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だれも、しらない

作者: あげは凛子

だれも、しらない


 祠・神を祀るための小規模な建物や場所、または神を祀る行為。


 小さな村から始まった、ほんの些細な出来事が、やがて世界を閉じてしまう。

 祠という概念を人々が忘れ去った時、世界には何が起こるのか。

 それは、だれもしらない。

 

 その小道が一体いつからあったのか、さとるには思い出せなかった。


 いつも通りの通い慣れた学校の帰り道、何となく視線を向けたその先に、木々の間の隙間に、小さな獣道が見えた。


 周りには誰もいない。陽は傾きかけていて、冷たい風が覚の袖を揺らす。


 帰らなければ。そう思うのに、足が勝手に動いた。枯葉を踏み小枝を鳴らしながら覚は小道の奥へと入っていく。


 林の中はしんと静まりかえっていた。鳥も虫も、一切の音を立てない。そこだけがまるで覚の世界からぽっかりと切り離されているかのようだ。


 一歩、進む事に音が消えていく。林に入る前まで聞こえていた犬の鳴き声も、肌を撫でていたあの冷たい風の音も、まるでこの場所に吸収されてしまったかのようだ。今は自分の足音すらも耳に届かない。


 林の中央に位置する場所にそれはあった。


 ——祠。


 小さくて古い、長い間誰の手も入っていないであろう苔むした石の祠だった。


 しめ縄は朽ち果て、屋根の石には今にも割れてしまいそうな程大きなヒビが入っている。何かを祀っていたはずの内部は扉も外れ、中を覗き込んでも黒ずんでいてよく見えない。


 覚が祠の前にしゃがみこむと、とうとう最後の風がやんだ。


 それはまるで世界が、星が呼吸を止めたかのようだった。


「……こんな所にこんなんあったっけ? ボロいなぁ。すぐに壊れんちゃう?」


 覚は小さく呟き、祠にそっと手を伸ばした。別に壊そうとした訳じゃない。誰がこんな所にこんなモノを置いたのか、不思議に思っただけだ。


 ところが覚の指先が祠に触れた瞬間——世界が揺れて何かが響き渡った。


 地震じゃない。もっと感覚的な何かだ。実際に揺れた訳でもないのに、身体の内側を何かが通り抜けていく。響いた音も耳で聞いた訳じゃない。身体で聞いた、音の無い音だった。


 はっと気づいた時には指先に触れた石の祠が『壊れて消えた』。


 覚は立ち尽くした。


 さっきまで祠があった場所にはもう地面しか無い。その地面もなぜだか酷く不安定に思える。


 ぞくりと背中を冷たいものが這い上がった。


 足をもつれさせ、転びそうになりながらも覚はその場を離れようと駆け出した。


 けれどようやく見慣れた道に戻りふと振り返ったその先に違和感を覚える。


 木々の枝の角度や陽の差し込み方、風のにおい。全部がほんの少しずつ、覚が知っている世界とはずれていたのだ。



 この世界は偽物だ。不意にそんな思いが脳裏をよぎる。



 覚は走って家に戻り、キッチンで天ぷらを揚げていた母に先ほど起こった事を告げた。


「おかん! あんな、あの学校の帰り道の林の奥にな、変な祠があって——」


 ところが覚の必死な形相を見ても母は笑いながら答える。


「ホコラ? 漫画かアニメの話?」

「ちゃうよ! 祠やってば! 石でできててな、中が黒くて空洞で……」

「……覚、あんたまた勉強もせんと変な動画ばっか見てんちゃうやろうね?」


 いつもならもう少し真面目に話を聞いてくれる母だが、今回ばかりはまるで会話が噛み合わない。


 その夜、覚は祠のことをノートに書き残そうとしたが、『ほこら』の文字を書いた瞬間、鉛筆の文字がにじんで潰れた。


 その光景に驚きながらも消えかけた文字を指でなぞりながら覚は考える。あの祠は本当にあそこにあったのか? 一体いつから?


 毎日通っていた場所。見慣れない突然現れた獣道。その先にあった小さな傷んだ祠。その祠に覚が触れた途端、祠は何の音も立てずに壊れて消えてしまった。


 もしかしたら夢か何かを見たのだろうか?


 でも確かに聞いたし感じたのだ。あのとき、音のない音を。揺れのない振動を。


 その夜、覚が眠りに落ちる直前、ふとある音が耳に響いた。それは風の音でも、家の軋む音でもない。何かが遠くで『外れた音』だった。


 

 自分の知らないこの世界にヒビが、最初の一筋が、入った気がした。



 翌日、覚はいつもよりもずっと早起きをして家を出た。辺りを見渡しながら学校までの道のりを注意深く観察するように。


 最初の違和感は学校での事だ。


 教室に入りいつものように後ろのロッカーにランドセルを置きに行こうとしたその時、ふと掲示板に貼ってある一枚の掲示物が目に止まった。


 それは来週行く社会科見学の栞だったのだが、行くはずだった神社の名前が、何故か空欄になっている。


 ここは元々空欄だっただろうか? はっきりとした記憶はないが、急遽行き先を変更したとも考えられるので、そこまで不思議には思わなかった。


 首を傾げながら席につき、一時間目の準備をしていると国語の先生が教室にやってくる。


 国語の教師は天然で、いつも何かボケるから覚も大好きだ。


「えー、ほんならこないだの続きからやな。53ページから秋山」

「はい」


 クラスメイトが立ち上がり教科書を掲げて読もうとするが、指定されたページを開いて首を傾げている。


 何かあったのかと思ってページをめくり確認すると、そこにあったであろう物語と挿絵がごっそりと消えていた。


「せんせー、ページが無くて読めませぇん」


 秋山の言葉に担任もページをめくり「落丁か?」などと言っているが、そんな事あるはずがない。このクラスになってもう半年以上も経つのに、全員の教科書からそこだけ消えていて今まで誰も気づかないなんてありえない。


 これだけのページが消えているのに、どうして誰も不思議がらない? どうして誰も気づかなかった? そもそもそこには何が書かれていた? 思い出せない。昨日受けた授業の続きなのに。


 まだ五年生の覚でさえこれだけの疑問が浮かぶのに、それでも教師やクラスメイト達はいつも通り授業を進めようとする。その光景が異様だ。


「まぁええわ。ほんなら今日はちょっとこの村の話しでもしよか。ここには昔から不思議な言い伝えが沢山あってな、昔この土地にはそれはもう高名な、なんやほれ、誰が住んでたんやったか……ああもう、歳やな! 言葉が上手いこと出てけぇへん!」


 担任の一言にクラスがドッと湧いた。


 この村の言い伝えは覚もよく知っている。この土地には昔、神様が降り立ったとされる場所があるらしいのだ。詳しい場所は知らないが、そこには何の概念も無いという。


「あかん。今日調子悪いな。そう言えばお前らはあれ参加するんか? ほれ、もうじき秋やんか。豊穣の踊り……なんやったかいな。あの、屋台やらが出る……」


 先生の言葉にクラスメイト達は首を捻っている。それは多分、豊饒祭の事だろう。盆踊りの事が言いたいのだと気付いた覚は、いつもの調子で先生に声をかけた。


「せんせー、しっかりしてやー! 秋祭りやんか! 盆踊りの事やろ?」


 ところが覚の言葉を聞いて先生もクラスメイトも変な顔をしている。


「なんや、それ」

「なんやって……いや、だから盆踊り……」

「盆持って踊るんか? どんな踊りやねん!」


 その言葉にまたクラスが沸いたけれど、覚は笑えない。


 どうやら先生もクラスメイトも、盆踊りや秋祭りの事を単語ごとすっかり忘れ去ってしまっているらしい。そしてその事を覚だけが自覚している。


 その事に確信を持ったのは、休憩時間の時だった。


 覚は昼休み、それとなくクラスの連中に色んな言葉を聞いて回った。


 すると、誰も『祭り』や『神話』『神』などの言葉を一切合切忘れてしまっていたのだ。


 急いで辞書を引いても無駄だった。どこにもそれらしい単語は記されていない。


 辞書の中の不自然に空いたスペースには、何かがあった名残だけがインクの滲みとして残っている。


 一体何が起こっているのか……途方に暮れたまま帰り道を歩いていると、顔なじみのおじさんとすれ違った。いつも農具を肩に担いでいて、子どもとすれ違うと挨拶してくれる気さくなおじさんだ。


「おう、覚か。気を付けて帰りやー」

「あ、はい」


 突然話しかけられて当たり前のように返事をしたが、数歩歩いて勢いよく振り返ると、そこには誰も居ない。


 いや、おじさんの居た場所から影だけがゆったりと道路の上を滑るように移動していったかと思うと、角を曲がった所で煙のように消えてしまった。


「っ!」


 それに気づいた途端、覚は息が切れるまで家まで全力疾走し、家に着くなり今度は祖母の部屋に駆け込んでしがみつく。


「ば、ば、ばあちゃん! 農具のおっさんの、おっさんの幽霊見た!」


 あのおじさんは去年の暮れに亡くなったはずだ。確かシンキンコーソクとか言う心臓の病気だったと皆が話していた気がする。


 そんな覚に祖母は眉根を寄せて首を傾げた。


「ゆうれい? なんや、それ。ゲームか」

「……え?」


 祖母の一言に覚は固まり、部屋を見渡してまた違和感を覚える。その正体はすぐに気付いた。仏壇だ。


 毎朝、祖母はきっかり5時に近所迷惑だろ、と思うほどの大音量で仏壇に向かってお経をあげるのだが、その仏壇が無い。


「ばあちゃん……じいちゃんの仏壇は?」


 ありえない。祖母が仏壇を処分するなど、絶対にありえない。


 ドキドキと速くなる心臓を抑え込むように、覚は震える声で尋ねた。


「はあ? ぶつだん? 何を言うてるんや、さっきから。ぶつだんって何やのんな」

「じいちゃん祀っとった仏壇やんか! ボケたんか!?」

「誰がボケたや! アホ言うな! じいさんやったらそこに『在る』やろ!?」


 言われて祖母が指さした先を見て覚は短く叫んだ。


 そこには、祖父が確かに『在った』のだ。青白く透けた身体で、空虚な目でこちらをじっと何か言いたげに見つめている。その目はまるであの祠の中を覗いた時のように胸をザワつかせた。


 祖父は死んだ。覚が小学校に上がってすぐの頃に。


 またあの音の無い音が聞こえた。これは歪の音だ。覚と世界の認識がズレ始めた、何かに近づく音——。


 まだ瞼の裏に虚ろな祖父の顔が焼き付いているが、覚はそれでも部屋に戻りランドセルを下ろし、必死になっていつも通りの日常に戻ろうとしていた。


 いつもなら絶対に遊びに行くけれど、今日はそれも止めて机に向かうも、電気の所にかけてあったはずのお守りが無い。


 その事実から視線を逸らすように鉛筆を手に取ると、そこに突然誰か知らない人の顔が浮かび上がり、小さな悲鳴を上げて鉛筆を放りだした。


 ノートを開くのも怖い。何かを勝手に綴りだすかもしれない。部屋の中にさっきからしているこの気配はなんだ。


 聞こえるはずのない囁き声や、見えるはずのない死んだはずの人達。


 ところが自然の音だけが不自然に聞こえない。虫の声、風の音、それらが一切耳に入ってこないのだ。


 こうして、少しずつ少しずつ知らない世界は何かに侵食されはじめていた。


 生まれたばかりの赤ちゃんに、亡くなった親戚の顔が浮かんだの! と嬉しそうに話すお向かいの若い母親。


 公園の噴水に次から次へと浮かび上がる悲壮な顔。その顔の中に知り合いを見つけて気さくに挨拶をするおばさん。


 ベンチにはただ『在る』だけのお年寄りもいる。そこに何の躊躇いもなく座るカップル。


 幽霊という存在をこんなにも身近に感じる事になる日が来るなどとは、思っても居なかった。


 けれどこんな出来事はまだ序章にしか過ぎなかったのだ。

 

 昨日までは寒くてコートまで着ていたのに、今日はやけに暖かい。まるで春だ。


 テレビのニュースでも異例の暖かさだと報道していて、温暖化や環境のせいだとコメンテーター達が騒いでいた。


 けれどそんな事よりもずっと深刻な何かは今も進んでいて、しかもそれを誰も認知していない。


 やがてテレビから神社、仏閣のバラエティ番組が消えてしまった。


 最初は最近あんまりああいう番組って無いんだな、ぐらいの認識だった。


 とにかく仏閣系の番組が好きだった母親にはさぞかし寂しいだろう、と。


 けれどあまりにも不自然に同じ系列の番組が無くなったので不思議に思って色々と動画を探してみたけれど、どうやら神にまつわる物が全て、消えてしまっている。


「なぁおかん……神様ってさ、おると思う?」


 胸がざわめく。背筋がじりじりとする。そんな感情を押し殺し、テレビを見て馬鹿笑いしている母親にそんな事を尋ねると、母親は一瞬こちらを見て笑った。


「何やのん。そんな悲壮な顔して。何かのキャラクターの話? 流行ってんの? その神さまとか言うのが」

「……知らん? 聞いた事ないん?」

「無いなぁ。何か昔の偉い人?」

「いや……もうええわ」


 覚は確信した。世界から、神が消えたのだ。


 神の存在が無いという事は、祈りが無いという事。祈りが無いと言う事は救いが無いと言う事。


 人々は少しずつ祈りと救いの無い、神のない世界で狂い始めていく。


 殺人を犯しても咎める者が居なくなった。何故なら死という概念すら消えてしまったからだ。それに死者は消えはしない。ただ『在る』という存在になるだけだ。


 神が消えた事で世界から沢山の戦争の記録が歴史から消えた。宗教も何も無くなった為、それにまつわる事柄が無かった事になってしまったのだ。


 人間は古来から太陽だったり月だったり星だったり、山だったり川だったりを神になぞらえて崇め、祈り、夢見て、希望を抱き、長い年月をかけてありとあらゆる困難に立ち向かってここまで歩んできた。


 その全てが取り払われた今、あるはずだった歴史も文明もその殆どが姿を変えていく。


 混沌とする世界に今度はそこら中に異形の者達が現れ始めた。


 ある日の塾からの帰り道、風の唸りが後ろから聞こえてきたと思ったら、突風が覚を追い越し、そこから何かボソボソとした声が聞こえてきたのだ。


「君が壊したから、戻れない」


 声と呼ぶにはあまりにも不安定な、音だけで出来た集合体に、覚は耳を塞いでその場から逃げ去るように風の中を駆け抜けた。


 纏わりつくような不快感と、自分だけが覚えている数々の言葉、行事、出来事、神話、歴史、戦争。全ての事はもう覚の記憶の中にしか無い。


 そしてとうとう異形の者達が姿を持って村を闊歩し始めた頃、彼らは何食わぬ顔ですれ違った人をまるでポテチでも食べるかのように摘んで食べながら、ごく自然に笑いながら去っていく。


 それを見た時、風の中で聞いた音がとうとう形になったのだと、覚は悟った。


 祠が消えた事で死後の世界と現世の世界、そして異形の世界の境界が曖昧になってしまったのだと気付いた時には、もう何もかもが手遅れだった。


 歴史が変わった事で全ての常識がその姿をガラリと変える。


 カレンダーの数字はもう1から順に並んでなど居ない。めちゃくちゃだ。そもそも数字という概念も壊れてしまったのかもしれない。


 24時間で区切られていた時間も今はその日によって長かったり短かったりしている。


 けれどそれに誰も気づかない。毎日がこうも目まぐるしく変化しているのに、全ての事はまるで元からこうだったとでも言わんばかりの態度だ。


 一つの概念が壊れると、後はもう堰を切ったかのように壊れ始める。全ての生き物の中で統一されていた、太陽や月でさえ例外ではない。


 いつしか日差しはあるべき法則を無視して歪み始め、月は顔を出さない日もあった。時計はとうとう正しい時間を表示しなくなり、でたらめに回りだす。だから皆はそれが何の為にある物なのかが分からなくなってしまっていた。


 ゆっくりと、けれど確実に広がる異変について、覚だけがその全ての全容を認知していた。



 朝日が歪み、太陽や月の形もすっかり変わり果て、アルバムから友人たちの姿が一人、また一人と消えていく。


 学校に行くとアルバムと同じように空席が出来始め、クラスメイト達の半分ぐらいが居なくなってしまった。


 とても悲しいのに覚はもうその友人たちの名を、顔を、声を思い出す事も出来ない。


 ただ『誰かが居た』という記憶があるだけだ。そして彼らは友人だったはずだ。そんなぼんやりとしか思い出せないあやふやな物になってしまっていた。


 それでも学校は毎日あった。


 けれど教師たちはどんどん消えていく物語や歴史、数字、法則に困惑した様子もなく、ただ同じ言葉を、同じ音をずっと繰り返すだけだ。


 いずれ学校という場所が無くなるのを時間の問題だ。


 覚は唇を噛み締めて肩を震わせ、俯いて喉の奥から今にも溢れ出しそうな嗚咽を堪えた。


 今までのにじり寄るような恐怖や後悔が毎日少しずつ積み重なり、覚のまだ幼い心に重く伸し掛かる。


「なんでやねん……祠壊しただけやん……わざとちゃうのに……なんやねん、これ……なんやねん……」


 俯くと教科書の上に涙が落ちた。ノートがすかさずその涙を吸い込み、最後の文字が滲んで消えた。

 


 それでも覚が正気を保っていられたのは、家族がまだ無事だったからだ。


 心の拠り所は何も神だけではない。幼い頃であればなおさら。


 ところがある土曜日の昼下がり、とうとうそれは容赦なく、例外なく覚に襲いかかった。


 母親がいつものように洗濯物を取り込み、覚にお小言を言いながらリビングで畳んでいた。


 覚はソファに転がってそんな母親のいつものお小言を聞いていたけれど、突然母親の声が中途半端な所で途切れた。


 ハッとしてそちらに目を向けると、母親は透けている。


 母親はその事に気付いていないのか、今も洗濯物を畳みながら時折こちらを見て眉根を寄せるが、口は動いているのに何の音も聞こえない。


「おかん!」


 嫌な感じがする。


 覚はすぐさま母親に駆け寄って、洗濯物を畳むその手に触れようとした。


 ところが徐々に透明になっていく母親に触れる事は出来ず、そのまま空を掴んだかと思うと、母親は透明になって覚の目の前から消えていく。


「……嘘や……嘘や! こんなとこ違う! ここ、俺の世界とちゃう!」


 叫んでもその声はただの音に変換され、虚しく辺りに響いただけだ。


 世界に何が起こっているのか。たった一つの祠を壊しただけで、世界はこうも姿を変えてしまうのか。大好きだった人や友人達は呆気なく消えていくのに、どうして覚だけが全てを覚えていなければならないのか。


 理不尽なほどの重責を背負った覚には、まだ五年生の少年には、あまりにも重い罰だった。


 覚はまだ無事な祖母の部屋の襖を開けると、祖母に泣きついた。いずれ祖母も消えるのだろう。そんな諦めが脳裏を過る。


「どうしたん、覚」

「ばあちゃん、おかん、おらんねん」

「何や、急に。あんたはここに預けられた時からずっとばあちゃんと二人暮らしやろ?」


 その言葉が覚に追い打ちをかけた。祖母ですらもう母親の事を、自分の娘の事を覚えていないのだ。その事実は、誰が消えた時よりも苦しかった。この事態を招いたのが、もう自分だと知っていたからだ。


「ごめんな、ばあちゃん。ごめんやで……俺が悪いねん。俺が……俺が……」

「おかしな子やな。あんたが何したんか分からへんけど、何も悪いことあらへん」

「……せやろか」


 耳の遠い祖母には聞こえなかったかもしれない。そんな優しい祖母の手が消えたのは、それから3日後の事だった。


 これがきっかけだったのかは分からない。とうとう覚も色んな事を忘れ始めた。


 覚は一人ぼっちになった部屋の中で、顔も思い出せない母親がよく座っていた場所で、声も思い出せない祖母がいつも仏壇に向かって話し込んでいた場所で、蹲り、その姿を思い出そうとした。


 けれどやっぱり何も思い出せない。覚えていたいのに、忘れたくないのに、何にも残せない。


 祈りが無くなるという事は、希望が無くなるという事。夢が無くなると言う事。


 それは今、現実という無慈悲な形でこの世界を支配しようとしている。

 


 文字は次第にただの線に戻り、数字はもう何の意味を成さない。


 消えた友人、同じことを繰り返すだけの教師、死んだはずの人たち、大好きだった血縁者。それらは全て曖昧になって今も現実に流れ込んでくる。



 この村の祠は、世界の理だったのだ。何かを祀っていた訳じゃない。あの祠こそが、この世界そのものだったのだ。


 けれどそれを証明する手段など何もない。証明する相手も居なければ、した所で何かが戻る訳でもない。

 


 覚はもうとっくに夢を見ない。そんな物はこの世界には不必要だからだ。それにそんな物がなくても世界はこうして今も歪に回り続けている。死んだ者はそこに在り、生きていた者が消えていく。


 ふと、昼夜が分からなくなった洗面所の鏡に映った自分が目に入った。


 そこには映し出されていた顔は物理的に酷く歪んでいる。鏡の世界でさえも、もうまともに何かを映すことを止めてしまったのだろうか。


 それとも覚の自我が保てなくなってしまっているのだろうか? そもそも自分とは、誰だろう? 覚とは、何だったのだろう?


 漠然とした思いは心の中に沈み込んで、重く横たわる。


 その答えを探そうと、図書館に向かうと、あれだけあった本棚の本が半分以下にまで減ってしまっていた。


 何気なく一冊を手に取りページをめくると、そこには文字だった何かと記号だけが記されている。それでも覚は片っ端から文字を探して本をめくった。


 そしてとうとう見つけたのだ。文字の痕跡を。『祠』があった痕跡を。


 本は焼け焦げていた。まるで火事現場から持ち出されたかのように。そこには焼けてはいたが、確かに祠の写真と「ほこ——」と書かれている。それは正にあの祠だった。


 あの石で出来た、苔むした、汚くて寂れた、屋根に大きな亀裂が入ったあの祠。


「なんでこんな……ちっぽけなもん壊したぐらいで……」


 何もかもが消えた世界に残された、その写真と文字を見て初めて、覚ははっきりと認識した。


 自分は、絶対に触れてはいけない物に触れ、壊してしまってはいけない物を壊してしまったのだ、と。


 けれど、どうしてあの祠が自分の前に現れたのか、それは未だに分からない。

 


 結局何の解決にもならないまま、世界は終焉を迎えようとしていた。

 


 月日という物が無くなってからというもの、正確な日時はもう覚にも分からなかった。信用できる物がもうここには何もないからだ。


 太陽は昇る日もあれば沈まない日もある。月だって同じ。


 数字も意味が無い。文字も無い。そんな中、とうとうテレビに映し出される世界すら変わり始めた。


 看板の意味が分からなくなり、道路は同じ所を何度も何度も繰り返し、それでも先へと続いていく。建物は紙のように薄く気持ちよさげに風になびき、今にもどこかへ吹き飛んでしまいそうだ。


 そんな景色を背景に、リポーターが意味不明な言語を羅列している。誰かあの言葉を理解しているのだろうか? そう思う程度には、ワイプに映っている人たちも困惑顔だ。


 もちろんこの村も例外じゃない。むしろ全てはこの村から始まった事で、他の場所よりも少しだけ症状が進んでいる。


 今も空から白い雪よりもずっと細かい粒子が降り続け、目に映る物全てを音もなく静かに、淡々と白く塗り潰し、まるで消しゴムで消すかのようにその存在を消していく。車も、畑も、学校も、家も。


 覚はいつの間にか誰も居なくなった村をブラブラと何をするでもなく歩いていた。


 ふと前方に何かがきらりと光った気がして近寄ると、そこはあの祠があった場所だ。そこにほんの小さな祠の欠片が、鈍い太陽の光を受けて光っている。


 一縷の希望も無いまま、覚はそれを拾い上げると、最後の欠片が音もなく砕け散ってしまう。


 その途端、覚は何もかも全てを忘れてしまった。何かを忘れているはずなのに、それが何だったかも、どうして思い出したいかも分からなくて困惑する。


 けれど思い出したいと強く思う。この衝動は何だろう? この悲しみは何だろう? そもそも悲しみとは何だった? 


 時間は消え去り、真っ白で空虚な世界が広がり続ける中、目の前にどこか懐かしいような気がする公園が見えた。


 もう元の形は留めてはいないし、そこで何をしたのかも、誰と居たのかも分からないけれど、何だか酷く、無性に心が揺さぶられた。


 空に向かって延びる滑り台、湾曲したジャングルジム、ぶら下がる所の無い鉄棒、大きな石が詰まった砂場、揺らそうとしても動かないブランコ——。


 音のない世界。誰も居ない公園。もしかしたらここには何も無かったんじゃないだろうか。


「俺……もしかしたら、ずっとひとり……やったんかな……」


 最後の希望が消えたその時、世界の幕も静かに下りる。


 まるでテレビのスイッチを切るように、スマホの電源を落とすように、一瞬にして世界が、覚が、音もなく閉じた。

 

 

 昔、まだ幼稚園かそれぐらいの頃に聞いた誰かの音。


『ええか、◯◯◯。——には世界の真ん中があるから、その調和を絶対に乱したらあかんよ。もしその調和を乱したら、全部の事がひっくり返って取り返しがつかへんなる。◯◯◯、あんたもよう覚えときや。世界っちゅうのは、ほんの小さな小さな——の中に詰まってるんやで』


 祠は、この世界を人々の心に繋ぎとめていた、最後の概念だ。物が重要な訳ではない。そこに祀られている物が何であれ関係ない。祠という概念そのものが、この世界を、記憶を、文化を、全てを形取っている。


 最後に、あなたの世界は、あなたという存在は、本当に『在り』ますか? それを証明する事が、出来ますか?

 

 


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