26-1話 此花姫香 ――どら焼き職人の息子と精霊の森――
身繕いを済ませた姫香は、ソファーに掛けてぼんやりとテレビの音を聞いていた。比呂彦は壁際の机でスマホをいじっている。昨夜は、彼の話を聞こうと手ぐすねを引いていたのに、そして、場合によっては自分の男性恐怖症を克服しようと覚悟していたのに、彼はシャワーを浴び、テレビの映画番組を見ながら眠ってしまった。美しい寝顔だった。
しばらく彼の寝顔を見ていた。寝息がしないので、もしかしたら起きているのかもしれないと思った。寝たふりをして、私が離れるのを待っているのかもしれない、とも。
どちらにしても、彼には性欲がないのだ。だから、自分は怖くないのだろう。そう結論付けた。だからといって納得したわけではない。身体のどこかで悔しさがくすぶっていて寝付けない。その度に起きて、彼の寝顔を鑑賞した。唇を近づけ、キスの真似ごとをした。
朝のテレビ番組は、美味しいサラダの作り方や昨日のプロ野球の試合結果を報じていた。『今日の天気は……』キャスターの声をノックの音が邪魔した。
「ハイ……」返事はしたが、身体の動きは緩慢だった。比呂彦は俊敏で、先にドアを開けた。
「おはようございます」
神野の挨拶は芝居がかっていた。彼が朝食に案内すると言った。
「大丈夫ですか?」
「エッ?」
彼は姫香に訊いていた。
「その、目元が……」
腫れていると言いたいのだろう。まさか夜中じゅう比呂彦の寝顔を見ていたとは言えない。
「ただの寝不足です」
平静を装って応じた。
「そうですか……」
彼が比呂彦に目を向け口角をあげた。
アッ!……姫香の頰が熱くなった。比呂彦と自分が寝ずに何かをしていたと誤解したのに違いない。
「では、遠慮なく……」
神野の妄想に冷や水をかけるように、比呂彦がいつも以上の感情のない声で応じた。
姫香は手ぶらで、比呂彦はパソコンを入れたリュックを背負って部屋を出た。ホテル内のレストランに案内されるのだろうと思ってついて行くと、神野は迷わずホールを横切ってホテルを出た。そこに昨夜の車が停まっている。その日は自衛隊の制服姿の運転手がいた。
「どこに連れて行くのですか?」
比呂彦が尋ねた。天鳥船に案内されるのではないか、と期待しているようだ。
「興福寺の近くに、おいしい粥をだすレストランがあるのですよ。そちらに」
神野は、微笑んだ。それは好意的なものには見えなかった。
「国費で贅沢してはいけないわ」
姫香が嫌味を言うと、彼の笑みが消えた。
「美味しいとはいえ粥です。それで防衛費を使い果たすことはありませんよ。お嬢さん」
彼は、〝お嬢さん〟というところをゆっくりと言った。
2人にやり取りを見た住吉の唇の端が動いた。人が小さなところで意地の張り合いをする場面が滑稽に見えたのだろう。姫香は恥じた。




