2.シンイキノジジョウ
俺に丁寧な礼を返した女、アスモデウスは、おそらく人間ではないのだろう。
人間離れした整った目鼻、どうやって脱色したのか聞きたいぐらいの真っ白な髪、そして極めつけに額から生えている上向きにねじれた1対の角。
…腰から生えた、スペード型の尻尾を見つめているのはセクハラではないぞ。
ともかく、神の補佐官というよりは、悪魔のように見える。
アスモデウスという名前も、ソロモン72柱か7つの大罪の色欲の悪魔だったような気がする。
色欲の悪魔なだけに、男好きのしそうな大きな乳や尻、むちむちした太腿が特徴的だ。
…セクハラではなくて、事実を述べているだけなんだってば。
「ヤタラ様、この度は、遠路はるばるカミノマへのご足労、誠にありがとうございます。」
再び頭を下げるアスモデウス。
ショートボブの白髪が揺れる。
左目を隠すように流されていた前髪がさらりと動き、涼やかな目元があらわになる。
「あ、えっと、ご、ご丁寧な対応ありがとうございます。」
その流れるような動きに、釣られて俺も頭を下げる。
「いえ、仕事ですので。それよりも、長らくお待たせしてしまいまして申し訳ございません。」
再び頭を下げるアスモデウス。
尖った右耳に掛けられた横髪が滑り落ちる。
「その、こちらこそ、勝手にお茶とお菓子をいただいてしまいまして。」
再び、俺は釣られて頭を下げる。
「お気になさらず。粗茶でございますので。…上司の忘れ形見でございます。」
アスモデウスは零れ落ちた横髪を右手で掻き上げると、そう言って初めて微笑んだ。
どこか寂し気な微笑みに気が付いたのだが、彼女の顔には色濃い疲労が浮かんでいた。
目の下には深く黒い隈が刻まれており、真っ赤な両目はどんよりとしている。
遠目に見ると綺麗だった肌は、心なしかハリがなく、長く伸ばされた前髪は左おでこにできたニキビを隠している。
姿勢よくふるまっているが、双角の先をよく見てみると小刻みに震えているのが分かる。
「…お、お疲れみたいですけど大丈夫ですか?」
思わずこちらから心配の言葉をかけてしまう。
「お気遣いありがとうございます。事務処理に追われていたものでして…。この仕事が終われば、暫く休暇を貰えます。」
疲れた表情で笑うアスモデウスに、思わず同情してしまった。
「さて、ヤタラ様。この度はお亡くなりになられたという事で、真にご愁傷様です。」
「あ、どうも。」
頭を下げるアスモデウスに頭を下げ返すのにも慣れてきた。
「当方からの手紙の方は、読んでいただけましたでしょうか。」
アスモデウスはそう言って、煎餅から出てきた手紙を手で指した。
「あ、はい。よく読ませていただきました。」
俺は、曖昧に頷く。
「ありがとうございます。実は、当神域、そちらに書かれているとおりの状態になっておりまして…。」
真面目な表情で説明を始めるアスモデウス。
今気づいたが、彼女の喪服の胸ポケットに、複雑怪奇な文字が書かれたネームプレートが付いている。アスモデウスと書いているのだろうか。
「先代神グランドドラゴン様の殉職により、現在、異世界転生を担当される神様がいらっしゃらない状態となっております。現在の神域では、他の神様方も手一杯という状態でして、神手不足となっております。」
アスモデウスは、尻尾を不健康そうに震わせながら続ける。
「ですので、次代の異世界転生係を兼任してもよいという神様がいらっしゃるか、新たにフリーの神様が誕生なさるまでは、ヤタラ様にこちらの部屋でお待ちいただくこととなりまsゥ、ッ!?」
突然顔をしかめるアスモデウス。
蒼白だった顔がもっと青くなり、拳をぎゅっと握って何かをこらえている。
尻尾が苦しそうに震えながら、正座した足をさすっている。
どうやら、足が攣ったらしい。
「えっと、大丈夫ですか?楽にしていただいて結構ですので…。」
心配になって声を掛けてやる。
「も、申し訳ございません。失礼いたします。」
俺の言葉を聞いて、彼女は足を崩した。
ストッキングを履いた右足を、両手と尻尾でさすっている。
激務で睡眠不足と栄養失調になっているのではないだろうか。
「…お見苦しい所をお見せいたしまして、大変申し訳ございません。話を進めさせていただきますと、先ほど申し上げたように、異世界転生を担当される神様がいらっしゃるまでは、こちらのカミノマでお待ちいただくこととなります。」
暫くして、足の攣りが治ったらしいアスモデウスは、足を崩したまま話を戻した。
「新しい異世界転生係の神様がいつ赴任してくるかは今のところ目途が立っておりません。長い間お待ちいただくことになるかもしれませんが、担当の方が決まり次第、直ちに異世界の方へと送らせていただきます。」
虚空からフリップを持ち出したアスモデウスは、それに描かれた図を指差しながら説明していく。
「異世界の方では、なるべくお好きなスキルを融通できるようにいたしますし、生まれ落ちる家庭の方も、最上級の条件のものにさせていただきます。」
『重要!』と赤い漢字で書かれた欄をぐるぐると指で囲みつつ、アスモデウスは言った。
「こちらの『カミノマ』でお待ちいただく間も、必要なものがございましたら可能な限りご用意させていただきます。私もご期待に添えるようにお世話させていただきます。」
ガタッ。
…思わずちゃぶ台に足をぶつけてしまった。
下心は、ない。
「神域の方で可能な限りのおもてなしをさせていただきますので、どうか新しい神様がいらっしゃるまでの間、お待ちいただけないでしょうか。ご協力のほど、よろしくお願いします。」
そこまで言うと、アスモデウスは深々と頭を下げた。
「えっと、何個か質問良いですか?」
俺は、頭に幾つかの疑問が思い浮かんでいた。
「はい、何なりと。」
頭を下げたまま、アスモデウスが答えた。
「あ、まず顔を上げて下さい。そちらの事情は分かりましたので。大変そうですね…。」
慌てて顔を上げさせる。
アスモデウスはなんだか涙目になっている。
「えっと、それで質問なんですけど、そもそも俺が異世界に転生するのは、決定事項なんですか?」
まずはここからだろう。
こちらは考えてもいなかった異世界転生だ。
アニメでよく見て憧れてはいたものの、そんなに急に言われても困るほかない。
ハンカチで目元を拭ったアスモデウスは、俺の疑問に答えてくれる。
「そうですね…。申し訳ございませんが、転生していただく運びとなっております。」
どうやら決定事項らしい。
「そもそも、ヤタラ様のいらっしゃった世界含む、幾つかの世界では、死亡した方の魂を他の世界に転生しないとオーバーフローしてしまい、世界の器が壊れてしまうのです。詳しく述べますと、ヤタラ様の魂に負荷がかかりますので神域内の機密事項とさせていただいております。」
アスモデウスは、新たなフリップを虚空から出してきて説明してくれる。
「また、魂が世界間を転生する際に生じるエネルギーは、世界や神域の運営に利用されております。転移者が減ると、エネルギー供給が失われてあらゆる世界が破綻いたします。こういった理由で、転生していただく必要があるのです。」
てしてし、と指で図を叩いてアスモデウスは締めくくった。
「なるほど…。転生する理由はなんとなくわかりましたが、今って、転生が止まってるんですよね?大丈夫なんですか?」
話を聞く限り、異世界転生の神の死亡でエネルギー供給は一旦途絶えることとなっている。
現状ってマズいのではないか?
「今は緊急時用のエネルギータンクで賄っております。」
アスモデウスは俺の疑問に答えてくれた。
「ですが、ヤタラ様のおっしゃるように、現在物凄くマズい状態になっているのです。神域以外の時間を遅延することで暫くは大丈夫だと思いますが…」
アスモデウスは深いため息をついた。
なんとも迷惑な神殺しがいたものである。