五年前(ガートルードとロブソン公爵)
――五年前。
ガートルードは派手好きな性格ではないけれど、初めて出る社交の場ということで、何日も前からワクワクしていた。父が「イヤリングをプレゼントしよう」と言ってくれて、すごく嬉しかった。
ガーデンパーティの前に色々準備を整えた。ドレスを作り、靴を決め、アクセサリーも。父に手を引かれ、あの宝石店に足を踏み入れた。
ガートルードは成長期が遅く、十五歳時点ではまだ子供という印象が強かった。今よりも背は十センチばかり低かっただろうか。父とのお出かけで気分が高揚し、たぶんガートルードの頬は赤く染まっていたと思う。
宝石店では順に色々見せてもらい、これだというものに決めた。
選んだのは、明るいターコイズのイヤリング。パステルカラーでとても綺麗だった。晴れた日の空に、綿雲をミックスしたような色。
値段がかなり手頃だったので、父は「それでいいのか?」と口ごもり、なんだか困っていたようだ。『せっかくの記念なのだから、もう少し高いものを買ったら?』と考えたのかもしれない。
でもガートルードはそれが気に入った。ドレスはすでに決まっていて、白地に鮮やかなピンクの花柄だったから、キュートなターコイズのイヤリングがマッチすると思ったのだ。
――当日になり、着飾ったガートルードは、父に連れられてガーデンパーティに出席した。
気心の知れた集まりだし、父もリラックスしていたと思う。
「珍しい本を手に入れたと聞いたから、書斎に行って見せてもらってくる」
父がそう言うので、ガートルードはニコニコして頷いてみせた。七つ上の従姉も隣席にいたし、出されたスフレが美味しくて、ガートルードは幸せな気持ちだった。
父が席を外し、少し時間がたってから、場の空気がザワザワし始めた。
見ると、身なりの良い見知らぬ紳士が、ガーデンパーティ会場の端に佇んでいる。
……なんだろう、遅れて来た招待客だろうか。
ふと、ガートルードは気づいた――……大人たちが一様に眉尻を下げ、気まずそうにしていることに。それで少し『あれ?』と違和感を覚えたのだが、何かを警戒するには、ガートルードは子供すぎた。
そのまま隣席の従姉と楽しく会話をしていたら、フッと頭上に影が差し。
「――何を話しているの?」
不意に耳もとで話しかけられ、びっくりした。
身を反らすようにして窮屈な思いをして振り返ると、椅子の後ろに立っていたのは、先ほど目にした例の紳士だ。彼は上半身をかがめ、こちらに身を乗り出している。
大人の男性だけれど、父ほど年はいっていない……自分よりも十何歳か上だろうか? ガートルードは彼から妙な圧を感じ、微かに眉根を寄せた。
「そのドレスはイースデイルの店で作ったね?」
ピタリと言い当てられ、ガートルードは驚いた。どうして分かったのだろう? それで会話を始めてしまった。
「あ、はい、そうです」
「デコルテのラインが、イースデイル独特のデザインだ」
「……あの」
「可愛い花柄だね……いい、すごくいい」
その紳士は隣席の従姉のほうを振り返り、
「席を空けてくれないか?」
と平坦な声で言った。
ガートルードはこれを不快に感じた。
元々着席していた女性をどけるのは、不躾ではないかしら。
周囲を見回すが、大人たちはバツが悪そうに視線を俯け、こちらを見ようとしない。ガートルードは理由のよく分からない恐怖を感じた。
従姉は「でも、あなたはこのガーデンパーティに招待されていないはずでは……」と小声で反抗した。ガートルードは彼女の腕が震えていることに気づいた。このガーデンパーティ会場の中で、従姉が一番勇敢だった。彼女は怯えながらも、年下のガートルードをかばおうとしていた。
「私はジョナス・ロブソン公爵だ」
紳士は従姉のほうを向き、そう名乗った。
――ロブソン公爵――……ガートルードは『こんなに嫌味な自己紹介があるだろうか』と考えていた。
ガートルードは初対面だが、おそらく従姉は元々知っていたはずだ。だって紳士に『あなたはこのガーデンパーティに招待されていないはず』と言ったのだから。
それでいてあえて従姉に向けて名乗ったのは、恫喝のたぐいに感じる。人は大声で喚かなくても、他者にしっかりダメージを与えられるのだと、ロブソン公爵のやり口を見て初めて知った。
従姉の腕の震えが大きくなる。
ロブソン公爵は駄目押しとばかりに、彼女のほうにかがみ込み、耳元で何か囁いた。
「それで――お嬢さん、私のために席を空けていただけるね?」
従姉は真っ青な顔で椅子から立ち上がった。一瞬、申し訳なさそうにガートルードを眺めてから、踵を返す。
ガートルードは彼女が屋敷のほうに小走りで向かったのを見て、『父様を呼びに行ってくれたんだわ』と察した。それで『しっかりしなくては』と頭の中で繰り返した。
――父様が来るまで、なんとか頑張るのよ。
大丈夫。大勢の目があるのだから、おかしな真似はされないはず。
従姉が座っていた椅子にロブソン公爵が着席したのだが、さりげなくこちらに数十センチほど寄せて来た。テーブルに片肘を置き、体はほとんどこちらに向いている。
……怖い。どうしてこの人は、穴が空くほどジロジロと私の顔を見るの?
ガートルードは落ち着こうとして、グラスを手に取り水をひと口含んだ。
ロブソン公爵がうっとりと隣席からそれを眺め、
「可愛いお口で、ちょっとだけ飲むんだねぇ……お水、美味しいかい?」
と尋ねてきた。
そのねっとりと絡みつくような声音を聞き、ガートルードは死にたくなった。
それからの数分間は地獄だった。ロブソン公爵があれこれ尋ねてきて、正面を向いたガートルードが平坦に答える。
黙り込んでしまうのが怖かった。会話を続けてさえいれば、この人は一線を超えてこないだろう――根拠もなくなぜかそう信じ、それに縋っていたのだ。
「……そのイヤリング、可愛いね。……いいね、すごくいいな」
ロブソン公爵が隣席から不躾に手を伸ばしてきて、ガートルードの耳に触れた。それはゾッとするような手つきだった。
――……目の前がフッと暗くなる。過去、誰かに触れられて、ここまでおぞましく感じたことはない。ガートルードは冷や汗をかき、小さく震え始めた。
「――ガートルード!」
殺気立ったような、父の声。
ガートルードは駆けつけて来た父の腕に抱き込まれた。
父は芝居の台本でも読んでいるかのように、大きな声で告げた。
「貧血を起こしたのか? 大変だ――朝から体調が良くなかったものな! ロブソン公爵、娘は具合が悪いので、これで失礼します」
促されても、ガートルードは足が震えていて立てない。父が隣席のロブソン公爵から遠ざけるように、椅子ごと強引に動かし、ガートルードを抱え込む。
父に抱き上げられ、ガートルードは幼子のように父の首に抱き着いた。涙が零れ落ちる。
父がガートルードだけに聞こえるように囁きかけた。
「すまなかった、ガートルード……目を離して、本当にすまなかった」
そこからは記憶が飛び飛びで残っている。
気づいた時にはガートルードは馬車に乗せられていて、隣席で泣いている従姉と、対面席で額を押さえる父の暗い顔を、ぼんやりと感情のこもらない瞳で眺めていた。