恋も川も遡上する
キーンコーンカーンコーン。
「起立、きをつけ、礼」
始業のチャイムが校内に響き渡る。
まだ春の朝の冷たさに慣れない体もこの音を聞くとスイッチが入ったように動き出す。
この独特なメロディーは日本特有のものだと聞くが、確かに僕らのDNAに刻まれているのかと思うほど聞きなじみがある気がする。
「おはようございます」
委員長である春川さんの号令に追従するようにクラスメイト達も気だるそうな声を合わせて号令を唱える。
「おはようございます……」
温度差にばらつきのある声が教室の生ぬるさを引き立たせた。
しかし、その生ぬるい教室の中でも紅一点光り輝く所作で春川さんは「着席」を唱える。
朝の眠気に沈んでいる生徒たちは糸が切れたマリオネットのように無気力に席に座った。
「はぁ……」
自分がいつの間にかため息をついてしまっていることに気づいて口元に手をやった。最近いつもこんな調子になってしまっているのだが、実際彼女を見ていると煩わしいため息が出てしまうほど感心させられる。
椿が映えそうな長い黒髪に、白い肌。
足もすらっと長くてと素敵なスタイルだ。じっと顔を見たことはないが彼女の目尻には黒子があってそれがクールビューティーな彼女のチャームポイントになっている。
それだけの美を兼ね備えながら、彼女の美の本質はその氷山のように動かない精神性にある。あのように誰にも流されず、何から何まで真面目にこなせるその姿に僕は惚れていた。
素敵だ、春川さん……
「『はぁ……春川さんの美しさは花よりも蝶よりも儚く、それでいて冬のように他人にも自分にも厳しい性格が愛おしい。叶うのならば、彼女の学生カバンについているマスコットキャラクターになりたい……ボクも一個三百円で回せそうなガチャガチャから出るキーホルダーにでもなって、彼女と巡り合い、鞄で揺れる日々を送りたい……』」
僕の心の声が思いのほか具体的な願いを述べるが、僕はうんうんと首肯した。
――わけもなく、ゾクッとして首を直角に右に回した。
「とかそんなところか?」
そんな顔だったぞ、とチェシャ猫のように見透かされるのが心臓に悪い。心臓の錠前に棒を突っ込まれたのかと思った。
「そんな長々と気持ち悪いことは考えてない。何から何まで出鱈目だ……!」
僕は身を乗り出しながらも小声で隣の同級生に抗議した。
僕はそんなにセンチメンタルでも、文豪チックでもない。
僕の隣の席に座る春川さんとは対照的な男。
襟足だけ伸ばした金髪短髪。隠れた耳の上部分にはオリオン座のベルトに似たピアス穴が三個並んでる。
狐のような目に見られたものは本音を見透かされるか、その目に誘惑されてしまうか。
人懐っこさと危なっかしさの二面性を混ぜ合わせたその雰囲気が意外なことに多くのクラスメイトに人気を博し、女子生徒からは熱の籠った目で見られているときもある。こんな奴のどこがいいのか僕には全く理解しかねるが。
そんな不良崩れの男が葛城銀矢だ。
「でも、春川さんのことは見てただろ?」
「……見て悪いか、銀矢クンに何か不都合でもあるのか。それだったら今度菓子折りでも持って家まで謝りに行ってやるよ」
「マジ?じゃあ、あるよ。あるある、おおありくい」
あるから東京駅の地下で落雁の詰め合わせ買ってきてちょーだいね♡、とケラケラ笑いながら言ってくる。
何がおおありくいだ。
適当なちょっかいを出す不届き者に、僕は眉間にしわを寄せた。
「まぁ、クラス一の奇人にして美人の春川さんを稲生がそんな目で見ているなんて面白いゴシップに喰いつくやついるだろ、山田とか。山田の話の種にされるか、良くてピラニアの餌だ」
新聞部の山田さんのことをピラニア以上の脅威と言ってやるなよ……
「まぁ、そしたら俺も友人代表として山田にインタビューされまくるか、ピラニアに齧られるかもしれないだろ……ライングループとかでな?」
眼が三つも付いたスマホを見せびらかしながら二ヒヒ、というオノマトペが付きそうな意地の悪い笑みを浮かべているが軽薄な口調の割に言っていることが生々しい。
「友人代表?冗談も休み休み言えよ、お前とはただの腐れ縁だ!」
「酷ーい、どうせ俺以上に仲いい奴いないくせに。友達片手で数えるくらいのくせに」
「余計なおー世ー話!」
どうしてこんな奴に絡まれているのかと言えばただの腐れ縁でしかない。
この明坂高校に入学する以前よりその腐れ縁は続いている。小学生の時にコイツが夏頃、突如として転校してきて俺の隣に座った時から始まってしまったのだ。あの頃はまだかわいげがあったというのにどうしてこんなになってしまったのだろうか。育成放棄されたたまごっちぐらいの変貌しぶりなのだ。
「二ヒヒ。まっ、なんでもいいけど」
上がった口角がすとんと落ちて何の表情の塗装も残っていない無の表情がアイツの顔に乗った。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬぞ?まったく、大袈裟な」
「大袈裟?いやいや、それが大袈裟でもねぇのよ」
銀矢は自分の顔の目の前で手をひらひらと振って否定した。
「川の代行者がいけにえを欲しているとかって話もあるから、運が悪けりゃ突き出されちゃうかもな?」
そっぽを向いていた俺の耳にいきなり聞きなじみのない言葉がいくつか入ってきて思わず横目で奴の顔をみてしまった。
目が合うと、気になるだろ~?と言いたげなニヒルな笑みが待っている。
「この町を串刺しにして横たわる転寝の龍。今もなお明目町の分水に関わる中明目川にはかつて神が宿っていると信仰され、荒ぶるたびにその怒りを鎮めるために子供を捧げた人身御供の伝説もあるとか……ないとか」
蛇行する川を机になぞりなって、奴の指先が空想の岸辺を弾く。
水の流れ、それだけではなく、自然の配置というのは現代においても動かしがたい。歴史上で見ても四大文明――メソポタミア、エジプト、中国、インダス文明の傍には必ず川があった。
豊富な水資源によって農業や畜産を行うことができるようになり、そうしてできた生活基盤の下に人類は栄えていった。それゆえに水の流れ、特に濁流や河川の氾濫と言った荒ぶる力は文明を容易く滅亡に追い込んだ。
残された人々にとっては何十年かけて積み上げたものを一瞬で貪り、跡形もなく消し飛ばす竜に見えたことだろう。そこから河川や海の神は信仰されるようになり、やがて水を配る神は生まれるようになったのだ。
それはかつてここ、いにしえの明目の地でも同じことだった。
「つまり、水分神のお使い様が現代でその伝説を甦らそうとしているらしいのよ」
僕は顎に手を当てて、一瞬考えを巡らせた。
「いや、そんなこと……なぜ今になって」
日本には神という存在がいる。
信仰や伝承が形になった不確定なもの、形而上学のみに存在する存在ではなく本当に現実に影響を与えるものとして。
そもそもこの国の国家元首が天照という神であり、その天照以外にも八百万以上の神がいるとされている。
僕らの明目町にも土地を守る神だったり、商売繁盛の神だったり、川や海の神だったりもいるが、ほとんどの場合は実体化しておらず神の声を聴く『代行者』が神の力を神に代わって振るっている。
「さぁ?そこまでは知らないし。てか、嘘かどうかも知らねぇけど」
斜めを見ながらからかいの顔をまたしている。
母親の顔より見たあおり顔だ。
「また僕を騙すつもりでその場でついた嘘だろう!適当なことばかり言って!」
「うるせ~言葉の端々にビックリマークつけてんのかっつーの」
耳に小指を突っ込んでうるさがるポーズを銀矢は誇張する。
くぅ、こざかしい奴め。
「はい、そこ。うるさくするんじゃないぞ~」
担任の重田先生に注意され僕は肩を縮めてしゅんとした。
天才バカボンのような顔にどらえもんのような体形は控えめに言ってマスコットのようだ。
さて、そんなマスコットな担任に叱られる僕の様子を見て銀矢は他人事のようにサイレントで笑っている。パントマイムの才能があるのではないかと思うほど、視覚に大爆笑の笑い声が聞こえてきそうだ。
無視だ、無視。
そうして首を振ると、百八十度対岸の窓辺に春先の羊雲が見えた。
上空は風の流れが速いのか羊たちが南の方へ走っている。
めぇめぇと鳴く羊たちが番犬に追われる姿を思い描いた。
雲に対する番犬は風だろうか。
呑気なことは考えられるが、いつもは和やかな変化に感じるのに今日はどうしてか焦燥感を催す景色にも見える。
いや、景色よりも胸騒ぎがそうさせているのだろう。
この町で、神が、いけにえを求める?
もちろん、僕には神の声など聞こえないから分からない。
代行者のような文字通り天啓も持ち合わせていないし、人間社会に生きていれば神のありがたみも薄れるというもの。時代は化学、そして資本主義。信仰心で食っていける時代とはまだおさらばできそうにもないけれど、きっとそんな時代がいつかくるだろうとすら思っている。
そんな風に思うやつが増えてきたから水分神はいけにえを要求してきたのだろうか。
信仰心を集めるためにか。
分からない。
水分神のことは分からないけれど、しかしながら全部が銀矢の嘘だとは思えなかった。
遠い水分神より近くの銀矢だ。
知らない正直者より知ってる嘘つきの方が信用できるというのは皮肉かもしれないが。
いつもの奴ならもっとマシな冗談を言うだろうから、アレはどこか冗談に見せかけた警告のようにすら聞こえた。
窓にうっすらと反射した銀矢の顔は先生の方を向いて不良生徒の仮面を被っていた。
その手前に映る僕はやけに存在が薄くて漫画の端にいるモブのそれだ。
我ながら、我だからこそそう思う。
「――ところで、今日は中明目川の代行者さんがうちの学校に来てらっしゃるんだ」
センチメンタルな時分に思いがけない言葉が耳に入り、僕は首をひねって重田先生を直視した。
先生は何やら複雑そうな顔をしながら眉毛を人差し指で掻いている。
先生は分かりやすい。そのしぐさは先生が言いずらいことを言おうとするときに現れるしぐさだったのだ。
「あぁ……どうぞ、入ってきてください」
重田先生が引き戸の方に向かって声を掛けると、ガラガラと開いた引き戸から一人の男子生徒が現れた。
「おはようございます」
うちの制服とは違う黒一色の学ラン。金色の桜を模したエンブレムの付いた学帽。
そして長い前髪で左目を隠していて、どこか怪しげな雰囲気を漂わせている。
この人が代行者……
僕と同じくらいの年齢なのに漂わせている雰囲気が別格なのだ。いや、僕だけじゃないこのクラス全体でだ。眩く光る太陽が井戸の底に落ちてきたような違和感。誰も彼もが彼に見とれている。美貌ではなく、纏うオーラに。
一目で神の代行者と分かってしまった。
冷や汗が額から顎に伝って手の甲で弾ける。思わず生唾を呑んだ。
「中明目川の代行者、沙悟清竜と申します」
丁寧な自己紹介が無音の教室に木霊した。
挨拶を返すのも、返さないのも何か不躾な気がしたが向こうの声も業務的で感情がこもっていなかった。
「今日ここに伺ったのはほかでもありません。中明目川水分神がいけにえを求めているからです。それもこの教室にいる特定の人物を指名して」
水分神がいけにえを求めているという言葉にクラスは一瞬騒めきかけたが、この教室にいるという言葉を聞いた瞬間にまな板の上に寝かされた鯛のように固まって誰も口を開くことはできなくなってしまった。
重田先生ももしかしたら、と思っているのか奥歯を噛んでジッとしている。
いつもは騒がしく生ぬるいクラスの雰囲気が地獄へ渡る前の三途の川のように異様な空気を帯びていた。
「『いけにえ』……突然何を、と思われるかもしれませんが、自然に突然というモノはないのです。ただ常に人の領域外にあるのであり、我らの期待と予測は確実なものにならない。しかし、だからこそ禍福は縄のようにあるのです」
水面を揺らさないように優しく沙悟は語り掛ける。
その語り口調は柔らかで簡単に人に耳を傾かせることが出来た。
目を細め、マスクの中に柔和な表情があるように感じさせた。
沙悟家の長男。
沙悟清竜。
古くからある川や水に纏わる神の代行者になりやすい家系であり、中でも(中明目)川の代行者になるものは沙悟家でも優秀な者。
つまり、彼も、このクラスの人間と同じように、特別な人間だったのだ。
「きっとこの教室の何人かは怯えを抱くこともあるでしょう、しかしまた何人かは幸運に思うことでしょう。生贄、人身御供が我らが中明目水分神に奉じられれば、この町の繁栄はより確固たるものになります。かつて、川の傍に文明が栄えたことを鑑みれば、その川が栄えることはよりその川辺にある文明が栄えることにもつながるのです」
教祖が信徒に教えを説くように静粛と壮大を入り交ぜたしぐさを持って沙悟は語った。
しかし、そんな上辺の演説よりも僕らが気になったのは『誰』の部分だった。
誰がいけにえに選ばれるのか。
下ごしらえのようなあらかたの演説を済ませた沙悟はそんな期待をつぶさに感じ取って口角を上げた。全ての歯車が噛み合った、そう言いたげな笑みを浮かべる。
「さて、前置きはこのくらいにして。一体、いけにえとは誰か……と申しますと――」
沙悟はゆっくりと口を閉じ、間を作った。
その間が僕たちには永劫にも思えるほど長く、しかし時にして一瞬だった。
「――春川薊さん!春川薊さんあなたです!」
教室全体に聞こえ漏れがないように大きな声でその名をとどろかせた。
幸いなことにそれはどう聞いても僕の名前ではなかった。
けれど、安堵のため息などでやしなかった。
「春川、さんが……?」
斜め向こうの席にいる彼女の後姿をじっと見つめても、彼女が何を思っているかは分からなかった。
その名が告げられた時、僕の心はどうしようもなく、絶望していた。
明目町は愛知県よりの静岡県あたりにある町です
佐上稲生の通う高校の名前は氷坂高校です