「いつの間にか、あなたがいない日は、物語が書けなくなった」


蓮は、志保の手を握った。


「猫カフェに来る理由が、取材じゃなくて、あなたに会いたいからになってた」


志保は、涙が溢れそうになるのを堪えた。


「蓮さん……」


「好きです、志保さん」


蓮の言葉は、シンプルで、真っ直ぐだった。


「最初は気づかなかった。でも、あなたが笑ってるのを見るのが好きで、猫に触れられるようになって喜ぶ姿が愛おしくて。商店街を歩いてる時、隣にいるのが当たり前に感じて」


志保は、もう涙を堪えられなかった。


「僕も、物語の中に入ってたんですね」


蓮は、優しく微笑んだ。


志保は、握られた手を、ぎゅっと握り返した。


「私も、です」


「え?」


「私も、蓮さんのこと、好きです」


二人の間に、静かな時間が流れた。


猫たちは、そんな二人を見て、まるで祝福するように喉を鳴らした。

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