第四章 街歩きと新しい視点
約束の日は、秋晴れの土曜日だった。
待ち合わせ場所の駅前で、志保は何度も腕時計を確認した。デートじゃない、取材だ。そう自分に言い聞かせても、朝からクローゼットの前で一時間も悩んでしまった。
結局、薄手のベージュのニットに、デニムというシンプルな格好を選んだ。もちろん、香水はつけていない。
「志保さん」
後ろから声をかけられて振り向くと、蓮が立っていた。いつもの猫カフェではなく外で会うのは初めてで、志保は妙にドキドキした。
「どこに行くんですか?」
「商店街です」
「商店街?」
「新作の舞台が、昭和の雰囲気が残る商店街なんです。実際に歩いて、空気感を掴みたくて」
二人は駅から十分ほど歩いて、古い商店街に入った。シャッターが下りた店も多いが、まだ営業している八百屋や魚屋、喫茶店が点在している。
「ここ、良いですね」
志保が言うと、蓮が少し意外そうな顔をした。
「良いですか?」
「はい。なんだか、時間がゆっくり流れてる感じがする」
志保は、八百屋の店先に並ぶ野菜を眺めた。スーパーのように整然と並んでいるわけじゃない。でも、どれも新鮮で、生き生きしている。
「志保さんは、こういう場所、好きなんですか」
「実は、来たことなかったんです。いつもデパートかスーパーで買い物してて」
「それが普通です」
「でも、なんだか勿体なかったかも」
蓮は立ち止まって、志保を見た。
「変わりましたね、本当に」
「そうですか?」
「以前のあなたなら、『効率が悪い』って言ってたはずです」
志保は苦笑した。確かにその通りだ。三週間前の自分なら、この商店街を「非効率」だと切り捨てていただろう。
「猫のおかげかもしれません」
「猫?」
「猫と過ごす時間って、すごく非効率なんです。何も生産しないし、予定通りに進まない。でも、それが心地良い」
蓮は、少しだけ目を細めた。
「良い観察です。それ、小説に使っていいですか」
「え、本当に?」
「あなたの言葉は、リアリティがある。理屈じゃなくて、体験から出てきてるから」
志保の胸が、また熱くなった。誰かに、自分の言葉を認められるのは、こんなにも嬉しいものなのか。
二人は商店街を歩きながら、他愛もない会話を続けた。
蓮は、道端の植木鉢に咲く花や、看板の文字のデザイン、住宅の門構えなど、志保が見過ごしていたものを、次々と指摘した。
「小説家って、こんなに細かく世界を見てるんですね」
「見ようとしないと、見えないんです」
蓮は、古い喫茶店の前で立ち止まった。
「入りませんか」
店内は、昭和の香りが色濃く残っていた。赤いビニールのソファ、年季の入ったカウンター、壁に掛けられた手書きのメニュー。
二人は窓際の席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。
「蓮さんは、いつから小説を書いてるんですか」
「大学生の頃からです」
「最初から、売れたんですか」
蓮は首を横に振った。
「全然。最初の五年は、鳴かず飛ばず。アルバイトしながら、書き続けてました」
「それでも、諦めなかったんですね」
「諦める理由がなかったんです。書くことが好きだったから」
志保は、コーヒーカップを両手で包んだ。
「私、いつも結果ばかり気にしてました。『これをやれば、こうなる』って」
「それは悪いことじゃないです」
「でも、疲れちゃって。いつも何かに追われてる気がして」
蓮は、じっと志保を見つめた。
「猫カフェに来たのは、逃げたかったから?」
「最初は、そうかもしれません。でも今は──」
志保は、蓮の目を見た。
「今は、自分が変わりたいと思ってます。もっと、周りが見えるように。もっと、今を楽しめるように」
蓮は、少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、猫カフェに来て良かったですね」
「はい。蓮さんに会えたから」
言ってから、志保は顔を赤らめた。何を言ってるんだろう、私。
でも、蓮は驚いた様子もなく、コーヒーを一口飲んだ。
「僕も、志保さんに会えて良かったです」
「え……」
「あなたを観察してるうちに、久しぶりに小説が楽しくなった」
蓮は、窓の外を見た。
「人が変わる瞬間を、リアルタイムで見られるなんて、贅沢なことです」
志保は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
嬉しいけれど、少しだけ寂しい。蓮にとって、自分は「観察対象」なのだ。
でも、それでもいい。今は、隣にいられるだけで幸せだから。