常温の缶チューハイ
派遣会社に登録し有名歌手のコンサート会場場内スタッフ、倉庫内で商品を発送先ごとに仕分けする作業、配送助手など、一日単位や一ヶ月単位で色々な現場や会社へ出向き、毎日違う顔ぶれと働く事にも慣れ一年が経とうとしていた。
元々、学生時代から、初対面の人間だろうが、やんちゃなグループだろうが、大人しめなグループだろうが、分け隔てなくクラス中の誰とでも話す性格だった。それが災いしてか、ここまでは踏み込んで入って来ても良い領域とここからは駄目な領域の判断や、人と接する上での距離感であるパーソナルスペースが二上には欠如していた。そのおかげで、高校三年生の夏休み明けから卒業式までクラス中から仲間外れにされた経験がある。
夏休み明けの開放感が抜けていなかったのか、ある女子の触れてはいけない内面部分にズカズカと入り込み、結果としてクラス中にその女子の触れてはいけない部分がクラス中に知れ渡る事となる。これまで乗り切れていたのは運が良かっただけなのかも知れない、人類が全員二上のような性格とは限らない事にこの時まで二上自身も気づいておらず、本人に悪気が無いのも致命傷となった。最初はクラス中の女子に総スカンを食らったが、その後『あいつ、女子に無視されているらしいぞ』と男子にまで伝染し結局クラス中に総スカンを食らう結果となった。
受験生と言う忙しさもあってか有耶無耶にはなっていったが、クラス中の余所余所しさは卒業式まで続いた。
大学時代には、人に対する恭しさや慮る気持ちを教訓に友達以上の存在を増やした。その中に父親が中国出身で母親が日本人のミックスで、日本語も中国語も堪能な人間がいた。
中国と日本の仲介役となる仕事で、初めはサークルとしての活動ではあったが大学在学中に起業。そのまま、大学卒業後も有志数名で会社を続けたが、仲介業以外にも会社を拡大しようという二上と、既に普通のサラリーマンの倍の給料を手にしていてこれ以上冒険する必要もないだろうと言う守りに入った有志数名との温度差が出始め、それに加えた社長二上の跋扈する振る舞いで、また一人また一人と会社を離れ、大学時代からの最後の有志である中国と日本のミックスである彼が会社から離れると、二上と大学卒業後に採用した数名の社員のみとなった。元々、中国との伝も仲介役である中国語堪能な彼がいたからこそだった。中国語が堪能な社員もいたが彼がいなくなった事で繋がっていた中国の会社とも契約期間満了に伴い打ち切られ、大学卒業後から数年と持たず下降線を辿り始め借金とともに会社も消滅。大学時代のサークル的な感覚としての会社と、大学卒業後に専門職となった時の会社では経営の部分で大きく違っていたのかも知れない。
しかし、運良く父親が多数の飲食店業態を全国に展開する社長をしていたこともあり借金を肩代わりして貰った二上は、なんとか首の皮一枚繋がった状態で生きていた。父親が社長でなかったら莫大な借金は当然返済するめどは立たず、今頃どうなっていたのだろうかと思うと今も眠れない日がある。
大学卒業後に二代目としていずれは働く予定であった父親の会社。大学時代に立ち上げた仲介業が思いのほか成功し起業したことで大学卒業後に二代目を継げなかった事に引け目を感じていた。父親自身も二上に負けず劣らずの喋りがたつ人間であったことで人脈を増やし成功していた為、息子が大学の仲間と大学時代に起業した才能を血筋と見て高く買っていた。がしかし、会社を潰し借金まで肩代わりして貰ってやすやすと父親の会社にお世話になる事を幾ら二上でも心の中で憚れていた。その一方で、派遣会社に登録し短期間で違う現場や違う会社や違う人間と働く事が苦でもなく寧ろ楽しんでいる節が二上にはあった。派遣ではなく会社に就職し組織に入る手段もあるが、会社を立ち上げ再び組織を作る事を虎視眈々と狙う二上にとっては作る側の選択肢しかなかった。
タワーマンションからテレビも冷蔵庫もない、唯一寝る為の布団があるのみの殺風景なトイレ付きユニットバス四畳半のアパートに引っ越すと、気がつくと派遣会社で働く日々が一年近く経っていたのだ。
大学時代に出来た彼女も二上の跋扈する振る舞いが彼女の前でも全面に出てしまい、いずれは結婚も考えていたが会社消滅前には住んでいたタワーマンションから出ていってしまった。そんな事もあり、ときどき人肌恋しくなる事もある。気がつくと、父親に借金を肩代わりして貰い毎月少額ながら返済する身だが月に一回ではあるが、たまたま通りかかりふらっと立ち寄った風俗店に毎月一度だけと決め通う事となる。
指名した彼女は受付の写真ほど垢抜けてはいなかった。ただの癖かも知れないが、二上以上に喋りがたち慣れ過ぎた雰囲気で来られても幾ら二上とは言え引いてしまうが、その娘は二上が想像する風俗店で働く女の子とは思えないほどに朴訥とした雰囲気もありながら、かと言って喋りづらい感じでもなく、波長が合うのかプレイルームに一緒にいても心地よく且つ欲情した。
シャワールームから出ると、二上の側面に回り込み笑顔を見せたかと思うと、徐にベッド近くにある棚から自身のポーチを取り出しチャックを開けると中を弄った。漸く見つけたのか、出て来たビューラーを手に取ると目線を上にするよう促された。ビューラーを持った裸の女性が目の前に立っている情景が何とも形容しがたい雰囲気ではあったが、促されるままに二上は従い二度三度ビューラーで睫毛を挟まれると彼女は満面の笑みを浮かべた。
『お客さん、睫毛が長いし色白で細身だからビューラーで睫毛を上げたら女の子みたいでかわいい』
それ以来、彼女に合うのが楽しみでたまたま通りかかったその風俗店に毎月一度だけ通う事となる。
僅かな楽しみが出来た事で、二上の心にも徐々にではあるが心境的に和らぐ日々を取り戻していた。そんなある日、ある倉庫へと派遣され社員に挨拶を済ませると作業場へと案内された。すると、長期的に来ていて作業内容を熟知している派遣のリーダー的な存在の女の子に社員は全てを放り投げるように任せた。そのリーダー的な女の子は目線を合わせず伏し目がちで淡々と作業内容を説明してくれた。彼女が全部説明し終わると何か質問したい事はないか聞かれ、始めての現場で緊張していた二上は最初にトイレの場所を聞いた。
その時だった。一瞬だけリーダー的な女の子と目線が合うと二上の尿意も止まり全身が固まってしまった。向こうは向こうで片方の眉を上げ、明らかにどこかで会った気もすると言った表情を見せたが、他の現場で会った位だろう。その程度の表情で再び目線を下げた。登録型派遣になると、色々な現場や会社に派遣される為に顔見知りになることも稀ではない。
二上は心を落ち着かせトイレに入ると、あの顔、あの声、あの髪型。薄暗い倉庫の照明が彼女をより地味に見せてはいたが絶対にあの娘で間違いない。そう諭すように、一方的ではあるが自分に言い聞かせた。
翌日以降も派遣会社に彼女がいるあの倉庫へ派遣させて欲しいと懇願した。願いが適い翌々日からあの倉庫で暫く働ける事となった。一週間、二週間とその倉庫で働くにつれ喋りのたつ二上は社員に気に入られた。休憩中も社員と喋り込んでいるので、初めて二上を見る派遣の人間は新しい社員が採用されたのかと勘違いされるほど二上はこの倉庫に馴染んでいた。
ある日、二上が休憩場に行くとリーダー的な存在のあの女の子と二人きりとなった。ここ一、二週間タイミングを見計らっていた二上としては今しかないと意を決し『ビューラーの』と、言いかけた途中で被せるように彼女は『土日だけなんです』と、ひとこと言いうと下を向き黙ってしまった。この倉庫での仕事が月曜日から金曜日まで入れるが、登録型派遣の安い時給や日給だけでは暮らすので精一杯。土日だけ風俗店で働くだけでも暮らしがだいぶ違うからと後に聞かされる。それよりも彼女は、月に一度程度で来るお客さんだったが、話していてもそうだが話す前から何か波長が合うように感じたし、二上の韓流男性アイドル並みの中性的な見た目も気に入っていた様子だった。それとは別に、お喋りな二上を見ていて、いつか風俗店で働いていることを倉庫内で喋ってしまうのではないかと冷や冷やしていたのだと風俗店のプレイルームで後に話してくれた。
倉庫の休憩場での会話から、その週の土曜日に早速彼女がいる風俗店へ足を運ぶと一週間も経たない内に彼女の家にあがり込んだ。それは必然的にだった。プレイルーム以外で初めて彼女と肌を合わせる事となった。意外にも彼女は男性と交わるのが初めてだった事に二上は驚きを隠せなかった。彼女が働いていた風俗店は本番のない風俗店ではあったが、風俗店で働く女の子の全員が非処女であると想うのは二上自身の先入観でしかない。だからと言って、本番のない風俗店で働く女の子が処女であると想ってプレイする男性も少ないだろう。
その後、一ヶ月と経たない内に二上は彼女の家で同棲を始めた。二上の住むアパートには布団や服以外は嵩張る物もなかった事も同棲する決断を早めた。彼女も彼女で、二上との給料を合わせれば風俗店で働かなくても済むのと、好意を持っていた二上の告白を断る理由もなかったので同棲を了承した。
一緒に住むようになり一ヶ月。彼女の伏し目がちの大人しい部分と、笑顔になった時の眩しいくらいの可愛らしさが二上との暮らしに慣れると中和された。二上が喋る事に対し笑顔で返す彼女も愛おしく何もかもが満たされていた。
中学時代にイジメで不登校になりがちだった彼女は、何とか入学出来た高校も不良ばかりで有名な高校だった。不良にならなければ学校で生き残れないと思った彼女は、入学初日に頭をピンクに染めて登校し鮮烈高校デビューを果たした。しかし、元々真面目な性格に口下手であった彼女は気がつくと使いぱしりとなり、中学時代と何ら代わり映えのしない自分に嫌気がさし高校一年の冬に中退した。中退後はアルバイトをしたが、口下手が災いして馴染めずアルバイトを転々としていた。そんな時、一日単位、一週間単位、一ヶ月単位、長期的にと働ける登録型派遣に登録し働き始めると、毎日同じ現場や会社で働かなくても住むせいか、一ヶ月、二ヶ月と継続して働く事にも慣れ、伏し目がちは直らないが口下手は多少なりとも直っていったと言う。
親との同居も二十歳までだった彼女。自立する為にと親にアパートを借りる事を強要され、家賃も最初の一年目までは折半する形で出して貰っていたが、登録型派遣に慣れはじめた事を知ったことで親の折半も打ち切られた。折半が打ち切られる以前に高校卒業認定だけでもと思い通信制の高校に入学していたが、登録型派遣で働き家賃や生活費となると授業料が危うい。そこで始めたのが風俗店での仕事だったのだ。
今でも伏し目がちで口下手な部分が残る彼女だが、身近な人間にバレなければ風俗店で働く事への躊躇い、高校の入学式で自分を変える為にと頭髪をピンクに染めてしまう事への躊躇い、彼女の中では『生き抜く為に』と言うキーワードが頭の中に打ち込まれると、ポッカリと『羞恥心』と言う言葉が取り払われてしまう事が多々あるのかも知れない。
会社も一年を通して見れば繁忙期と非繁忙期がある為、非繁忙期に入ると社員並みの仕事を任されている彼女はそのまま倉庫で働けたが、繁忙期がまた来るまで二上は他の現場や会社で働くこととなった。
海が近くにあるその倉庫街で、外国から来たコンテナに日本では使用されていない難しい中国語、アラブの文字、あるいはラテン諸国からなのかスペイン語の文字が入った段ボール箱や麻袋まで、コンテナから只管それらを積み下ろす作業を担った。派遣の人間が数人でプラスチック製のパレットと言われる台に積み下ろしていく。単純な作業ではあるが二上は午前中の作業で既に疲労困憊だった。昼に倉庫内にある食堂で昼食を摂っていると、それを見た頭髪がやや薄めな五十前後と思われる男性に『横に座っていいかい』と言われ話し掛けられた。よく見ると、午前中に一緒に積み下ろしていたので派遣の人間らしい。五十前後だが胸や腕などの上半身が異常に発達していて、ボディビルダーにしては身体が小さいが格闘家と言えばしっくりくる身体つきだった。
午前中で既に疲労困憊だったとは言え頭髪が薄めな五十前後と思しきその男性は、二上が無口な人に見えてしまうほどに一方的に話し気がつくと午後の作業の時間となっていた。
永遠に続くのではないかと思うほど時間が経つのを遅く感じた。午後の積み下ろし作業を憂鬱に想っていた二上だったが、頭髪の薄めな五十前後の男性が作業中、積み下ろし作業を早めれば毎回午後三時前後には積み下ろし作業は完了するらしいと聞くと、利己的な考えだが、人間不思議なものでそれを聞いた途端に自然と力が湧いてくる。その男性の言うとおり、午後三時を過ぎた辺りで積み下ろし作業は終了した。倉庫内のシャワールームで汗を流して出た二上は、ふと見回すとあの男性は既に帰宅してしまった事に気づく。
翌日もその倉庫でのコンテナ積み下ろし作業の予定を入れてしまっていた二上は朝から憂鬱だった。ロッカールームで覇気がなく作業着に着替えていると、後ろから肩を叩かれ『お兄さん、また来たのか』と言われ振り返るとあの男性だった。あの作業をしての翌日でこの元気は二上が想像する五十前後の男性とはかけ離れていた。聞くと毎日この倉庫に来ているという。昨日の疲労が残った状態での作業はこたえたが、黙々と積み下ろす作業だが、時々時間を忘れる時が多かったせいか捗り午後三時前には作業が終了していた。二上がシャワールームから出ると例の如くあの男性は帰宅してしまっていた。残っていた派遣仲間にあの男性について何気に聞くと、あの男性はこの積み下ろし作業終了後に夜の街で再び仕事をしているとの事だった。この作業終了後に夜の仕事の掛け持ちと聞いて二上は絶句した。本人は皆にキャバクラの用心棒と言っているらしいが、用心棒の意味合いは二上でも理解しているが令和の時代に用心棒が存在するのかが二上には想像出来なかった。
本人曰く、強打でボクシングの世界チャンピオンになった選手が、日本チャンピオン時代にあの男性が挑戦し、デビューからの連続KO記録がかかっていたチャンピオンに大きく大差を付けられはしたが、倒されず判定まで戦い抜いたことは、このコンテナ積み下ろし作業に来る派遣なら誰もが知る話しらしい。
本人は夜の仕事で用心棒をしているとは言っているが、料理やグラスやピッチャーの上げ下げ、キャバクラなので泥酔して女の子に絡むお客や暴れるお客を鎮め引き剥がし、表に出すのがあの男性の役割のようだと、ここに来る派遣の人間は皆理解しているようだった。あのコンテナ積み下ろし作業を苦に思わない腕力と持久力と我慢強さがあれば、元ボクサーと言う事も頷ける。ただ、五十前後と言う年齢を除けば。
その日の帰り道、彼女が一時間ほど残業になると携帯に連絡があった。二上は家の近くのコンビニで冷やし中華と、期限切れが近いのかレジ前にある値下げ販売されている常温の缶チューハイを購入した。レジで支払いをする際、店員さんに冷やし中華を『温めますか?』と言われたが、その時は何も疑問に思わず家には電子レンジがあるので『大丈夫です』と言って何の気なしに断った。店員も温める麺類と勘違いしていたのかと思うが、家に帰り冷やし中華を啜った最初の一口目で、コンビニの店員が言葉にした冷やし中華を『温めますか?』と言う言葉を思い出すと、違和感に気づき忘れていた疲労がどっとぶり返してきた。
そうこうしていると彼女が帰ってきた。働く現場と時間帯が合わなくなったせいか、食事が別になるのを見越してコンビニ食で済ますことも多くなっていた。テーブルで食事をする二上を見て彼女は、冷蔵庫に氷があるからグラスに注いでその缶チューハイを飲むようにと薦められた。冷蔵庫がないあのアパートで住む間に缶チューハイを冷やさずに常温で飲む事を定番として好むようになっていた二上は、軽くあしらうように断った。怪訝そうな顔でお風呂へ入る彼女を横目に二上は常温の缶チューハイを一気に飲み干した。
次の日が休みと言う事もあり、派遣仲間とあの男性が働くキャバクラへと仕事終わりに脚を運んだ。貧乏金無しの派遣である為、長居はしなかったが、コンテナにいる時とは違い確りとしたシャツを来てお酒を運んできたあの男性を見たら、頭髪を除けば遊び人のような色気を感じる二面性を感じ、胸の開いたドレスを着るキャバクラ嬢を目の前にするよりも動揺を隠せなかった。
翌週も、海が近くにある倉庫街のあのコンテナ積み下ろし現場へと向かった。すると、あの男性から今週末の休みの前の日に飲みに行かないかと誘われた。二上が怪訝そうな顔をすると、派遣で働いている人間だから懐具合くらい想像出来ると言わんばかりに、高級な所ではなく行きつけの居酒屋だと付け加えた。
週末、彼女に断りを入れてあの男性の行きつけだという居酒屋に行った。乾杯をするや、男性がキャバクラへ来てくれた礼を言うと一気に生ビールを飲み干してしまった。二杯目の生ビールが手元に来る頃には、男性の顔が赤黒くなり明らかに酔っている様子だった。あのコンテナ積み下ろし作業後にキャバクラで働いていたら疲労も溜まるし、すぐに酔ってしまうのも仕方がない。と思っていたが、居酒屋の女将が二杯目の生ビールを男性の前に置くと、そんなハイペースで飲む男性を見て『お酒弱いんだからペースを考えなさい』と軽い説教をされていた。ばつが悪そうな顔で『うるせぇ』と、女将に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言い返していたが意外と気は小さいのかも知れないと二上は思った。しかし、あれだけコンテナ積み下ろし作業をしても平気な身体で、その後にお酒を扱うキャバクラで働いていると言うのにお酒が弱いとは意外だった。
明らかに酔っている男性は、二上が会話中に目線が時々上に行くことが気になっていたようで、前から薄い頭髪を見て馬鹿にしているのではないかと言って絡んできた。二上が派遣のコンテナ積み下ろし作業にキャバクラの掛け持ちでは疲労と苦労でその頭髪の薄さも仕方がないと言うと、俺は疲労も苦労もしていないと男性が返してきた。おまけに、抜け毛は頭皮が不潔だったりストレスが原因だったりするが、自分は不潔でもなければストレスもない。そう言うと、唐突にホームレスに禿げはいるか。彼らは毎日お風呂に入れる訳ではないし何かしらのストレスは抱えているはずだ。でも、ホームレスに禿げは多いか。と持論を展開してきたが、あの男性の父親もお爺さんも禿げている為、結局親が禿げていたら子も禿げるのは遺伝だ。の結論に至った。
気がつけば居酒屋には二上とぐったりした男性のみとなった。起きる気配のない男性を見ると、女将が居酒屋の二階にその人を運んでくれと促された。意表を突かれたような二上の表情を見て女将は『籍は入れていないけど長いのよ、その人とは』そう言うと、ホームレスだった時も含めてね。と、付け加えた。
終電もまだ間に合う時間帯だったが飲み足りず、24時間開いている居酒屋で始発時間まで飲んだ。薄ら明るみが出た夜空を見ながらの帰り道、家の近くのコンビニの前を通ると冷やし中華を『温めますか』と聞いてきた店員がいた。客が来ないであろう時間帯とは言え、裸の女性が載る雑誌の棚の前でサボって見ている店員と目が合った。何も買いたい物はなかったが二上はコンビニに入った。酔っていた二上は、挙動不審になっていた店員が『温めますか』と言うのではないかと期待して、レジ前にある賞味期限切れが近いあの缶チューハイがまだ売れ残っていたのを見て購入した。さすがに缶チューハイを『温めますか』はないか。と酔いが回りつまらない事に嘲笑した。家につき、常温の缶チューハイを一気に飲み干すと眠気が襲ってきた。
ある日、彼女が突然、二上に話しがあるとテーブルに向かい合って座らされた。何かしただろうか。それとも、他に好きな人が出来たので別れて出ていって欲しいと言われるのではないか。二上は鼓動が激しくなり、たまにのど元近くまで来る吐き気に耐えていた。もしかしたら悲壮感漂う表情をしていたかも知れない。そんな、二上の表情を見た彼女はどこか具合でも悪いのかと心配してきたが、何でもない事が分かると彼女が話しを切り出した。実は、と彼女が切り出したその話しは、いま働いている倉庫で来年から社員で働かないか。との誘いの話しだった。その話しを聞いた瞬間、二上は力が抜けるように安堵したが一瞬の間を置いてから彼女と喜びを分かち合った。安堵も束の間、二上が今後どうしていくのか、派遣で働く以前は何をしていたのか。について彼女が議題を方向転換していた。
今更ながら、彼女に何も話していなかったことに気づくと、手短に大学時代に仲介業で起業して大学卒業後の数年は何とかもったが、自身の傲慢さと跋扈する振る舞いが原因で会社を潰し莫大な借金をした。と話すと、彼女は恐る恐るその借金の行方を問いただした。二上は正直に、全国に展開する飲食店業態を経営する社長である父親に借金を肩代わりして貰っている状態だと嘘偽りなく話した。
彼女は渋い表情のまま暫く黙り込んでしまった。
『と言うことは』
と切り出した彼女は困惑の表情を見せていたが、整理するように、二上が大学時代に起業した元社長で、父親が大金持ちであったが為に莫大な借金も命からがら免れた。と理解した様子。しかし、最大の疑問が湧いてくる。『何故、父親の会社を継がずに派遣で働いているのよ』尤もな話である。彼女からしてみれば、もしかしたらこのまま二上と生涯共にする事になり、二上が父親の会社を継ぐことになれば二代目社長夫人である。彼女の社員登用どころの話しではない。
そんな彼女を見て二上は再び会社を立ち上げる旨を切り出した。一度会社を潰しているが故に銀行などの融資は難しく、父親に借金を肩代わりして貰っている上に会社の立ち上げ資金を強請るのも筋が違う。
そこで二上は、クラウドファンディングによる資金調達を画策していたのだ。父親の会社の名を惜しみなく使ったが、父親の手を借りず自分の手で会社を設立し大きくしたいその思いが通じ、資金も一年以上経ち集まりつつあるという。肝心の派遣会社で働く理由も、会社へ就職し社員として組織に入っても自身の傲慢さで潰した悪夢をまた想い出してしまう為、登録型派遣に登録して気楽な気持ちで暫く働きたかったのだと説明した。
彼女は、喜んでいるのか、怒っているのか、呆気にとられているのか、あるいは惚れ直したのか。なんと表現したら良いのか判断がつかない表情で無言のまま二上を見つめ続けていた。
二上と彼女が毎月貯めた微々たる貯金とクラウドファンディングにより、目標となる資金調達の目処も立とうかと言うある日。二上のSNSに一通のダイレクトメールが届いた。現在その彼は、中国に食料品やお酒、雑貨などを買い付けに行き、都内の中国人街で本場の中国人が欲している商品を売る小さな商店を開いていた。中国人の父親と日本人の母親を持つあの大学時代の有志からだった。
当時は、社長二上の跋扈する振る舞いにも会社が潰れる寸前まで寛大に会社に残っていてくれたが、あの時の二上は何を言っても聞き入れる耳を持ち合わせていない上に、自身の案や発言が一辺倒で閉鎖的で一方通行な心理状態であったが為に、嫌気がさし二上の下から離れてしまったのだと言う。だが、半年ほど前から二上の名前をたまたまSNS上で見つけ、添付されている写真の二上の表情や会社を立ち上げる思いやクラウドファンディングの話しを目にして、また力になれないかと意を決しダイレクトメールしたのだという。
数日後、二上は彼と合い話し合った。数年合っていなかっただけなのに、彼は中国への行き来や中国人と話す機会が多いせいか、酷い中国訛りの日本語になっていた。大学時代から変わらない寛大さも、話している内に二上の身に染みるほど伝わってきた。彼が構える小さな商店も、あの店に行けば他では販売していない中国の商品が手に入ると日本に住む中国人の間で話題となり、日本各地に住む中国人が挙って来店する盛況ぶりとなっていた。つい最近になり通販での販売を始め、日本では馴染みのない中国の商品が手に入ると日本人の間でも話題となり、事業を拡大しようかと思っていた所だったのだ。資金に関しても協力出来ることを彼が話すと二上は彼の手を取り涙した。
ふと、ここが喫茶店であることを思い出し周りに目線を送ると、男性同士の別れの縺れなのだろうかと、周りの憐れむ視線を感じ二上は一つ咳払いをして手で涙を拭った。
会社設立はとんとん拍子に進んだ。彼の中国人街での商店は中国人の為にと残した。売れ行きが好調だった通販での販売は、中国に限らず日本人も好みそうな東アジアや東南アジア諸国にも手を拡げ 直接仲介する貿易を主とした会社として設立した。
怒涛の会社設立から数年が経った。買い置きされた二上がお気に入りの缶チューハイは我が家の冷蔵庫の中ではなく、その横に置かれた棚に常備されていた。彼女には、缶チューハイを常温で飲むなんてギャンブルで家にお金を入れないダメ親父やダメ人間が飲む飲み方みたいだと嘲弄された。
二上が住むタワーマンションからは、夏は大きな花火大会が彼女を横に座らせ特等席で観れた。東京の夜景が一望出来るこの高層階から見下ろして飲む常温の缶チューハイも格別だった。気がつくと二上はソファで深い眠りにつく事が多くなっていた。
◇
眠りから覚めた二上は酷く魘されていたようだった。妻となっていた彼女が、また大学時代から今の会社が設立までの夢を観ていたの。と嘲笑された。
二人の子供は海外に留学していた。兄は中国、弟はインドネシアへ留学していた。事実上、二上の会社が吸収する形ではあったが、父親が展開していた飲食店業態も二上の会社と合併。二上が取締役で父親が会長職に就くこととなった。
憧れのタワーマンション最上階に住む事が出来た二上は、東京の夜景を観ながら常温の缶チューハイを飲むことも変わっていなかった。
二上の成功は雑誌に取り上げられメディアが飛びついた。タワーマンションの最上階にマイクを持ったタレントとカメラマンが上がって取材が行われることも度々だった。マイクを持ったタレントが、社長が成功した秘訣は一体何ですか。と決まり文句のように聞いてくる事がある。二上は決まって冗談のようにこう答えている。
『常温の缶チューハイを飲むことかな』