ほかの男性に石鹸をあげてはいけませんよ
「それ、私と同じ素敵な香りになれるの」
……うん。さっき聞いたけれど。
「……嬉しくない?」
声が小さくなったのに気づき、フルーリエン伯爵は顔を上げた。
ガートルードが困ったようにこちらを見つめている。
ああ、お願いだ……今日はもうすぐ別れなければならないから、そんな目で見ないでくれないか。
「んー……私、失敗した? ティナが言っていたの――石鹸の贈りものは失礼じゃないですか? って」
ガートルード、君って人は……フルーリエン伯爵は困惑しながらも、自分の口角が僅かに上がったことに気づいた。
こちらがからかうように笑ったせいか、彼女が少し拗ねたような顔になる。
「ねぇ、何か言って」
「嬉しいですよ。ありがとう」
「それは社交辞令ね?」
「いいえ」
「社交辞令っぽいわ」
「だから、いいえ」
彼女は本当に知らないのだろうか。
今、上流社会で異性に石鹸を贈るのは、ベッドへの誘いを意味する。
以前はそのような認識を、誰も持っていなかった。けれど慣習や言葉は生きものと同じで、刻々と変化していく。
石鹸は半年ほど前に、『ちょっと洒落た男女間の贈りもの』に認定されたばかりだが、そこから瞬く間に意味合いが変わり、今では大人同士の秘めごとを象徴するアイテムになっている。
「――ほかの男性に石鹸をあげてはいけませんよ」
フルーリエン伯爵がガートルードを見つめて静かにそう告げると、彼女は驚いたように瞬きした。
そして、
「贈るわけがないわ」
とはっきりした声音で答えた。
贈るわけがない? それは贈りものの意味を認識しているような答え方だ――……ひょっとして、僕を翻弄しようとしている?
「どうして『贈るわけがない』の?」
「これを使うと、私と同じ香りになれるのよ。あなた以外に、それは許可しない」
ハートを撃ち抜かれる、とはこのことだろうか。
フルーリエン伯爵は瞳を細め、どうしたものかと考えを巡らせた。そしてすぐに微笑んでみせた。
「さっき給仕の女の子にあげたくせに」
「……あ」
バツが悪そうな顔をするガートルードを眺め、そういう迂闊なところもなんだかたまらないけれどね、とフルーリエン伯爵は思った。
* * *
「そろそろテイクアウトの準備ができたかしら」
アップルパイを包んでもらうようお願いしたけれど、そう時間がかかるものでもないだろう。
「そういえば、どこかへ寄り道するとおっしゃっていましたね。行先を教えていただけますか?」
フルーリエン伯爵は先ほど、『君とのデートを早く切り上げるのは、キース殿下から頼まれたお使いが原因で』と言っていた。グラッドストン大聖堂にガートルードを送り届ける前に立ち寄りたいと、同行を頼まれている。
「すぐ近くの宝石店です」
フルーリエン伯爵が優雅に左腕を持ち上げ、指先で背後を指差す。まるで気取っていないし、フランクなジェスチャーなのに、不思議と品のある動作に感じられた。
すべてが計算ずくではないにせよ、彼は何をしても絵になるわとガートルードは思った。体の線や姿勢が綺麗なせいだろうか。
――と、そんなことより、東通りの対岸――
フルーリエン伯爵が指し示したのは、彼の背中側であり、ガートルードの位置からは右斜め前方に当たる。
「私、あの宝石店に一度だけ行ったことがあるわ」
ガートルードは小さな呟きを漏らした。
五番街の宝石店。それは当時のガートルードにとって、大人の世界を象徴するものだった。
「そう。いつ?」
「十五歳の時です。私は初めてガーデンパーティに出ることになっていて、それで――」
普通に喋り始めたところで、色々な記憶がよみがえり、言葉が途切れた。