10 イリアス
セランダの広場は、人で埋まっていた。
新しい領主、イリアスの就任を祝う式典が始まろうとしていた。
ラグは、少し離れた屋台の横で、リナとならんで見ていた。手にはパンがある。
パンは果実を砂糖で煮詰めたものがはさまっており、山では感じられない甘みが口いっぱいに広がった。こんな甘味を知ってしまってよいのかとためらったのは最初だけであり、ラグはすでに二個食べ終えていた。
「人が多いな」
「普段じゃ見ないくらいだよ」
リナが、隣で背伸びする。
「肩に乗せるか?」
「こ、子どもじゃないんだから!」
リナが強く断った理由が、ラグにはよくわからなかった。
「いつごろ始まるんだ」
こうしているだけでラグはパンを食べ終えていた。
ノワールが爪で軽くラグの首を突いた。ラグは、自らを律する心を思い出し、なにもはさまっていないパンを購入した。
「あ、もうすぐだよ。イリアス様が来るって」
しばらくして、ざわめきが広がった。
ステージの上、白い衣の青年が立つ。
年齢は40代という話だったが、青年という形容がよく似合う。
誰に対しても穏やかに笑いかけている。明るくさわやか、というよりも落ち着いた雰囲気があった。
「あれが」
「うん、イリアス様」
ラグは目を細めた。
イリアスは手を掲げ、ゆっくりと言葉を発した。
「セランダの民よ。わたしは光導院のイリアスだ。この街を愛している。すべての民がこの街で、運命に愛されるよう力を尽くしていきたい。さあ、我々に手を。差し出された手は必ずつかみ取り、導こうではないか」
力強く、だが優しく響く声だった。
拍手が起きる。みんな、おだやかな笑みに変わっていた。子どもが手を振り、大人たちが手を叩く。
祝いの花びらが、空に舞った。
リナも、どこかうれしそうだった。
だがラグは無表情だった。
「ね? ちゃんとした人でしょ?」
「そうだな」
ラグの声は、ただ目についた文字を読み上げるような言い方だった。リナが不思議そうにする。
ラグはノワールに視線を送った。
ノワールは、尻尾を揺らしながら、じっとイリアスを見ている。
「師匠」
ラグが小声で問う。
ノワールは、ぽつりと言った。
「気づいたにゃ?」
「はい」
イリアスの発声には特徴があった。
ただ言葉を発しているようでいて、言葉の合間に特殊な音が混ざっている。一定の間隔でそれが繰り返されていた。
「催眠でしょうか」
「そうにゃ。ただ、弱いにゃ」
ノワールは言った。
催眠効果のある言葉は、内容の説得力とは関係なく、聞いている人間に染み込んでいく。
ただ、それが自覚的かどうかの判断は難しい。催眠効果を得るために訓練して手に入れた場合と、単に、人に説得力がある言い方を練習していて、身についてしまった場合とあるのだ。
その力が弱ければ弱いほど、偶然その力を手に入れた、という考えは捨てられない。
領主になるほどの人物ともなれば、なおさら人前でしゃべる練習を積んでいるだろう。
「気にしなくてよさそうでしょうか」
ラグの言葉に、ノワールはなにも言わなかった。
式典が終わると、街は再び賑わいに包まれた。
「ラグ! あれ、射的だって!」
リナがラグの手を引く。
「しゃてき、とは」
「的を撃ち抜く遊び!」
「それならできるが」
店には景品がならんでおり、それを倒せれば獲得できるという。
「どれもいらないが」
ラグの心にはなにも引っかからなかった。
「あのぬいぐるみ!」
リナが指した。くまのぬいぐるみだ。
ラグは、店主に指示されたとおり、模造の銃にコルクを詰めて発射した。
「ん?」
やや上部、的を大きく揺らせる位置を狙ったはずだったが、的は微動だにしなかった。
「んん?」
連続で発射して同じ場所に当てるが倒れない。
「あー、惜しかったね」
店主が言う。
ラグは店主をじっと見た。
「はは、どうしたかな、はは」
店主は乾いた笑い声をあげた。
ラグは素早く身を乗り出して、銃の先でぬいぐるみを軽く突いた。
動かない。
「ちょっとお客さん! 困りますよ」
ラグはじっと店主を見た。
店主は汗をふきながら、はは、と笑っていた。
「もらえちゃったね」
リナは笑顔でくまのぬいぐるみを抱いていた。
「ああいう不正は許されるのか?」
「うーん」
リナは考えた。
「もちろん、うれしくはないけど、許されてる感じかな?」
「なぜだ」
「うーん。あらためて言われるとわからないけど、お祭りだからいいかなって感じかな?」
「そうなのか」
ラグは腕組みをしながら考えた。
リナも、店主もそれほど深刻に考えていないようだった。
またラグが射的を行っているとき、他の客が誰も気づかなかったとは思えない。つまりリナが特別なのではなく、皆、これを許しているのだ。
そして不正を指摘したらぬいぐるみをもらうことができた。
もしかすると、あれ自体が大きな遊び、と考えるべきなのかもしれない。
「なるほどな……」
街のルールの深さにおぼれてしまいそうだ。ラグは気を引き締めた。
「あ、あれも!」
リナはラグに腕をからめて、ぐいぐいと引っ張った。
「そろそろ帰ろうか」
夕日があたりをオレンジに染めるころ、やっとリナが言った。
「そうだな」
「退屈だった?」
リナが不意に言う。
「いや、いろいろなものが見られて楽しんだ。もし俺の表情のことを言っているのなら、常にこういうものだと思ってくれ」
「わかった」
リナはにっこり笑った。
そのときだった。
「あの、男の子を見ませんでしたか? ……あの、ミソンを、男の子を見ませんでしたか?」
30代くらいの女性が、通りの人に話しかけていた。
「どうかしました?」
リナが話しかける。
「ああ、あの、うちの子がいなくなってしまって。10歳の男の子なんですけど……」
「え?」
リナはまわりを見る。
「祭りの人混みに紛れたか」
ラグがつぶやく。
「いえ……、今朝、早くから」
「え?」
リナが鋭くききかえした。
「今朝、早くから姿が見えなくて……。勝手に遊びに行ってしまったかと思ったんですけれど、ずっと帰ってこなくて、お友達も知らないと……」
「それは、心配ですね。あ!」
リナが手を振ると、ラグも見た顔がやってきた。
警備団の人間だ。
「この人のお子さんが、朝から行方不明なんだって」
「またか」
そのつぶやきは、ラグとノワールだけが聞いていた。
「わかりました。特徴と、詳しい状況を教えて下さい」
「はい! お願いします!」
二人は去っていった。
その背中を見ているラグとリナ。すでにさっきまでの興奮は去っていた。
深夜。
黒いフードをかぶった男たちが歩いている。
その中央で荷車を引く男。
荷台から、くぐもった声がする。
大きな影ではない。
その声は、すぐに夜に吸い込まれていく。
男のひとりの首飾りが、ちらりと見えた。
爪ほどの大きさの金属板に、開いた手のひらの図柄が刻まれていた。