第10話 ───── 断章
大食堂での晩餐会が半ばにはいる頃………四夜が一人だけその場を後にしたのを見届けた一同。
その場に残されたレイ=エルウッドは、四夜が居なくなったことに安堵した。
あまり手をつけられなかった食事を続けようとカトラリーに手を伸ばすと、ふと目の前に座り直す学生の影に気づく。
ふと視線を上げてみると、先程四夜と話をしていた女子生徒であり…同じ寮のリンリィ=クロスハートであることに気づく。
「ごきげんよう、レイ=エルウッドさん。」
「こんな所に来て何の用だ、リンリィ=クロスハート。」
「いえ、貴方とアッシュさんの会話をそっとお聞きしてましたよ、随分と険悪そうじゃないですか。」
「当然だろ、お前も聞いているだろうが………俺はあんな奴と馴れ合うつもりは一切ない。」
まるで邪魔をするようならばお前であろうとも容赦しない、と言ったように鋭い雰囲気を彼女にまで発する。
だが、それとは裏腹に彼女はおどけたように肩を竦めるだけだった。
彼にとってはそれが更に不愉快で仕方ないのか、咳を変えようとする。
「でも、私あくまで貴方に有益なお話をしようと思ってきているんですよ。如何です?」
「───── 何?」
「だって、悔しいんでしょう?私は貴方の家庭の事情とかはよく知りませんけども、どんな事情があるとはいえ………貴方は少なからずこれまで相当な努力をして成り上がってきたんでしょう?」
「それなのに、急に現れた天才に全てを奪われた。」
「何が言いたい!!」
思わず声を荒らげてしまい、視線が一気に彼の元へ集まる。
誤魔化すように咳払いをし、エルウッドは再び席に着く。
くすくすとかすかに笑う声、睨みつけると彼女は不敵そうな笑みを浮かべる。
本当ならば、いや………彼にとって本来このような悪魔めいた囁きに耳を傾けるようなことなど考えはしなかったはずだ。
だが、彼自身は今身の内から感じる焦燥感に駆られていた。
それは元々エルウッド家でもずっと感じていたものであり、彼がこうしてここまで登り詰める為に努力してきたことに対する答えが………こうして現れたのがこの現状なのだから。
身の内に燻る焦燥感、不安、孤独、憤怒、嫉妬………そして怨嗟。
あらゆる負の感情が腹の底から押し上げ、それが口から吐き出さんばかりに襲いかかろうとしてくる。
エルウッドはただ、それをぐっと堪えるように呑み込む。
「───── それで、お前は一体俺に対して何をしようと言うのだ。」
「簡単な事ですよ、私はただ"取引"をしたいだけなんです。」
「私は貴方から欲しい情報を手に入れる、貴方は私からアッシュさんに関する情報なりなんなり……望むものを提供しますよ。 勿論、その間において対価とかはしっかり払ってもらいますけど。」
「─────………」
ゴクリ、と思わず固唾を呑む。
その甘美な言葉が、まるでアダムとイヴを誑かし楽園を追放させた悪魔の化身たる蛇のようにまとわりつく。
これは思案した、今のままではきっと自分はアシュレイ=グッドフェローズに適うはずも無い。
だからと言ってこんな見え透いた罠に掛かる程馬鹿でもない。
………─────本当にそうか?
どろりと、酷く冷たく粘つくような言葉が心にこびり付く。
レイ=エルウッド、お前は今まで本当になんのためにここまで登り詰めてきた?
お前は本当に、この程度の人間としてその生活を続けていくつもりか?
『そんなはずは無い、だって俺は今まで家族からも周囲の大人達からも一切期待されなかった。』
『誰もが俺の事を異端だと、出来損ないだと言い続けてきた。』
『だから見返す為に、死ぬほど努力をしてきた。』
でもお前は結局、ストレイナイツ寮には選ばれなかった。
その上に、お前自身はこうして誰もが憧れる秀才である"レイ=エルウッド"を演じ切れていない。
お前はただ嫉妬に塗れた憐れな子供にしか過ぎない。
最早答えなど、今の彼にとっては1つしかない。
そうでもしなければ、今にもひび割れて壊れてしまいそうな心が悲鳴をあげている。
中に押し込んで、我慢して、それでも懸命に頑張ってきたこれら全てが音を立てて瓦解するのを、その手で押し留めようと必死になってきたのだ。
眼前にいる、美しい亜麻色の髪をした少女のような悪魔が微笑む。
「どうかしましたか?エルウッドさん、顔色が悪いですよ。」
「いや、少し考えすぎて目眩がしただけだ。」
「それでどうしますか?答えは後からでも良いのですが………折角ならお聞きしたいんですもの。」
目の前の蛇のような悪魔が舌なめずりをする。
差し出されたのは、甘い甘い果実──── 自分に提案された取引そのもの。
レイ=エルウッドは、その悪魔に差し出された果実に手を伸ばし……そして、その果実を齧る事にした。
つまるところ彼は、リンリィ=クロスハートから提案されたその"取引"に応じることとなったのだ。
「はい、ありがとうございます。」
「良かったら私と連絡先交換しません?お互い、会って話すよりそちらの方が何かと都合が良いでしょう?」
「本当にそれだけでいいんだな?」
「はい、勿論ですとも。」
これは私と貴方の内緒ですよ、と悪戯っぽく微笑みながら彼女は自身の口元に人差し指を置き、静かにするようにといったジェスチャーを見せていた。
その後、エルウッドが気づいた頃には自身の寮の部屋に居た。
オマケに惚けたように一人ベッドの上に座っていたようだ。
ハッとして彼は自身の制服をまさぐる。
どうやらなにか盗まれたりしたような形跡はなかった。
あれからどうやって帰ったのかは覚えてないが、他の人が何か言ってくる様子もないようだから……彼自身は普通に帰ってこれたのだと安堵した。
サイドテーブルに置いてあるスマホがヴーッ、ヴーッとバイブレーションしている。
誰からの連絡だろうかと思い、手に取ると先程話をしたリンリィ=クロスハートからの連絡だった。
───── やはり俺は、彼女と取引をしたのだと実感させられる。
「本当に、これで良かったのだろうか………」
彼は誰に言うまでもなく、ぽつりと一人呟く。
彼の部屋に掛けられている丸鏡の鏡像が、そんな一人で呟くエルウッドを見つめて密かに笑っていた。




