27-5話
「帰りましょう」
姫香の耳元で比呂彦が言った。その顔に疲れが見えた。
「そうね」
保護者のような気分だった。2人はそろって立ち、神野に向かって目配せした。神野は反対するかもしれないと思ったが、車で送ると言ってくれた。
出入り口に向かう比呂彦を渡辺教授が呼び止めた。
「あの文字は、どこの何という文字だね。それだけ教えてくれないか?」
「アトランティス文字です」
アトランティス。……姫香は記憶をまさぐった。アッ、プラトンが書き残したあれか。……それは、かつて大西洋にあって沈んだ、とプラトンが書き残した大陸だ。近年、その実在を信じる研究者はいない。それを象徴するように渡辺教授が笑った。
「アトランティスか。それは傑作だ」
彼の反応を予測していたのだろう。表情を変えることなく比呂彦がドアをくぐった。その背中に向かって、「真面目に答えないか!」と渡辺教授が声を荒げた。
姫香は渡辺教授を睨んだ後、比呂彦を追った。
「ちゃんと住吉君が警告しておいたのに……」
車に乗ってから、本部の建物を睨んで愚痴を言ったのは姫香だった。
「見るなと言われれば見たくなり、触るなと言われれば触りたくなる」
比呂彦がよく言われることを言った。姫香を慰めたのか、はたまた、悟りの境地を言葉にしたものか。
「これからどうするの?」
「東京に帰りましょう」
「エッ……」
姫香は思わず凝視した。建物の中で帰ろうと言ったのは、ただ、そこを出たいからだと思っていた。その夜もホテルに泊まれると思っていたのに当てが外れた。
「私、ホテルに荷物を置いてきちゃった」
比呂彦が気持ちを変えてくれるのでは、と期待した。すると予想外の援軍が現れた。神野だ。
「今帰られては困ります」
「それは影村さんの命令ですか?」
「私個人の依頼です。しばらく、ここに残っていただきたい」
振り向いた神野が頭を下げた。
「不思議なことを言うのですね」
「自分には、今何が起きているのかよく理解できないのだが、すぐに住吉さんの知恵を借りることになる。そんな予感がするのです」
「予感ですか……」比呂彦がフーっと長い息を吐いた。「……では、僕は残ります」
「僕は?……それって私は帰れということ?」
姫香は面白くなかった。仲間外れにされた気分だ。
「僕は襲われるかもしれません」
「エッ!」
予想外の発言に飛び上がりそうだった。
「どういうことです?」
姫香より先に神野が訊いた。
「オキナガ……、いや、ジングウは僕が自衛隊を使って彼女を襲わせたと考えているかもしれません。もしそうなら、僕を狙ってくるでしょう」
彼はオキナガタラシヒメをジングウと呼ぶことに決めたらしい。
「それならどうして……」神野が抗議にも似た口調で言った。「……さっき、あの場で言わなかったのです。あそこなら自衛隊が護衛することができた」
「銃を持っているのでしょう? 乱射されたら犠牲者が増えるだけです」
「だからといって……」
「それに……」彼は神野を制した。「……一人の方が見つからない可能性が高いのです。ジングウは、僕が自衛隊と共に行動していると考えるかもしれません」
「だからといって……」
神野の話を遮るように比呂彦が言った。
「お腹がすきませんか?」




