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第一章 猫に嫌われる女

「おかしい……」


橘志保は、膝の上に置いた両手を見つめながら、小さく呟いた。


ここは、オフィス街の裏路地にひっそりと佇む猫カフェ「月と花」。木の温もりを感じる店内には、十数匹の猫たちが思い思いの場所でくつろいでいる。休日の昼下がり、他の客たちは幸せそうに猫を撫で、写真を撮り、至福の時間を過ごしている。


なのに。


志保の半径一メートル以内には、一匹も猫がいなかった。


「どうして……」


入店してから既に四十五分。志保は店内を移動し、猫たちが集まる場所に行き、おやつまで購入した。それなのに、猫たちは彼女を見ると、まるで何かを察知したかのように、そそくさと距離を取るのだ。


「志保さん、大丈夫?」


同僚の美咲が、膝の上で丸くなっている茶トラ猫を撫でながら心配そうに声をかけてきた。その猫は、さっきまで志保の近くにいたのに、志保が手を伸ばした瞬間に逃げていったのだ。


「大丈夫……大丈夫じゃないかも」


志保は小さく肩を落とした。今朝、鏡の前で念入りにメイクをして、お気に入りのホワイトフローラルの香水をつけて、新調したばかりのニットワンピースを着てきた。完璧な準備だったはずなのに。


「もしかして、動物に嫌われる体質とか……?」


「そんなのあるわけ──」


言いかけて、志保は言葉を呑み込んだ。実は心当たりがある。子供の頃、近所の犬に吠えられたことがあった。友人の家のインコにも威嚇された。でも、それは偶然だと思っていた。


ふと、視線を感じて顔を上げると、窓際の特等席で、一人の男性がこちらを見ていた。


いや、正確には「こちらを見ていた」というより「観察していた」という表現の方が正しい。色素の薄い髪に黒縁眼鏡、シンプルなベージュのニット。その膝の上には三匹、足元には二匹、肩には一匹と、まるで猫のタワーのように猫たちが群がっている。


男性は志保と目が合うと、少しだけ眉を上げて、またノートパソコンに視線を戻した。


「あの人すごいね」美咲が小声で言った。「まるで猫の王様みたい」


志保の胸に、妙な闘争心が湧き上がった。


同じ人間なのに、どうしてあんなに差があるのだろう。彼に出来て、私に出来ないことなんて、あるはずがない。志保は営業企画部で二年連続MVP。困難なプロジェクトも、緻密な計画と努力で必ず成功させてきた。


猫だって、きっと同じはずだ。


「すみません」


志保は立ち上がり、猫たちを掻き分けて(猫たちは露骨に嫌な顔をした)男性に近づいた。


「あの、ちょっとお聞きしたいんですが」


男性は顔を上げた。近くで見ると、思ったより若い。三十代前半だろうか。切れ長の目が、静かに志保を見つめている。


「猫に好かれる秘訣を、教えていただけませんか」


「秘訣?」


低く落ち着いた声だった。


「はい。私、どうしても猫に好かれたくて。でも全然近づいてきてくれないんです。あなたみたいに、猫に好かれる方法を知りたいんです」


男性は少しの間、志保を見つめた後、膝の上の三毛猫を優しく下ろした。


「香水、何使ってます?」


「え?」


「それと、柔軟剤。服から、かなり強い香りがする」


志保は思わず自分の袖口を嗅いだ。今朝、念入りに香水をつけたし、洗濯には新発売のプレミアム柔軟剤を使った。良い香りのはずなのに。


「猫は、強い匂いが苦手なんです。特に人工的な香料は」


「でも、良い香りって、人に好感を……」


「猫は人じゃない」


男性はあっさりと言い切った。


「猫に好かれたいなら、まず香水をやめること。柔軟剤も無香料に変える。それから──」


男性は志保の立ち姿を見て、続けた。


「もっとリラックスしてください。今のあなた、すごく緊張してる。その緊張が猫に伝わってる」


「緊張なんて──」


「してます。肩に力が入ってるし、呼吸も浅い」


図星を突かれて、志保は言葉に詰まった。


「あと、猫を見る時の目つきも、少し怖い」


「怖い!?」


「真剣すぎるんです。猫からしたら、獲物を狙う捕食者みたいに見える」


志保は思わず美咲の方を見た。美咲は必死に笑いを堪えている。


「つまり私、猫に……」


「嫌われる要素、全部揃ってますね」


男性は悪気なく、事実を淡々と述べた。


志保の脳裏に、今朝の自分の姿が浮かんだ。香水をたっぷりつけて、「今日こそ猫を撫でる!」と意気込んで、ギラギラした目で猫を追いかけていた自分。


完全敗北だった。


「あの……お名前、聞いてもいいですか」


「月島蓮」


「月島さん、お願いします」


志保は深々と頭を下げた。


「私に、猫に好かれる方法を教えてください。弟子にしてください!」


周囲の客たちの視線が、一斉に志保に集まった。蓮は少しだけ困ったような表情を浮かべて、眼鏡のブリッジを押し上げた。


「別に、弟子とか、そういうんじゃ……」


「ここ、週に何回来られるんですか?」


「毎日」


「じゃあ、私も毎日来ます! 観察させてください!」


蓮は小さくため息をついた。そして、膝の上に戻ってきたサバトラ猫を撫でながら、ぼそりと呟いた。


「面白い人だな……」


志保には聞こえなかった。彼女はすでに、スマホのカレンダーアプリを開いて、「猫カフェ通い」の予定を入力し始めていた。

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