恋に恋するお年頃
コンクリートの力強さをかつてここまで感じたことがあっただろうか。
高校生に入ってからこうも強く大地に殴られたことはない。
小学生の時にジャングルジムから落ちた時以来か、或いは無理やり階段を誤断飛ばしで降りて転んだ時以来か。
いずれにせよ春川さんのカウンターブローは僕にとって空前絶後の一撃だったことには変わらない。
それは肉体的にも精神的にもである。
「ふ、振られたぁ……うぅは、ははは。はは、春、はは春か、ははは……春川さんにぃ……っははは」
最早春川さんについて言及しているのか笑っているのか自分でも分かっていない。
ただ笑ってしまうほどに威力がある。
「私の名前を笑わないでください!あと、脈絡なく告白をしないでください!」
ごもっともである。
しかしながら涙でぼやけた視界に納まる桜色に染まった顔を見ると告白して悪くなかった気がする。
きっとこんなイベントは彼女を後ろの席から眺めているだけでは見られなかったはずだ。
涙の中に喜びがある。
悲喜こもごも。
二度目のつかいどころだなぁ。
「いてて……ナイスなカウンターでした。黄金比の一撃、クリティカルヒット……」
「いきなり殴ったことは謝りましょう。しかしながらあの状況で私に対して告白するというのは一種のハラスメントだと主張します。昨今ではハラスメントも細分化され、さっきの行動は可能性がないのに告白をする行為、コクハラに当たる可能性があります。慎んでください」
「あははぁ、反省を超えて猛省です……ですが、僕の言葉に偽りはありません。前々から春川さんのことが好きだったんです。あなたの素直で正しくて真っすぐなところが」
立ち上がって彼女の顔をもう一度よく見る。
既に桜色は引いてひつものクールビューティーな美白肌だ。
黒髪の似合う美しい顔は動揺など一度もしたことがないと素知らぬフリをする。
嘘などつかないと言った彼女も案外誤魔化したりはしているのかもしれない。
「……好きだと言われたのは中学一年生以来ですね」
「えぇっ!」
「なんですかその驚愕は。何かおかしいですか」
「いや、春川さんの超絶怒涛、空前絶後の美貌に置かれましては告白されたり好意を持たれたりするのは当たり前のことでしょうが。その、春川さんに告白した男子とは付き合ったのかな~なんて……」
「九重くん並みの言葉選びが癪に障りますね」
人差し指と人差し指をくっつけてもじもじする。
僕以前に春川さんと付き合ったり愛を育んだ人がいるというのなら嫉妬の業火によってこの灰になりかけの昆虫の心は完全に燃え尽きてしまうかもしれない。
いや、一周回って燃えるかも。
まぁどの道ただでは済まない。
「付き合ってませんが、何か?そしてこれからも誰とも付き合っていく気はしませんが、何か?」
「なんでもありません。春川さんはそのままの春川さんが一番です」
「それは私を色眼鏡で見てませんか。例え何かの間違いでバイクに乗りながら標識を担いで髪型をリーゼントにしていてもそれは春川薊なのですよ。その春川薊はどうするのです」
「そんな春川さんも新鮮で良いと思います」
「そうですか」
非行に走る春川さんなど解釈違いではあるのだが、見たくないわけではない。
テールランプを揺らす赤きあだ花が都会のカラーギャングをその膂力でなぎ倒す。そんな美しさもありだと思う。というか実際彼女の膂力はすごいから一場面としては納得のいく構図になるだろう。きっと非行の中にも鋼の筋があって彼女なりの正義があるに違いない。
正義を持って言行を一致させる。それが彼女のベースなのだ。
「お弁当、食べなくていいんですか」
「食べます食べます。食べながら話しても?それってマナー違反だったり」
「私に気を使う必要は今を持って無くなりました。どうぞお好きなように」
春川さんの許可を貰った僕は春川さんのように豪快に食べることはせず、地味に凡庸に箸を進めていった。おかずと白米を反復横跳びしながら聞きたかったことを聞いてみる。
「もぐもぐ。なんで屋上を退避場所に選んだんですか?いつもはどんなに孤立してても、教室で食べていたじゃありませんか」
「前々から屋上で食べてみたいと思ってたから、ただそれだけのことですよ。ただそれだけのことを今になるまでしてこなかったので、やっただけにすぎません。感傷だとか、ショックを受けてとか、そんなセンチメンタリズムではないのです」
彼女はそう嘯く。
ただそれだけのこと。人生には余りにも多すぎる取るに足りなかったはずの行為が彼女には簡単なことではなくなってしまった。
空を見上げるその姿はセンチメンタリズムの象徴。
それは見ている受けてだけが得る勝手な解釈というやつなのか。
彼女がよどみなく否定するのだから僕にはそれ以上の意味を見出すことはできない。
でも、少しだけ。自分の強さを守ろうとするやせ我慢な逃避があったような気がした。
「それであなたは?あなたはどうしてここに」
「クラスにいるのが居たたまれなくなったからですかね。クラスの皆、特にレジーナさんたちみたいな特別な人たちは春川さんがいけにえにされたことを良い機会かのように言う。あの苧環さんですらそんな奴らの方に行ってしまった。だから、俺は、居たたまれなくなって屋上に来たんです。ここなら誰もいない。否定も非難も飛んでこない」
壁もなく、敷居もなく、生徒の声が遠くから聞えてくるだけの場所。
閑散の園。
表面上で屋上は自由で長閑な場所だ。
しかしながら僕の意識の下では牢獄と何ら変わりない。
何もないという空間と距離の絶対的な鉄格子が僕を守ってくれる。
牢獄とは犯罪者にとっての贖罪の場で、なおかつ人民から守られた空間でもある。
私刑による贖罪を否定し反省による贖罪を肯定する場。
僕にとってはそれが屋上だったというだけに過ぎない。
「レジーナさんは言うでしょうね。彼女は暇を惜しんで自分の強さ美しさを作り出す人ですから。一十ちゃんは世渡りが上手いだけで非情なわけではないのです。皆先を見据えてのことなんですよ」
春川さんはまるで彼女たちの心を把握していたように言う。
そう易々と未来に目を向けられるのか。
そんな難しいことは僕にはできなかった。大きな大きな惑星に引き寄せられる小天体の如く僕は目先の春川さんのことが気になって仕方がない。
「あなたも――未来に行けばいいでしょう。あなたにはその足がある。堂々とすればいいのです」
「堂々とするって難しいですよ。春川さん級の度胸が俺にはありませんから」
「はぁ……そうですか。まぁ、あなたは恋に恋する人でしょうから堂々としてなくともきっといい人生が歩めるでしょう。誰かに勇気づけられ、走る日をそうやって心待ちにしていなさい」
最後に春川さんはそう言って屋上を後にしてしまった。
あの鉄扉を軽々と開けてその暗闇の中に消えていった。
胸の中の空虚感に半透明の槍が突き刺さったようだった。彼女の言葉の意味を咀嚼してその槍を掴もうとするが半透明の槍は手を通り抜ける。つまるところ僕には意味をキッチリと理解することはできなかった。
そのうちに空虚感はより大きな静寂、屋上の真っ青な空気と同期して広がって薄まっていった。
何も分からなくていいんじゃないか。
誰かに期待し続ければ自分は傷つくことはない。
僕は壁も格子もない鳥かごの中で用意された弁当を一人で食べ続けた。
なんだか味がしなかった。