第三章 観察者の視点
三週間目に入ると、志保は「月と花」のレギュラー客として、すっかり馴染んでいた。
店のオーナーである老婦人からは、「志保ちゃん」と呼ばれ、他の常連客とも顔見知りになった。そして何より、猫たちが少しずつ、志保に心を開き始めていた。
「たま」は志保の膝がお気に入りになり、茶トラの「マロン」も、志保が差し出した手の匂いを嗅ぐようになった。
「進歩してますね」
蓮が、いつものように原稿を書きながら言った。
「蓮さんのおかげです」
「いえ、あなたが頑張ったからです」
志保は頬を赤らめた。素直に褒められることに、まだ慣れていない。
「あの、聞いてもいいですか」
「何を」
「蓮さんは、なんで毎日ここに来るんですか。家で書いた方が、集中できるんじゃ……」
蓮は手を止めて、店内を見回した。
「ここには、物語があるからです」
「物語?」
「猫たちの関係性、お客さんの表情、オーナーさんの仕草。全部が、物語の種になる」
そう言って、蓮は志保を見た。
「あなたも、良い観察対象でした」
「対象って……」
志保は少しむっとした。
「最初、あなたを見た時、面白いなと思ったんです」
「面白いって、馬鹿にしてます?」
「いいえ。純粋に、興味深かった」
蓮は眼鏡を外して、レンズを拭き始めた。
「猫に全力で嫌われている人が、それでも諦めずに毎日通ってくる。しかも、自分の生活習慣まで変えて。普通、そこまでしませんよ」
「それは……癒されたかったから」
「本当に?」
蓮の問いかけに、志保は言葉に詰まった。
確かに最初は、仕事のストレスから逃れたくて、猫に癒されたかった。でも今は、違う気がする。
「もしかして、勝ちたかったんじゃないですか」
「勝つ?」
「猫に。自分に。『私には出来ない』っていう思い込みに」
志保は、はっとした。
そうかもしれない。仕事では常に結果を出してきた。でも、プライベートでは、いつも何かが足りない気がしていた。丁寧な暮らしに憧れても実践できない。料理教室に通っても続かない。ヨガも、読書会も、途中で挫折した。
「猫に好かれる」は、志保にとって、自分を変えるための挑戦だったのかもしれない。
「でも、変わりましたね」
蓮が言った。
「最初に会った時と、顔つきが違う。肩の力も抜けてる」
「そうですか?」
「ええ。今のあなたの方が、ずっと素敵です」
志保の心臓が、大きく跳ねた。
「素敵……って」
「猫も、そう思ってるはずです」
蓮は何でもないように、また眼鏡をかけて原稿に向かった。
志保は、膝の上の「たま」を撫でながら、胸の高鳴りを静めようとした。今の言葉は、ただの観察者としての感想なのか、それとも──
「志保さん」
顔を上げると、蓮がこちらを見ていた。
「今度、ここじゃない場所でも会いませんか」
「え……?」
「取材に付き合ってほしいんです。あなたの視点が、面白いから」
志保は、返事を探して口を開閉させた。これは、デート? 違う、取材。でも、二人で会う。
「いいですよ」
気づいたら、そう答えていた。
蓮は小さく微笑んだ。それは、猫カフェで見せるいつもの穏やかな表情とは、少しだけ違っていた。