O.K.屋上の決闘
広がる天。
青く澄み渡り中天に太陽が輝く。
いと尊き太陽。
その光景はいつも僕のどんよりとした気分を晴らしてくれる最高のパワースポットだ。太陽の暖かな光を浴びながら、そよ風に吹かれて食べる弁当は便所飯や教室で銀矢と細々と食べるのともまた格別違った良さがある。
屋上の代行者ならぬ屋上の侵犯者というわけだ。
九割がたいつもと同じ光景なのだが一点だけ違う点がある。
川を流れる桜の花弁を見つけた時のような柔らかな衝撃。
太陽から視線を垂直に下すと何故か春川さんがいた。
「は、はる、はるはわさん……!」
僕は愕然とした。
舌を奥歯で噛んだ。
痛い=夢ではない。
「いやいやいやいや……な、なな!」
なんで!?
どうして春川さんがここにいるんだ!?
そういえば考え事で周りが見えてなかったが肝心の春川さんが教室にいなかったような気もした。
いや、でもどうやってここに?
「私は春川です。波春春波環さんではありません」
「す、すいません噛みました」
「噛んだことを反省するつもりがあるなら『すみません』も噛まずに言ってください」
「すみません……」
出会いがしらに言葉のジャブがクリーンヒットする。
この体重のかかった一撃がたまらない。
初っ端から印象が悪くなったことにしょぼくれそうだ。
しかしながら、ふと春川さんが箸を持っていることに気づく。
その左手には竹製の弁当箱。
「お弁当……」
「お弁当が何ですか」
「お弁当、食べてらっしゃっていたんですね」
「そうです。今しがたあなたに中断されましたが」
それは気まずい。
しかし、こんなにも春川さんと話せたのは初めてだ。気まずさの中にも楽しさあり。悲しみと喜びが交差するこの状況を悲喜こもごもと形容するのか。一生使わない言葉を使う機会を与えてくれる春川さんはさすがである。
そう。
十中八九他の人がこの状況に出くわしたのならトゲのある物言いに吹き飛ばされて、逃走するかもしれないが僕にとってはかけがえのない時間なのだ。
嬉しい、アイドルのサイン会のようだ。
行ったことないけど。
「それについても申し訳なく思います。しかしながら、春川さん。屋上は施錠されていたはずなのにどうやって入ることが出来たのですか」
僕は改まって丁寧な口調で尋ねてみる。
これ以上彼女の気分を害したくないが、それはそれとして屋上に来れるのは生徒間では僕だけの特権のはずだ。学級委員長としての仕事で来たのだろうか。
「重田先生から鍵を借りました。逆にあなたはどうしてここに来たのですか?ここが施錠されていると知っていたのならわざわざ屋上に行こうとはしないと推測できますが」
「あ、えーっと……」
鍵の件を言うべきか。
答えはノー。
では、どう言い訳するべきか。
閃けボクの脳内最高議会。
「許可なく言い淀まないでください」
「え、許可!」
考えることくらいしか取り柄のない僕に考える間隙を与えない春川さん。
春川さんは人の心理を突くのが上手い。
「今、右上をちらっと見ましたね?嘘をつこうとしてたんでしょう」
春川さんが洞察するように僕の目の中を覗き込んだ。
一瞬にして目を逸らさなければ、その視線が目の奥まで突き刺さって本当に何も言えなくなる。
それに、ばれてる。
というか細かい所作から人が嘘をつこうとしているのを見破るなんて春川さん、どんな人間観察力してるんだ。
「そ、そんな、春川さんに嘘だなんて滅相も……」
「許可なく噛まないでください」
「許可いるんですか……すいません」
「すいませんではなく、すみませんです。すみませんという謝罪は元々『済む』という動詞からきているのですから、『い』と訛るのは本来間違いです」
全身に浴びせられる添削の千本ノック。
隙を見せた瞬間に打ち込んでくる言葉のダンガン。
さすが春川さん……頭も舌も回転が速い。
「実は屋上の鍵、持っていまして」
「アナタも借りてきたんですか」
「いや、校舎裏の花壇で拾ったんです……すみません」
僕は洗いざらい話すことにした。
これ以上彼女に尋問という手を煩わせないために。言葉によるなら舌を煩わせないためと言うべきか。
「――なるほど。日常的にここをよく使っているのですか。その違法鍵を使って」
「違法鍵ではないですけど」
「脱法鍵ですか」
「いつかはしれっと返却するつもりでした」
「いつかは?しれっと?そのいつかって明日のことですか。卒業した後ですか。あなたが明日も明後日も生きている保証はないというのに」
明日も明後日も生きている保証はない。
その言葉は納得もできるし、理解もできる。
何より『重たい』言葉だった。彼女自身がそれについて体験し、理解しているから。
けれど、受け取りがたいものだった。
僕は肩を窄め、言い返す言葉もなくただ屋上に吹く乾燥した風に撫でつけられていた。
「もしあなたが明日馬に蹴られて死ぬとして、きっと走馬灯で鍵のことを思い出すでしょう。その時にあぁ、返せなかったなって後悔したりすると思います。そんな鍵一つを思い出して死に際にすっきりできずに死ぬんですよ?」
彼女は自分が借りてきた鍵を僕に見せて冷静に熱弁する。
「そんな惨めなことあっていいはずがないのだから、きちんと今日返却しに行きなさい」
僕は頷くように俯く。
きっと春川さんの言う通りだ。
だから意を決っして言うことにした。
「春川さんも後悔していることがあるんですか」
彼女の表情が固まる。
時間が制止して、太陽に薄雲がかかる。
「……」
それでも、彼女は動揺を見せなかった。
ただいつも通り勇壮な鉄仮面をした黒髪の麗人でいた。僕らのクラスの委員長でいた。
ただ僕が語り掛けている相手はそんなカリスマに満ち溢れた委員長の影じゃない。面と向かって僕に後悔しないように最善を尽くせと発破をかけてくれた春川薊さんに言ったのだ。
僕は言葉を続ける。
「やっぱり、いけにえの話……春川さんも怖いって思ったりすることあるんですね」
晴天の下なのに暗黒の中に僕たちはいた。
彼女は切り返そうと口を開けるが、歯がゆそうにすぐ閉じてしまった。
溺れて息も吸えない、何を最初に言えばいいのかまとまっていない。
一方的に弾劾する側に立っていたのにいきなり路傍の石が槍の如き質問を突き刺してきたのだ。驚くのも無理はなかっただろう。それでも、普段の春川さんなら驚きつつも反論してきた。
反論できないのは彼女にとってどんな言葉を正しさとして標榜してもそれは自分に対する嘘になってしまうからだろう。
言行一致の正義を掲げる春川さんには、『いけにえになることを受け入れること』も『受け入れずに逃げること』も間違いなのだ。
だから、どう選択することも彼女にとっては――
「はは……私が恐怖しているように見える、と」
春川さんは乾いた笑みを浮かべた。
それは彼女には似合わない枯れ落ちた花弁のような笑みだった。
しかし、その目は地の端を見据えながらも鋭く光った。
「私が心無い氷の人形にでも見えましたか。春が来れば溶けてしまうように脆いものに」
彼女は皮肉気に言って笑った。
「春川さんは確かに冷たいところはあります。怖いと恐れるより畏れられる方が多いかもしれない」
春川さんに一方通行な恋心を抱く僕でさえ、どんな盲目的作用が働いてもそこだけは見間違うことはないだろう。万物を貫く槍の如き厳然こそ彼女の輪郭なのだから。しかし、それだけではない。
「でも、誰よりも優しくて、人望に熱いと思います。あのクラスにはカリスマだったり、才能だったり、いろんな『持ってる』生徒はいますけどあの癖のあるクラスを統率できるのはやっぱり春川さんを置いて他にいないですよ」
あの教室が狭く感じるのは人数の問題じゃなくて生徒たちの五月蠅さや気質が騒がしく見せている。玉石混合、十人十色、されど絶対十把一絡げには扱えないあのしちめんどくさいクラスメイト達をまとめ上げれるのはやっぱり春川さんだけだ。
僕はそう思う。
きっとみんなもそうに違いない。
「ありがたい評価ですね。一人にでもそんな風に思っていただけたのならこれまでやってきたことは無駄じゃなかったなと思えました。まぁ、もうじき関係なくなるでしょうが」
「どうせ、死んでしまうから?」
「見え透いたと言いたげな物言い……不愉快です。私が神だったら針のむしろにして殺生石の隣に打ち捨てているところです」
「針のむしろにされてもかまいませんよ。言いたいことがあるんじゃないですか。春川さんがどんなに正しい人でも人である限り後悔はするはず、だからこそ俺はそんなあなたの思いが聞きたい!」
困惑。
躊躇。
そして、迷いと決断の波が彼女を幾重にも襲う。
「私の、思い……?」
春川さんは決壊しそうだった言葉の数々をやや汗をかきながら飲み込んだ。
そして咀嚼する。牛のように例えるのは不敬だが反芻する。
最も最初に言うべき言葉は何だ。
言葉に乗せる意味は何だ。
伝えたいこと。
後悔していること。
どう宣言する。
きっと想像にも及ばないほど彼女は慎重に自分の言葉を選んでいる。
彼女の美しい瞳をじっと見ていて分かる。
「ふん、そうですか。私の話が聞きたいと? ならばとっておきを言わねばなりませんね」
不敵に笑うその姿には陽光がかかり、苔むした石さえ彼女の傍では宝石のように輝くだろう。
春川さんはやっぱり綺麗だ。
そう思った。
それから一陣の風が彼女のブラウスをたなびかせ、彼女が大きく口を開いた。
「美味しかったッ!」
それは余りにも大きな声だった。
「えぇ……?」
予想だにしない吐露が轟き、僕は唖然として口を開いた。
文字通りあんぐりと。
聞えていなかったわけではないが、意味は理解できなかった。
彼女は一体何を言っているんだ。
そんなわくわくが止まらなかった。
「ですから、私の言い残したことです!誰かに一度自慢したかったんです!」
照れくさい笑みを浮かべる彼女に可愛いという感想を抱くよりも先に言葉の雨が降り注ぐ。
怒涛の流れ、歓喜の雨だ。
「このお弁当は私の母が作ってくれたもの!ものすごく美味しい!あなたのお弁当にも負けず劣らず美味しい!」
はぐっ、はぐっ、と白米と冷凍唐揚げを箸でかきこんで咀嚼する。
マカロニサラダも卵焼きも吸い込まれてく。
あっけにとられる僕。
頬に米粒を付け咀嚼する彼女。
「あぁ!なんて愛情深い味がするのでしょう!こんなにもおいしいものを毎日作っていただけて食べることができてこれに勝る幸せなんてない!」
一拍置いた彼女はまた箸でぼろぼろと口の中にお弁当を流し込む。
もはや味わえているのかも分からない。飲み込んでいるというのが正しい表現なのではないか。
そしてお弁当を持ったまま天を仰いだ。
お弁当の中のあまねく銀河、神羅万象が彼女の口の中というブラックホールに吸い込まれた。
「ずっと……ずっと自分に嘘をつくことなく生きてきたんです。自分なりの正義を貫いてきました。それでも後悔がないということはできません。やり残したことは沢山あります。やり直したいこともたくさんあります。まずもってこのお弁当に詰まった愛情に見合う親孝行を私はまだできていません」
頬の米粒を親指で拭って舐めとる。
空の弁当箱には米粒一つたりとも残ってはいない。
「代行者の手前ああは言いましたが、私は自分の命一つでこの世界が良くなるというのならばそれでもいいのかもしれないと思ってるのです。世界にとって正しさというのはそこまで重要じゃありません。みんな騙し騙し本当のような嘘をついて、自分を偽って、自分を犠牲にして生きているのです。だから私のように至極まっとうで究極に素直な人間は社会からしたら鼻つまみものでしょう」
目は澄んでいる。
この青空よりも透き通っている。
「人に見向きされなくても、石を投げられても、社会に無視をされても、それでも私の心はそんな彼らを憎みたいとは思わない。正義は常に孤独です。孤独は常に虚しさの中にあります。それでも、その虚しさにも光が当たったことはある。ひとえに悲しくはあるけれど、私を想ってくれた人が一人でもいるのならその愛おしさで私は私としていられる」
強い言葉だ。
僕なんかが近づけるほどの人間じゃない。
輝かしいほど澄み渡っている。
無限の水底の底にまで光が及ぶが如く彼女の心は澄んでいる。
「だから……いいんです……私は何も、例え明日川に沈められようと何にも絶望はしない!」
「春川さん……」
でもそれが諦観の強さだというのなら僕はそれを否定しなくてはならない。
彼女の死が彼女の勇気を持って受け入れられる。
そんなのは僕の望む未来じゃない。春川さんが受け入れても、僕には受け入れられないものだ。
僕の身が燃え上がる。
春川さんの眩さに燃やされた僕の心が強い欲求を吐き出す。
「春川さん」
「……なんですか」
僕は意を決して言うんだ。
鍵なんて捨てて、
後悔なんてぶっ壊して、
僕は叫ぶんだ。
「好きですッ!」
「は、はぁ? 丁重にお断りさせていただきますッ」
初めて見せた彼女の動揺は鉄仮面を綻ばせ、恥じらう少女のような可愛さを花が咲くように出現させる。その可憐な花弁の隙間から放たれる弾丸のような拳は突発的なミスショット。
ただの暴発は淀むことなく僕の顔面を打ち砕き、波紋を揺蕩わせる。
「グハッ……!」
春川さんに素直に本音を伝えるも爆死した僕は宙を仰いでぶっ倒れた。
まるでカウンターを受けたボクシング選手のようにすっ飛んで。
いや頬の痛み=現実。
すなわち本当に拳による制裁だ。
K.O.