神の不在証明
なぜ神は存在するのか。
神とは一体何なのか。
『神』という存在は姿形、呼び方を変えて世界各地で人々に崇拝される尋常ならざる存在。
雨を降らせたり、豊穣を授けたり、火を与えたり、雷を落としたり、中天にて輝いたり、海を割って導いたり、生き返ったり、お告げを授けたり。
ただそれは記録として、神話として残っているものであり、物質主義に染まった現代社会ではフィクション同列で語られる。それでも、その偉業を信じてとある神や救世主に祈るものは少なくない。
実際自分の目でその偉業を見たわけでも、何かその神に直接与えられたりしたわけでもない人間が大半だろう。
しかしながら、彼らは証明されざる神を肯定して崇めている。
虚空に、真空に、架空に、神の名を届くと知って呼び続ける。
まるで、救けを求めるように。
影ににじむ廊下からぎらついた夕日を春川薊が見ていたのは神を呼ぶためだったのかもしれない。彼女は口を開くことなく、沈みゆく夕暮れを恨みがましく睨んでいた。根の張った大木のように微動だにせず、眩さに目を細めてなお睨んでいた。
今日の一件のことで重田先生に呼び出され、色々と尋ねられたり助力する旨を伝えられたりとしたが、自分の中での決意は既に固く結ばれていた。
一片の後悔も残さないように春川は激動の若き日を駆け抜けてきた。有限な人生に後悔という汚点を残すのは愚かしいことだ。少なくとも抗うべきであり、全力での抵抗が悪戯な不幸に後悔しない方法だと知っていた。
全力で駆け抜けた。
全力で正しいことをした。
しかし、ゴール直前になると走馬灯のように後悔の影がちらつき始める。その影を消そうと春川薊は夕日を浴びていた。
昼間に登った屋上の心地よい風と予想外の隣人を思い出して、少し苦笑する。
(今日の終わりにもう一度あそこを見に行こうかしら)
などと思いながら、重田先生に返しそびれた鍵を手にもって春川は人気のない三階の歩廊を行く。
影と夕日の燃えるコントラストの中に自分の身を焦がす。
歩くたびに傾いていく日がオレンジ色に完熟していく。彼女の瞳もそんな淡い温かみのある色に染まっていった。
「おうおう、委員長殿。こんな時に学校散策かい」
廊下の向こう側から低い声が聞こえてくる。
同級生の男子たちの中でも一際威圧的で、肉食獣の雄たけびのような声。
「角島くん……」ぽつりと零した言葉には、ちょっとした驚きとめんどくささと警戒が込められていた。
「はは、そう警戒なさるな。委員長殿は気を張ると美人な顔が強張るから分かりやすい」
腹の底に響きそうな声なのに発する言葉は花を愛でるように優しげなのがミスマッチ。
のっそりと現れた男子生徒の肉体は鬼のように筋肉質だが、プロレスラーやバーベル上げ選手のような樽のような筋肉とは違う野生の戦いで身に付いた自然獣の筋肉をしていた。
ばねの強そうな足に、鉄板くらいならぶち抜けそうな拳。
オールバックの黒髪に、夕日にも血にも勝る赤い目。
そんな美丈夫の顔には近々で殴られたような紅葉色の痕があった。
「その傷……また誰かの喧嘩に割り込んでめちゃくちゃしたんですか」
春川は足を止めて動く山のような彼の目の前でため息をつく。
頬の傷は喧嘩に巻き込まれたのか、自分から突っ込んだのか。赤く滲む青い傷は色んな意味で痛々しい。
段々と暖かくなった春の風に撫でられれば少しは痛みも抑えられそうなものだが、彼の場合はまるで戦いとその間の痛みに酔っているかのようで、春光の癒しすら受け取ろうとはしないだろう。
彼こと角島芥は現代に比類なき喧嘩狂いなのだった。
「うん? あぁ今日は絶好の喧嘩日和で三回戦もやったぞ。最後の奴らは中々なもんで放課後に五人ほどの徒党と戦って頬に一撃貰ってしまったわ!」
がっはっはっは! と豪勢に角島が笑うと窓の外で風に枝葉を揺らす木々がまるで彼の笑い声に共鳴して揺れているようにすら見えた。
「――が、昔の連中よりも手ぬるくて欠伸がでそうだったな」角島はまるで歴史の生き証人かのようにそう呟いた。言葉遣いも方言も、言い回しのちゃんぽんな彼を声だけ聴けば、歴戦の老剣士と聞き紛う人も居るだろう。
まぁ、実際に目にするのはやんちゃな餓鬼なのだが。
ともあれ学生ならざる感想だった。
「もらってしまったじゃありませんよ、まったく」
「そう不貞腐れるな。こればっかりは俺の性、俺が俺である理由であってな。ご容赦願いたいってもんだ。その代わり、委員長殿も喧嘩をするなら俺を呼ぶといい」
「私はしませんよ」委員長は勿論そんなバカな誘いを叩き落とす。断った後に、角島の顔に更に言葉を塗りたくった。
「喧嘩なんて馬鹿らしいです。法整備の整った現在で主義主張の違いを暴力に頼るのは間違っています。傷害罪、決闘罪色々あるでしょう。今は学生同士の『喧嘩』で納まっていても将来はそれで済みませんよ」
春川はまるで当たり前のように言う。そんなので解決できるのは春川の自分が正しいと信じて疑わない傲慢なまでの自己中心性と揺らがないメンタルあってこそのはずだ。
だから角島はますます笑う。
鬼のように、飲んだくれのように。
しかし、その笑みの中には幼いものを見る年長者のような慈しみと懐かしいものを見る憧憬とが嘲笑の酒に混ぜられているようだった。
「ふはは、はははははは! ――然りッ、その通りであるとも! まったくしちめんどくさいこと言いなさる! 喧嘩に主義だの、主張だのとは、まったくまったく!」
怒涛の滝にすら勝るとも劣らない笑い声に春川は眉を顰める。
からからとひとしきり笑ったところで、角島は指で目尻をぬぐって言葉を吐く。
「くふふ! 委員長殿は面白い。人を自分の思い通りになると信じて疑わない才覚がある。その傲慢さ、その独善さこそ俺の好きな人間の在り方よ」
薄ら笑いを浮かべて人魚姫の周囲を回遊するうつぼのように委員長の周囲をおもむろに練り歩いた。
「傲慢、ね。よく言われます」本当に何十回と言われ、思われてきたことだから、心に波を立てることなく角島の方に向き直る。
「ところでそろそろ放課後まであなたこそ何をしているんですか。今度も喧嘩だというのなら私は全力で止めますよ。委員長なので」
「そうか。喧嘩か喧嘩じゃないかで言えば、喧嘩じゃない。まぁ拳を振るうことになるかもしれんが」
「そんな例外認めませんよ。それに、随分歯切れが悪いじゃないですか」
歯切れが悪いが角島はいたって真面目そうだった。
喧嘩の果たし状を受け取って今から屋上でその決着をつけてくる、なんてことを隠している様子ではなかった。寧ろさっきは春川に対して警戒しているのかと聞いたくらいなのに、今は角島の方が周囲を警戒しているようだった。
まもなく五時のチャイムが鳴る。
氷坂高校の放課後は最大でも六時までだ。それまでに一時間あるのだが、三階――三年生の教室は嫌に静かで、廊下を静寂の大蛇がうねっていた。
「まぁ俺の趣味ではないってことさえ分かってれば良い。つまるところ鬼退治、かな」
「は?」
「この学校にも触れねぇ方が良いもんってのはいるってわけだ」角島は委員長に向かい合って一歩近づき、より周囲を警戒した。廊下の奥から槍でも飛んでくるのを予感しているかのようで、その予感は春川の方にも伝播していった。「『普段は』寝てるもんなんだが」もうここに尋常はないと翻して言う。
「今日来た代行者に触発されたか知らんが、そういうのが動き出したらしい」
「さっきからなんの話を――」
春川がそこまでいったところで、廊下の向こう側から小さな足音が聞こえてくる。
普段なら聞えないほどの微弱な踵音ですら息を呑む静寂の中では重大な存在になった。その小さな音は徐々に大きく膨れ上がり近づいてくるのが分かる。どうやら階段を上ってきているようだ。
「そら、お出ましのようだ……」
角島も警戒を最大に強め、春川は体を向き直らせて角島の隣に立つ。
廊下の向こう側から響いているはずの足音はもう心臓に響くくらいには近くに来ていて、ついにその足音の正体が曲がり角からぬるりと姿を現す。
真っ赤な日に照らされた白い肌と角島とは対照的な蛇のように細い体。
眠たげな眼でこちらを横目に見てくる。
その紺色の目には光が宿ってはいなかったが、至極うっすらとけだるげに驚きの声を発してきた。
「あれ……角島と春川……何で二人? 何の二人?」
春川は張り詰めていた警戒の緊張を解いて大きくため息をついた。
曲がり角から出てきたのは鬼でも、蛇でもないのだ。
ゆっくりとこっちに向かってくる眠たげな彼は強大な敵ではなく、春川たちと同じクラスメイトだった。
「はぁ、緊張して損しました」
「俺もだ」角島も警戒を解いて頭の後ろに手を回す。
「え……顔見られただけでため息つかれちゃった……お呼びじゃない感じ?」
「別にそういうわけでは……いや、呼んでませんね」
状況がよくつかめていないグレー色の頭髪をした眠たげな彼はいきなり邪険に扱われて、バツが悪そうに頭を掻いた。
「バケモンが出ると思って出てきたのがクラスの中でも張り合いのなさそうな軍川、お前とはな」
「バケモノってどっちかっていうと君ら二人……じゃない?」
「傲慢と言われたことはありますが、バケモノは初めてです」
「俺はたくさん言われたことあるけどな!」
「なんでちょっと自慢げなんですか」
「馬鹿だからでしょ……」
軍川忍。
おっとりとしていてどこか抜けたところのある天然な男子高校生。特徴的な髪色は地毛らしく、天然な性格と相まっていい意味でも悪い意味でも目立っている。
でも、それだけの生徒であって特に素行が悪いわけではない、偶に弁当にアイスクリームを持ってきたり、休み時間中ずっとサッカーボルで玉乗りをしたりするような奇行は見せても、彼が角島の言うような『良くないモノ』である可能性はずっと低いように思われた。
「あ、そうそう……」
「呼ばれてないついでに謝っておくんだけど、これも……ごめんね」
軍川の袖からするりと何かが落ちてきて彼の手に納まる。
「え?」
次の瞬間、彼の手が横一文字に振るわれ、春川の首を切り裂こうとした。
一度緩んだ警戒をもう一度取り返すのには数秒必要で、春川が防御姿勢を取ろうとしたときにはその飛翔体は顔のすぐそばまで来ていた。
夕日を反射して次の瞬間には血を被ることを予見させるように赤く光った刃は一閃の輝きを放ちながら春川を穿たんとした。
な、なんで……!? いや、間に合わないッ!
春川が反射的に目を瞑りそうになった時、そこに大柄の手が被さった。
丁度、刃の閃光を隠すようにして。
「っと――あぶねぇじゃねえか」
ギリギリッ!
カッターナイフの刃が歯ぎしりを立てて、あと少しで届きそうだったものを止められたことにがなる。軍川のおっとりとした顔も強張ってその瞳孔は親指と人差し指の爪で容易そうに刃を止めた角島に向けられる。
がらりと音が立つほどに一変した状況に春川はまだ理解が追いつくことがなく動けずにいた。
さっきまでおっとりとした不思議ちゃんを思わせる雰囲気を纏っていた人間がスイッチが切り替わったようにどす黒い殺意を放っている。
黒い。黒い。
井戸の底から巻き上がる毒の霧のような殺意。
「さすが喧嘩バンチョー」ダウナーボイスがタバコの煙のように角島の顔を撫でる。「指先だけで簡単に止められちゃった……ねぇ、でもこれって喧嘩じゃないよ? 殺すだけ。委員長を殺すだけ……バンチョーが止める理由も、理屈も、道理もない……」
ギリギリ。
ギリギリッ!!
片腕に込められた力を爪で止めている角島もすごいがその怪力の角島に臆せず力を籠め続ける軍川の執念も末恐ろしかった。
その顔はいつも通り無表情なのだが、いつもより『虚ろ』だった。魂のない、或いは操られたかのような。
「笑止! この俺が理屈っぽく見えるとな!? はははっ!」
「笑うなって言っといて自分で笑うなよ……」
「喧嘩っつーのは理屈の対岸にいるのよぉ、つまりどういうことかっつーと!」
「――俺がお前の喧嘩相手だッ!」
ババンッ! とお江戸の時代劇だったらここでかっこいい響きが入りそうだったが、生憎入らず代わりに角島が続けて「今決めたぜッ!」とお茶らけたように言い捨てた。
そんなお茶らけた調子に春川は信頼を置いた。
角島はカッターナイフを投げ捨てるように摘まんだソレを振り払おうとしたが、すぐさま軍川がカッターの刃を折って、振り払いを抜けて今度は奇襲を角島に集中して浴びせる。
「めんどくさい……シンプルに終わらせよう……」
「そうさ、喧嘩は単純明快! ぶっ飛ばした方が勝ちだぜ!」
カッターナイフを構えるその姿はアサシンのように整っており、一方の角島の喧嘩スタイルとは一線を画しているのが分かる。
小型ナイフほどの射程距離しかなく、また怪我をさせる程度の殺傷能力しかないはずのカッターナイフが彼の鮮やかな暗殺技巧に掛け合わさって一振り一振りが致命の一撃に変身する。
しかし、その致命の一振りを角島も動きとタイミングを合わせて回避し、捕まえようとする。
小さい構えから左手首を狙った一撃をそのまま角島は左手で迎え撃つところに、軍川が足蹴りを角島の右脚に放ちバランスを崩させようとする。しかし、喧嘩で鍛えた角島の体幹は揺るぐことなくそのままカッターナイフをつかみ取る。瞬時に対応して軍川はまた刃をパキッ! と折って、カッターのメーターを進めた。替え刃はまた同じ長さになり、カランと音を立てて折られた刃が鱗のように足元で光る。
「委員長殿、下がれ……!」
「う、えっ!?」
次の瞬間には刃は春川に蛇のようなうねりを付けながら狙っていた。その一撃を今度は膝で狙ってグリップごと落とさせようと仕向ける角島。しかし、その膝の衝撃を受け流しながらカッターナイフを左手に移した軍川が宙で留守になっていた角島の右手を切りつける。
(は、早いッ――!)
右手首の薄皮が切れ、そこから血が滲む。
軍川が満足げに小さく笑った。
「角島は速いね……僕の方がもっと速いけど」
「いつも鈍間がどっかに消えたみたいに速いじゃねえの。でも、速いだけじゃ満足できねぇぜ!」
そう言って手刀を振って血を飛ばす角島。
対岸の軍川の目にはゆらゆらとどこを切りつけるかの点線が見えているようだ。
春川は後方からその様子をじっと見ているしかないことをじれったく思いながらも思案を巡らせ始めた。
尋常ならざる雰囲気が巻き上がり、廊下はその熱気に揺らめくように歪んで見える。
夕刻の時分にて始まる喧嘩番長と暗殺学徒の一戦が一人の乙女を巡って開かれんとしていた。




