プロローグ
この世は不思議に満ちている。
どうしてあの時、彼の手をとってしまったのだろう。
どうして疑いもなく口にしてしまったのだろう。
どうして躊躇いもせずに首を落とせたのだろう…。
冬も明けきらない頃。
まだ暗い、でも段々と日が昇って世界がキラキラと輝き出す一番大好きな時間。
いつもの様に、すぐ近所の大きな河川の土手を、登校前の早朝ランニングで軽く流していた。
進むたびに吐き出される息は白く、耳も鼻もジンジンといたい。
来月には大好きな剣道部の先輩方が卒業して、わたしは本当の意味で主将になる。
先輩達はもう滅多に顔を出してはくれなくなるだろう。
部員をまとめる重圧と、上がいない開放された気持ちとで、フワフワ、ムズムズしていた。
ハッハッハッハッ…。
軽快にリズムよく、ハイペースで走る。
土手の終わりを折り返して、1キロくらい走っただろうか。
ふと、水辺に目がいった。
木やら草やらゴミやら、増水した日に流されて溜まった天然のゴミ捨て場と化したそこに、わたしは見つけてしまった。
まさか。
手だ。
溜まった木と、壊れたプラスチックカゴの間に指先から手の甲の中ごろくらいまでが見える。丁度おいでおいでをしている途中で固まったみたいな格好だ。
わたしは一瞬の恐怖で、足を止めたそこから動けなくなってしまった。
ランニングのせいだけじゃない。
バクバク鼓動が速くなるのを感じ、更に荒くなった息は呼吸の仕方がわからなくなりそうだった。
こんな時はどうするんだっけ。110番か。119番?今スマホも何も持ってないぞ。人を呼ぶ?帰宅する?いや、そもそもアレは人か?さっきは無かったよな。
どうする。
どうしよう。
息が上がって酸欠気味なのと、どうしたらいいかわからないパニック状態で、頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
落ち着け、自分。
いつも、大事な試合前にする深い深い深呼吸をして、精神を落ち着かせた。心を凪にして、集中を高める。わたしはそうやって自分を正した。
数分かかってしまったが、動揺は凪いで、気持ちは平静を装える程に落ち着いた。
まずはアレが本当に人なの確認しよう。
通報するにしても、誰か人を呼ぶにしても、まずはアレを確認してみなくては。もしかしたらマネキンかもしれない。
だって、よく見たら、あんなに白くてスッとした、長くて大きくてキレイな指をした人なんて中々いない。
わたしの手は女にしては大きくて、掌は竹刀だこでゴツゴツと厳つい。
あんな手になりたい、とか考えられる程に落ち着きを取り戻せた。
ランニングコースの土手上から、急な草地の坂を小走りで下り、砂利石と土の混ざりあった地面に、枯れてもなをそこに生えた背の高い草をかき分け、天然のゴミ捨て場にたどり着いた。
そこは今は水は無いけれど、雨が降ればすぐに水に浸かってしまうだろう。
人だ。
近づいて直ぐにわかった。人の手だ。白くて美しい男の人の手だ。
ゴミの間から覗くその白い手が、死体の様に見えて恐怖を覚えたが、今は違う。この人生きてる。
微かに血色があるその手は、今にも止まりそうになりながら、僅かにおいでおいでを繰り返していた。
生きているなら助けなければ。
わたしは駆け寄りその手をとった。氷の様に冷たくて生きているのが不思議なくらいだ。
わたしの意識はそこで途切れた。