ロブソン公爵に殴られた傷がない
ふたりはグラッドストン大聖堂のホールを突っ切ったあと、東翼の人気のないエリアに入った。
ガートルードは歩きながらティナの手をきゅっと強く握る――そこに彼女がいることを確かめるように。
ティナもまた必死に手を握り返した。
ふたりは小さなイカダに乗せられ、嵐の海に放り出されたような心地だった。
けれど最低最悪なことばかりじゃない。互いの存在を今、強く意識している。
――私たちは助け合えるし、きっとふたりで乗り越えられるわ。
近くに誰もいないことを確認し、ガートルードは足を止めてティナに向き合った。ふたりは廊下の端で対峙し、小声で話し始めた。
「時間が戻っているわ――半年も」
ガートルードが告げると、ティナは呆気に取られている。すぐには言葉が出てこない様子だ。
「信じられないわよね。今、四月なのよ。私たちは十月まで過ごしたはずなのに」
「そんな……何が起きているのでしょう?」
「ねぇ、半年前――つまりそれは『今現在』のことだけれど」
ややこしいわね、ガートルードは眉根を寄せる。
「私がフルーリエン伯爵に助けられたこと、覚えている?」
「そういえば四月……でしたね。お嬢様が階段から足を踏み外したことがありました。偶然フルーリエン伯爵が真下にいらして、受け止めてくださったので、お嬢様は怪我をしないですみました」
「そう。あの時、ティナはこの近くにいて、落下の際に私が上げた悲鳴を聞きつけて、駆けつけてくれたんじゃなかった? それで階段の上から、私がフルーリエン伯爵に抱え込まれているのを目撃したのよね」
「ええ……寄り添うふたりの姿を上階から見おろして、割って入るのをなんとなく躊躇ったような記憶が」
「どうして?」
「あ、いえ、なんだか邪魔するのも、と……」
ティナは気まずそうに視線を逸らしている。……どういう意味かしら?
よく分からなかったが、この部分は本題ではないので、流すことにする。
「私たち、時間を半年遡っているけれど、戻ったのは心だけで、体は当時のままなのよね」
「どうしてそれが分かるのですか――あ、そうか、体に拷問の傷がない、から」
「そう。今の私にはロブソン公爵に殴られた傷がない。それに、一緒に攫われたあなたの髪はほつれていたけれど、今はピシッとしている」
「そうですか」
ティナは言われて気づいたというように、自身の髪に触れた。
現状、ガートルードのほうが状況を正確に把握している。
元々ガートルードのほうが肝は据わっていたけれど、それとは別に、第三者と喋ったというのも大きいかもしれない。ガートルードはフルーリエン伯爵と話したことで、ティナよりも客観性を得ている。
「オリジナル――一周目の四月と同じ状況だったのは、私が階段を落ちるところまで、ね。だってその後私たちは、ここで話し込んだりしなかったもの」
「確かに」
「つまり二周目の今は、過去を改変していることになるわ」
「この時間は……会話しているだけですが、改変に入るのでしょうか?」
「そう思う。私たちには四月から十月までの記憶が残っていて、それが今ふたりに、過去と違う行動を取らせている。私たちはこれから何度も、一周目とは違う行動を選択していくはず。――二周目は準備も用意もできる。次は勝ちましょう、ティナ」
「もうロブソン公爵の好きにはさせません」
「ひとりきりだったら、泣き出したくなっていたでしょうけれど、私たちはふたりで支え合えるわ」
「今度こそ必ずお嬢様をお護りします」
ティナがガートルードの手を取った。
……あなたをどこか遠くにやって、せめてティナだけでも助けるという方法も選べるけれど……
「お嬢様、私は絶対におそばを離れません」
いつもはフワフワと朗らかなティナが、厳しい顔つきでこちらを見つめてくる。
ガートルードの涙腺がふたたび緩んだ。
「……馬鹿ね。あなたには関係ないことなのに」
「関係なくありません。一度、私も殺されています。これはすでに私の問題でもあるんです」
今の台詞はガートルードから遠ざけられないよう、ティナなりに必死に理由を捻り出したのだろう。それが分かっているからこそ、ガートルードはティナをどうすべきか考えなければならないと思った。
ガートルードは表情を暗くし、ティナに尋ねた。
「……あなたはどうやって死んだの?」
「頭部を殴られたお嬢様が動かなくなり、ロブソン公爵が死亡を確認したあと、私に注射を打ちました。毒薬だと思います。すごく苦しかったけれど、すぐに何も分からなくなって」
殴る蹴るの暴行を受けるより、即効性の毒薬でかえってよかったのか……ガートルードには分からない。こんなふうに、マシな死因について真剣に考える日が来ようとは、夢にも思わなかった。