ネオン東京上野駅
不眠症が治らないので書きました。
不眠症が悪化して二か月が経った。
睡眠時間が五時間になって、日に日に眠りは浅く短くなる。不思議なことに、特に身体は辛くない。週末になれば、倒れるように眠るだけ。
ショートスリーパーでもなかったからなんてことはないと気にもしなかった。
仕事が終わったら頭痛と眩暈で動けなくなってから、これはいけないと気づく。
だからといって眠れるものでもない。
病院は嫌いで、そのままの生活を続ける。
朝と昼はいつも元気いっぱいで、夜になったら動けない。
夜はどろどろの頭痛と妄想に苛まれる。
山手線のシートは心地よくて、身体が溶けていくようだった。
目を瞑れば、目が休まって、頭の中心でじんじんと痛む頭痛だけを感じ取れる。
病気でひどい熱を出した時の頭痛とも違う。頭の中で痛みの核が蠢いているような。
頭痛は漫画で叫び声を表現するフキダシのような形をしていて、その大きさを変えて胎動しているのだと思う。
フキダシの色は赤。
きっと、水彩絵の具のように鈍くてマットな赤色をしている。
このまま死んでも、誰も気づかない。
山手線はぐるぐると廻っているから、ミイラになるまで誰も気づかない。電車内で即身成仏だ。
頭が痛くて、目を閉じているのに眠れない。
車内灯のざらつく光が瞼を透過して目玉をこする。
目を瞑ると、少しずつ雑音が消えて電車の揺れだけを感じる。眠ろうとすると、赤い頭痛が邪魔をする。
ここは本当に現実なのか。
分からなくなってきた。
次はネオン東京線、上野駅ィ、上野駅ィ
はっと目を覚ます。
少しだけ眠れていたような気がしたのに、頭痛は健在だった。だけど、目は開けられる。
首を回すとごきりと音がして、鈍い痛み。
痛みに顔をしかめていると列車のドアが開く。急いで降りたら、変な景色が広がっていた。
ホームは木造で薄暗い。
レトロな風景をぼんやりと水銀灯が照らし出している。
降車する乗客たちは人ともバケモノともつかぬ奇妙な者たち。確かな実体をもった河童のようなものが歩いている。
他にも、頭からボロを被ったネズミ男のようなものとか、覆面レスラーのような者たちまで、おかしな者がいる。
そんな様子なのに、ねずみ色のスーツを着たサラリーマンがいるのが面白い。
「頭が、イカレたかな……」
ずっと前に狂ったような気はしていたけれど、こんなものが見えるなど初めてのことだ。
上野駅の改札はいつもと変わらなくて、スマートフォンで通過できた。
駅舎は変化している。
小さな商店がたくさん並んでいて、串焼きなどの食べ物や時計屋まで雑多なものが並んでいる。どの店も、東南アジアの露天商みたいに品物を積み上げていた。
ふと、写実的な蛙が描かれた露店に目がいった。
タピオカミルクティー屋だ。
狐のお面を被った男が椅子に座っている。お面など被っているというのに、サテンの青いドレスシャツに細身のスーツを着たスマートな男だ。
「一つ、貰えますか」
「あいよ。うちのタピオカは美味いよ」
五百円玉を渡すと、釣り銭は見たことのない小さな硬貨だった。ここはどこなんだろう。
現実なのか妄想なのか、よく分からない。
スマートな店主は、紙コップにざるで掬ったタピオカを入れると、次は壺に入ったミルクティーを柄杓で注ぐ。
きっと、これが本式なのだろう。
「さ、冷たい内にどうぞ」
「いただきます」
竹製の大きなストローは外国の笛に似ていた。ずろずろと啜ると、ぷるぷるのタピオカと冷えたミルクティーがなだれ込む。
タピオカは飲めばいいのか噛めばいいのか。噛んでも味はしないけれど、ノンシュガーのアッサムらしきミルクティーは不思議と味わい深い。太陽を仏頂面で見つめる、ターバンを巻いた中東の老人を感じる。
「美味いよ。よく冷えてて」
「ヒヒヒ、うちのはいい茶だからね。ここらは不慣れかい?」
「ああ、知らない街みたいだ」
「だったら、アメ横の皮屋に行くといいよ。あんたみたいな人に親切にしてくれるからさ」
「そうかい。行ってみるよ」
店主の勧めに従って、アメ横へ向かう。細い道が多かったが、標識がそこらにあって道は分かる。
人差し指の下に、アメ横と筆で描かれた標識がたくさんあった。
目医者の看板でもあれば完璧だったのに、あるのは妙な看板ばかり。だいたいは酒や煙草、飲み屋の電飾だった。
レトロな街並みなのに、電飾のネオンがぎらぎらしている。
皮膚炎にはニドグル軟膏、焼きそば、ポンのウイスキィ、ボルシチの娘娘飯店。他には見たことのない言語が極彩色に街を彩っている。
足元を奇妙な動物が列をなしてすり抜けていく。アヒルのような、鰻のような、ぬるりとした奇妙な小動物だ。先頭を往くのは大きいから、あれが母親なのだろう。
人が増えてきた。
通りには奇妙な連中が歩いている。だいたいは人間だが、みんな少しおかしな恰好だ。昭和レトロなスタイルの若い女たち、シルクハットの紳士、ネズミ男スタイルのねずみ男。
路上でバンドネオンを演奏するのは、サーカスの猛獣遣いの扮装をした大男だ。
「狂っちゃいないぜ」
独り言ちると、少しだけ笑えてきた。
ああ、頭が痛い。
アメ横が見えてきた。
記憶にあるものと全然違う。どうして米兵らしき連中がたむろしているのか。
ふと、足元が重たくなった。見やれば、親とはぐれた真っ黒な子猫が足首にしがみついている。
「お前も迷子か」
小さな黒猫を摘まみ上げてみたら、顔の真ん中に大きな一つ目。ここいらの猫はみんなそうなのか、それともこいつだけなのか。
「私は貧乏神です。どうか一緒に連れていって下さい」
「へえ、貧乏神とは珍しい。これ以上は悪くならないから、一緒に行こうか」
「はい、ありがとうございます」
子猫はするすると手を登って、肩に乗った。バランスを取ろうとしているが、滑り落ちそうになっていて危なっかしい。
「ほら、ポケットにでも入りな」
「はい、そうさせて頂きます」
子猫のような貧乏神は、スーツの胸ポケットに収まった。頭だけを出して、一つ目でこちらを見つめる。
「居心地がよいです」
「そうかい」
水銀灯とネオンの灯りに照らされて、一路アメ横へ。
皮屋に行けば、貧乏神の毛皮が売れるかもしれない。