違和感を"感じる"
街の喧騒の中に紛れて生きていると、言葉というものが無数に散らばっていることに気づく。
それは看板に書かれた広告であったり、電車内の吊り下げ広告であったり、あるいはスマートフォンの画面の中で絶え間なく流れてくる投稿であったりする。
そして、その中には必ずと言っていいほど「訂正の言葉」が混じっている。
違和感というのは本来、感じるものではなく覚えるものだ。
そうした文を目にするたび、立ち止まってしまう。
なぜなら、それを声高に主張する人ほど、別の場所で別の誤りを無自覚に使っていることを、僕は知っているからだ。
思い返してみれば、「一生懸命」を「一所懸命」と書き直す人を、ほとんど見たことがない。
けれど、どちらも歴史的には使われてきた言葉であり、意味合いの違いがあれど、どちらが完全に誤りというわけではない。
それなのに、ある一部の言葉だけが集中的に訂正の対象になるのは、どこか歪で、不思議な光景に映る。
同じように、「職人気質」を「きしつ」と読む人に、「いや、それは“かたぎ”だ」と訂正する人も滅多にいない。
それはきっと、多くの人にとって大したことではないからだ。
だが、不思議なことに、人は自分が知っていることだけは執拗に指摘したがる。
その偏った正しさが、SNSという広大な場に出ると、とたんに鋭い刃のように光り出す。
SNSが発展した時代、人は自分の知識を誇示する場所を手に入れた。
自分の理解している範囲においては、誰よりも正しいと言い張れる。
そして、それを振りかざすことで、自分という存在を確かめようとしているように見える。
けれど、よく考えてほしい。
本当に正しい人間など、この世に存在するのだろうか。
僕も、君も、どこかで間違った言葉を使っているはずだ。
それに気づかないだけかもしれないし、あるいは、気づこうとしないだけかもしれない。
人は生きる中で、膨大な数の言葉を覚えていく。
しかしその一方で、必ず取りこぼし、必ず思い違いを抱えていく。
それは避けられないことだ。
そして、不完全さを抱えたまま続いていくのが、人間の姿なのだと僕は思う。
だから、他人の一つ一つの言葉を、鬼の首を取ったように訂正するのは、どこか虚しい行為に映る。
その訂正が本当に誰かを救っているのか。
あるいは、自分が気持ちよくなるためにしているだけではないのか。
そう考えると、胸の奥に嫌悪感がじわりと広がっていく。
正しさを盾にした人間ほど、実際には誤りの影を背負っている。
間違った人間が、間違った人間を正そうとする。
その姿は、滑稽であると同時に、痛々しい。
どうか、他人の言葉を訂正する前に、自分の中の不完全さを見つめてほしい。
君もまた、どこかで間違えた人間なのだから。
だから、言葉を刺すように訂正するのはやめた方がいい。
人は誰しも間違える。
正しさを誇示するためにではなく、不完全さを抱えたまま、静かに語り合えればそれでいい。
そしてもしも誰かの言葉に小さな誤りを見つけたときは、どうか指摘する前に立ち止まってみてほしい。
それを直すことが本当に必要かどうか。
その訂正が、相手を傷つけるだけのものではないかどうか。
その答えを心に探してからでも、遅くはないのだから。