水分礼賛、彼女生贄
教室に張り詰めた緊張感。
いつも通りの朝ならばザワザワと喋り声がするはずなのに、今日の教室に響き渡るのはたった一人の声だけだ。
「と、呼んでみたのは良いものの……春川、春川薊さんはどなたかな?」
川の代行者としてきた男、沙悟はおもむろにクラス全員の顔をZの字を書いて、爬虫類のように鋭い視線で刺していく。
僕は睨み返す勇気もなく机の木目と目を合わせるほかなかった。
自分に対する失望感を押し殺しながら嵐が過ぎ去るのを待った。
惨めな気分だ。
しかしながら春川さんもまだ名乗りを上げない。生き延びるためにはそうするほかないが、黙り続けてもいずれはばれてしまう。じゃあ名乗ればいいものかと言えばそうでもない気がする。選択肢がないのに堂々巡りだ。
――彼女の周囲にいるだけのクラスメイトAにできることはあるのだろうか。
あまりにも脆い自分にうんざりするが、そこから跳ね上がる決心もつかなかった。
僕は一体どうしたら……いや、何かをすべきなのか……
「わ、私です。春川薊は私です」
震えた声だがそのおかげで思考の闇の中にいた僕に一筋の光明が差さった。
僕が額に手を当てて考え込んでる間に一人の女子生徒が立ち上がっているではないか。
それはまさしく春川薊さん。
ではなく長くうねった紺色の髪に地味な丸眼鏡をかけた地味な感じの女子生徒だ。
「苧環、さん……?」
不意に自分の口から彼女の本当の名が溢れた。
彼女は確か春川さんの友人の苧環一十さんだ。地味で目立たなそうなニ軍女子としてクラスにいるが、誰とでも着かず離れず仲良くしている人物だ。もちろん僕も何度か話したことがある。中でも春川さんとは特に仲が良さそうだったのを覚えていた。
だが、何故苧環さんが?
と思ったがすぐに苦虫を噛み潰す予想に思い当たった。
彼女は紛れもなく友人を助けるために動けたのだろうな。
クラスメイトAではできなかったことを友人Aは決死の気持ちでやり遂げた。
「な、何を言ってるのかね、君は違うでしょ苧環さん?」
緊迫する場面に震えた間抜け声が割って入る。
空気の読めない重田先生が想定外のことに突っ込みを入れるが、苧環さんの信念は固かった。
「違いません、私が春川です! いけにえにするのなら私を連れて行ってください!」
「なにやってんのまきちゃん、やめなよ……!」
「そうだ苧環がそんなことしても……」
クラスメイト達が口々に顔面蒼白な苧環さんがこれ以上乱心を起こさないように止めに入ろうとする。
それでも彼女の顔は友人を守るために立ち上がる悲壮な少女の顔のまま代行者沙悟と直面していた。
「クックック……偽物に身代わりになる資格などありはしない。人の決定ならいざ知らず神の決定に逆らおうとは愚かなことです、おとなしくそこで座っていれば良かったものを」
沙悟は黒板から離れて苧環さんの席、前から三列目のところへとゆっくりと確実に近づいていった。その一歩一歩が地を鳴らすように固く、苧環さんの手は震えていた。
そんな彼女を守るように春川さんは立ち上がった。
「もういい……もういいわ、いとちゃん」
「……薊ちゃん」
二人の視線が星と星を結ぶように交差する。
春川さんの平静、憤り、苛立ち、慈しみ。
苧環さんの憂慮、心配、恐怖、勇気。
互いに違う感情の色が色濃く目や細かな所作にあふれ出ている。
だからこそぱちりと目が合ったその刹那に二人が言葉なく対話したのだ。
「いとちゃん、あなたの気遣い嬉しかったわ。だけどここからは私が自分のすべきことをするから」
苧環さんの方に歩み寄って彼女の方に優しく手を触れる。
ようやく今日初めて彼女の顔を見ることができた。
彼女の顔に宿った憂いと優しさが柔らかに混ざった表情を見るのもまた初めてのことだった。
彼女はゆっくりと苧環さんの肩においた手に力を入れて、彼女を席に座らせる。それは嵐が来る前のほんのばかりの静けさで、すぐさま彼女は見えない鎧を纏い、硝子細工のように一部の隙も無い精巧な自信にあふれていた。
「クックック、立ち上がれなかったあなたが今更そんな救世主みたいに勇気に溢れた顔をするのですか。いえまぁ、あなたといういけにえがよりこの国の発展につながるわけですが」
「友達が私の名前を名乗ってて、私が私じゃなくなったのかと思って動揺してただけ――いっそわたしであることを辞められるのならやぶさかでもないのだけれど」
短く嘆息をする春川さん。
沙悟は彼女から漂いはじめた気迫に目を見開く。
「けれど私として名乗ってあげるわ。だって、私は自分に結構自信ある方ですから」
「――私が春川薊よ」
春一番が吹き抜ける。
彼女という桜から散る桜吹雪が沙悟もクラスも圧倒してやまない。
いつもは彼女のお堅い雰囲気を毛嫌いしていた軽薄な男子たちも今の彼女の魅力に釘付けになっている。
「は、春川ってあんなかっこよかったっけ……」
「いつももっと理屈っぽい真面目ちゃんだったのにな、すげぇ」
「ばーか。うちの委員長はいつでもかっこいいんだよ」
春川さんは徹頭徹尾一部始終天上天下にかっこいいのだ。
今更魅力に気づいた者どもを僕は不服に思ったが、ともかく春川さんは間違いなく代行者を人として上回っていた。
しかし、沙悟が盤面をひっくり返されたような焦りを表に出すことはなかった。
神のいけにえに選ばれた人物のことを最初から今の春川さんのように気高い人物だと想定していたのか、或いは春川さんのような人物を既に何人もいけにえにしてきたのだろうか……慣れ、のようなものがあった。
唾を飲み込んで様子を直視し続ける。
「川の代行者としてあなたに会えたことを神に代わって喜ばしく思いますよ。えぇ、あなたは我が神の贄になるのに相応しい品格をお持ちだ」
「あなたに褒められても嬉しくないわ」
「……これは手厳しい。ですが、喜ばしく思いたくもなる。人間の心は誰も彼もくすんでいるが、その中であなただけが高潔にあるのですから」
「それで川の神のいけにえにしてやると言われるのだから、美徳というものにも愛想が尽きるわね」
近づくもの一切を寄せ付けないその冷たさに僕は痺れた。
もちろん沙悟も面食らったように眉間にしわを寄せている。
舌戦は鍔迫り合い、拮抗している様子。いやむしろ春川さんの方が若干善戦しているようだ。
いいぞ、春川さんもっとやってしまえ――!
僕の心のボルテージはかなり高くまで上がってきていた。
「どこの誰とも知らない人にどこの何とも分からないものに捧げられるなんて気に食わないし、私の人権を侵害してるわ」
「人権侵害だと……神の恩恵に預かるものが恩恵を返還せよという神からの宣告を人権侵害などと俗な言葉で罵ると言うのか」
「は? 言葉遣いが嫌だったんですか? だったら簡潔に言いましょう。断固として拒否します。私、川に身を投げるつもりは毛頭ありませんから」
凛と言葉の一太刀を絡め手なしに突き刺す。
腹にそんな言葉を突き立てられた沙悟の顔が酷く歪んだ。
しっかりとした足取りで席から離れ教壇に立ち直る。
学ラン服も相まってその様子はクラスに意見を求める時の学級委員長のように見えたが、次の一コマにはそんな印象は吹き飛んでいた。
「拒否……拒否などという選択肢があるわけないだろッ!」
怒号が劈く。
青白く不健康そうだった顔色が紅葉のように燃え上がった。
あの細身で暗い印象を受ける立ち姿からは想像もできない声量に何人かの生徒はひっ、と悲鳴を漏らした。そして、他の生徒たちもまた沙悟の姿を凝視して恐怖をせり上げる。
逆巻く怒りの激流が沙悟から漏れ出ているようだ。
コンクリートの上に立ち上る蜃気楼のような空間を歪める怒りのオーラが沙悟の体を這いまわっていた。
「神の代行者に反論するとは非常識な……」
後方からぼそりと独り言が呟きが零れ落ちる。
揺るぎない神秘を代行した者に逆らうというのは一匹の蟻が象に立ち向かうよりも無謀であることだ。神に反旗を翻すということ自体が不遜であり、全ての人民は神によって天命を決められているはずだ。
それに逆らおうというのだ。
春川さんは北風に立ち向かう葦だ。
自分の意思を神にすら貫き通す彼女はカッコいいだろう。
パリン!
という割れる音がして、今朝日直が水を替えたばかりの花瓶にひびが入ってそこから水が漏れ出していた。その音でクラスの緊張は一気に高まり最早僕たちは一限目のことを忘れて二人の話に耳を傾け続けるほかなかった。
「まぁ、あなたが『拒否』する意思を示すのは構いませんよ。ですが、果たしてその意思を貫き通せるかは怪しいですけど」
「どういう意味かしら? 例え天と地がひっくり返ろうが、開闢しようが、いけにえなんて私の中では光栄の『こ』の字も結びつかないわ」
「結構。これはあなた個人の意思レベルの話じゃないのです。拒否という選択肢がないと言えるくらいには無理なことだということですよ。警察の任意同行がほぼ強制なように、神の宣告も誰かの意思ではなくそういう運命だということに過ぎないのです」
落ち着きを取り戻した沙悟は不気味な笑みを浮かべてそう言った。
割れた花瓶から零れた水滴がぴちゃりぴちゃりと音を立てる。僕たちの足元を不可視の大蛇が這いまわっているが如き寒気が襲った。
「神社庁への申請さえ終わってしまえば、後は中明目川水分神の御望みの通りになる。それはたかだか代行者たる私が決めたことではなく、川という偉大な自然の意思に他ならない。ゆえにこれはお願いではなく、また選択を突き付けてるわけでもない。ただ宣告。そうなるというだけのこと」
なるほどそういうことか。
例え春川さんが沙悟を説き伏せることが出来たとしても、大いなる神の所業を止めることはできないのだ。
春川さんはさっきまでの勢いを失速させて押し黙ってしまった。
神社庁。
伊勢神宮を総本山として、全国に三十万社はあるとされる神社を管理し、そこにいる神の行動によって起こる吉兆、凶兆の情報を集めて国民に知らせたりもするところ。公務についている代行者や全国に散らばる大小さまざまな神、または代行者を天照に代わってこまごまと管理するある意味で『天照の代行者』たる省庁の一つ。
神社庁では人間を縛る法律の如く、神と神に等しい代行者にある程度の制約を設ける『神の法』を管理している。この神の法自体は人間が創設したものではなく八百万の神を司る天照が起草したものだ。
神の法は人間の六法を上回る効力がありいけにえに関する神の法もある。
八百万を超えるという神が全員好き勝手にいけにえを求めることが出来ないように規制を張るほか、いけにえを求める神には必ず代行者が神社庁に申請するように天照が義務づけている。
裏を返せばその義務を通せば、中明目川水分神が与えられたいけにえを求めることは人では阻むことが出来ないというわけだ。法的にも、力量的にも。
「あなたはこの明目町にいる限り、いつか川の神へとその体を奉じる。もし、あなたがいなくなればこの町に濁流が襲うかもしれない。或いはより多くの人間が贄となるやもしれない。あなた以外の誰かを、神は拝領なさるだろう。それは――あなたの友達かもしれないし、あなたの嫌いな奴かもしれないし、あなたの恋人かもしれないし、あなたの両親かもしれない」
春川さんは何も言わない。
誰も、何も言えない。
「その命の代わりに成れるのがあなただけなのです。その権利をよく考えることですね。期限は一週間後とでもしておきましょうか。その日までに意思を固めておくことです。それでは」
代行者は帰っていった。
ふんぞり返るような態度を最後に戻して。
クラスの中はがらんどうの虚無感で満たされる。
誰も――あの苧環さんでさえ――春川さんに声を掛けることはしなかった。
できなかったというのが正しいだろう。
一限目の国語の授業は十分遅れながら正常に始まった。
これまでの日常と変わらず、歯車に狂いのない時計みたいなフリをして、学校も、世界も。
太陽もゆっくりとめぐってく。
落ちる夕日へ変わっていく。
春川さんも嘘みたいに普段の調子で、ただ僕だけがあのいけにえを宣告された時間から戻ってくれなかったようにずっと秒針をそこで止めていた。
代行者が好き勝手にいけにえを取れるのかと言えばそういうわけではありません。
多くの代行者は神の声が聞こえたり、神が見えたりするなどの症状があります。その声はほとんどの場合代行者にしか聞こえないので、代行者が神に従って供物を要求する申請を神社庁で行います。
生贄や供物などを要求できる代行者というのは細かな条件を満たさなくてはならず、満たした場合でも死刑囚や自殺志願者の中からいけにえがあてがわれることが多いです。(信仰もへったくれもないね)
そんな神の中でも社会に甚大な影響を与える可能性がある神の場合は、ほぼほぼ自由にいけにえを指名できます。(というか、人間じゃ手に負えないので最早事後報告)
沙悟が代行する中明目川水分神は治水に纏わる神のため多大な人命・水産資源および農業的損失が見込まれるので、そんな損失が出る神の怒りが落とされるくらいなら、少女一人をいけにえにしてもいいよ、という最大多数の幸福原理で認められているわけですね。
山、川とか自然の神は普通に人では手に負えない類のものが多いです。なので、ときたまそんな神の出力口となる代行者を神社庁側で密かに間引くこともあります。