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第二章 無香料な日々

翌日から、志保の特訓が始まった。


「まず、香水を全部捨ててください」


翌朝の「月と花」で、蓮の第一声がそれだった。


「全部!? でも、これは──」


「全部」


志保は泣く泣く、愛用していたホワイトフローラルの香水をバッグの奥にしまった。帰ったら、高級デパートで買った香水コレクションも、全部実家に送ろう。


「柔軟剤も?」


「無香料に」


「ボディクリームも?」


「無香料」


「シャンプーは?」


「できれば無香料。最低でも、微香性」


志保は愕然とした。化粧品メーカーで働く彼女にとって、「香り」は日常そのものだった。新商品の企画会議でも、「今年のトレンドフレグランスは──」という話題が必ず出る。


「でも、無香料って、なんだか寂しくないですか」


「猫に好かれたいんでしょ?」


蓮は、肩に乗っている白猫を撫でながら、淡々と言った。


「選択肢は二つ。香りを取るか、猫を取るか」


志保は唇を噛んだ。そして、決意を込めて頷いた。


「猫を取ります」


「そうですか」


蓮は少しだけ、口の端を上げた。それが彼なりの笑みだと、志保が知るのは、もう少し後のことだ。


その日から、志保の生活は一変した。


朝のルーティンから香水をつける時間が消えた。ドラッグストアで無香料の柔軟剤とボディソープを大量に買い込んだ。お気に入りだったハンドクリームも、無香料のものに変えた。


最初の三日間は、何度も自分の腕を嗅いで、「本当にこれで大丈夫なのか」と不安になった。でも、一週間も経つと、不思議なことに慣れてきた。


そして、変化が現れ始めた。


「あ」


猫カフェに通い始めて十日目。キジトラの猫が、志保の一メートル以内に留まった。逃げなかった。


「蓮さん! 見てください!」


窓際の定位置で原稿を書いていた蓮が、顔を上げた。


「良かったですね」


「でも、まだ触らせてくれません」


「そりゃそうです。まだ十日ですから」


「十日もですよ!」


「猫との信頼関係は、時間をかけて築くものです。あなた、仕事でも結果をすぐ求めるタイプでしょ」


図星だった。志保は営業の現場で、「スピードが命」と教えられてきた。


「猫は、待つことを教えてくれますよ」


蓮はそう言って、また原稿に視線を戻した。


志保は、その横顔をじっと見つめた。彼はいつも、こうして静かに言葉を紡いでいる。急がず、焦らず、ただ自分のペースで。


それが、猫たちが彼を好きな理由なのかもしれない。


「蓮さんって、小説家なんですよね」


「ええ」


「どんな作品を?」


「日常の話です。特別なことが起きない、普通の人たちの物語」


「それって、売れるんですか?」


言ってから、失礼なことを聞いてしまったと気づいた。でも、蓮は気にした様子もなく答えた。


「ぼちぼち」


「ぼちぼちって……」


「食べていけるくらいには。ベストセラーにはなりませんけど、読んでくれる人はいます」


志保は、蓮のノートパソコンの画面を覗き込もうとして、彼に手で遮られた。


「原稿は見せません」


「ケチ」


「当たり前です」


そんな他愛もないやり取りが、志保にとって新鮮だった。会社では、誰もが数字と結果を求めている。「ぼちぼち」なんて曖昧な言葉を使う人はいない。


「蓮さんは、焦らないんですね」


「焦っても、良いものは書けませんから」


蓮は、膝の上で丸くなっているロシアンブルーを撫でながら言った。


「猫も、文章も、急いで手に入るものじゃない。じっくり向き合って、初めて心を開いてくれる」


志保は、その言葉を胸に刻んだ。


二週間が過ぎた頃、ついにキジトラの「たま」が、志保の膝の上に乗ってきた。


「来た……来ました!」


志保は感動のあまり、涙ぐんだ。蓮は相変わらず原稿を書いていたが、ちらりとこちらを見て、小さく頷いた。


「おめでとう」


その一言が、妙に嬉しかった。

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