バレンタインデーのチョコレート
公園のベンチの下の雪を手に取った。そして、暫くそのままにした後、また元の場所に捨てた。濡れた手を偶然持っていた花柄のハンカチで拭っていると、私は、足音が遠くからゆっくりと近づいてくるのに気付いた。
「これ、あげる」
その足音の正体は10、11程の少女のものであった。少女は徐に私に手を差し出している。なんだかよく分からないが、私はその手から小さな四角い箱に包まれた何かを受け取った。それが何かと尋ねようとした時、既に少女は走り去ってしまっていた。
一体あの少女は、なんだったのだろうか。ひとまず、それは置いておく。私は受け取った小さな箱の包み紙を剥がした。すると、その中身は大層美味しそうなチョコレートであった。すると、更に分からない。一体なぜ、あの少女は私のようなものにチョコレートを手渡したのだろう。私はもう、今年で齢45になろうとしている、これは一般的には「おじさん」と呼ばれるような年齢だ。とても娘でもない少女から、いきなりチョコレートを渡されるというのは想像できるものではないし、実際理解に困っていた仕方無い。
ああ、気になる。あの少女の真意は、なんだったのだろう。そういえば、今日は2月14日だったか。世間では今日を『バレンタインデー』などと呼び、意中の異性にチョコレートを贈る風習がある、という知識だけは頭に入っている。とはいえ、私はこの歳だ。まさかあの少女から想いを寄せられているなどと勘違いをするほど、もう若くはない。妻も子どもも、ましてや好意を寄せる女性もいない私ではあるが、流石にそれくらいは分け前ているつもりであった。
もしや、あの少女は渡す相手を間違えたのではないだろうか。父親に渡そうとして、うっかり私に間違えて渡してしまったとあらば、この奇奇怪怪な出来事にも説明がつくだろう。ああそうだ、きっとそうに違いない。もはやそれ以外の可能性はないだろうとまである種の確信を得た私は、このチョコレートを少女がまた取りに来る時が来るだろうと目星をつけて、この場からもう暫く動かないようにしようと決めた。
雪が激しくなってきた。私は然程、厚着をしているというわけではない。というのも、今私がここにいる理由は、雪の美しさに息を呑んだあまりについ部屋を飛び出してきてしまった、そのついでのちょっとした散歩でしかなかったのだ。ちょっとした散歩、といったように、長居するつもりは全くなかった。いや、長居する必要がある出来事が起こるなどとは考えてもみなかったのである。そんな私を、何の悪戯か、激しく降り注ぐ雪が体温を奪って痛めつけていく。せめて手袋でも持ってきていれば——そんな後悔に苛まれるも、全ては虚しいままだった。
更に時間が経った。日暮れはもうすぐである。私は、もし御天道様が隠れるまでにあの少女が戻ってこないのであれば、もうそれは渡す相手を間違えた少女が悪いのだから、チョコレートを思い切り食らって部屋に帰ろうと思っていた。そして、そんな事を考え始めた矢先に、少女は私の元へ戻ってきたのである。
「おじさん、まだここにいたの?」
「うん、君が戻ってくるんじゃないかと思って」
「どうして?」
「だって、このチョコレートを渡すつもりだった相手は、私じゃないのだろう?」
「ううん、それ、おじさんにあげたんだよ」
これで全て解決するかと思っていた分、私はとんでもなく肩透かしを食らったような気分になった。恐らく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔にもなっているだろう。チョコレートを食らわずして、こんなにも多くのものを食らう羽目になるとは、やはりまるで予想していなかった。
「どうして、私なんかに?」
「うーん、どうしてだろ」
少女の返答は、何とも的を射ないものであった。理由もなく、私のようなおじさんにチョコレートを渡す少女がこの世にいるのであれば、それはきっと、神様が死ぬ前に見せてくれている幻想か何かなのかもしれない、私はそんな事を考え始めていた。
「とにかく、このチョコレートはおじさんにあげたんだよ。食べて」
「そういうことなら……ありがたく受け取っておくよ」
そう答えて、私はチョコレートを上着のポケットに入れようとする。しかし、その手は少女に掴まれ、突然のことに驚いた私は手の行き先を失い、チョコレートを雪の上に落としてしまった。まだ包装されているのでダメになったりはしていないが、少し申し訳ない気持ちになった。
「今食べて」
なぜ、この少女はこんな事を言うのだろうか——私には到底、理解できなかった。この言葉だけに留まらず、この少女の今までの言動は、明らかに見知らぬおじさんたる私へのものだと考えると不自然極まり無い。もしかすると、私はこの少女の事を以前どこかで知っているのではないか——いや、そんなはずはない。私は自慢ではないが、物覚えがかなり良い。子供の頃のことだって人並み以上には覚えていると思うし、最近あった出来事であれば尚更鮮明に思い出せる。そして、私の記憶の中に、こんな少女はいなかった。だから、きっとそれはない。私は、この少女の事を知らないはずなのだ。
「おじさん」
「なんだい?」
「今、食べて」
少女の語気が、若干強まったような気がした。なぜだろう——それはやはり考えても無駄なことである。別に今食べて何か不都合が生じるわけでもあるまい、私はチョコレートの包装を破いて、さっさと口に入れた。初めて噛んだ感触は、カリッとしていた。その後は口の中で溶けていく感覚を覚えながら、甘い香りと味が口いっぱいに広がっていくのを感じた。これが、チョコレートか。私は45年ともう長く生きてきたが、チョコレートを食べたのは人生で初めての経験であった。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「本当?」
「本当だとも」
「……よかった」
ホッとして、少女は文字通り胸を撫で下ろす。もうチョコレートは全て食べきり、甘い香りだけが口内に残った。食べたことがないはずのチョコレートの味に、懐かしい心地よさを感じた。この少女は、熟、謎に包まれているなと心から思う。
「食べてもらえて嬉しかった。それに、美味しいって言ってもらえて」
「こちらこそ、チョコレートをくれてありがとうね」
「ううん、気にしないで」
そう言った後、少女は次の言葉をなんだか言い辛そうにして、口をもごもごと忙しく動かした。今まで言葉に詰まることなんてなかっただけに、私は改めて少女に対し不思議な印象を覚えた。
「その……また来年も、チョコレートを受け取ってくれますか?」
それは、さっきまでとは打って変わって、畏まった丁寧な口調で語られた。また、来年も。私にはその言葉が嬉しくもあり、そして、酷く悲しくもあった。
「……ごめんね。それは出来そうもないんだ」
もちろん、少女のことが嫌いだとか、チョコレートが嫌いだとか、そういった理由で断ったわけではない。また明日、であれば、あるいは了承する無責任さを出しても構わないと思ったかもしれない。しかし、来年となればそうはいかない。私には、そんなに長い時間が残されていないのだ。
私は幼い頃から不治の病を患っている。もう幾度となく手術を繰り返し、長い入院生活を余儀なくされてきた。それは、今とて例外ではないのだ。今、私は外の公園のベンチに座っているわけだが、この公園の真横には大きな病院が建っている。この病院に、私は入院しているのだ。そして、厳しい検査を終えた後、外出許可を取り、特別に今、私はここにいる。
いつ死んでもおかしくないのだ。私の病気は、それほどまでに進行してしまった。あらゆる手は打った。だが、現代の医療では全くもって太刀打ちできない難病だった。幸い、私に家族はもうない。私が幼い頃に、父は母と喧嘩をした後蒸発してしまったし、母もそんなストレスを抱えていたためかガンになって死んだ。身寄りのない私を引き取ってくれたのは叔母さんの家だったが、それも厄介払いといった感じで、入院費だけは出してやるから後は勝手にしてくれ、と投げやりなものだった。仕方がないだろう。私はどう足掻いても近々死ぬのだ。そんな爆弾は、近くに置いておくのも忍びない。叔母さんの対応は優しい方だった。入院費を出してもらえる事が、どれだけありがたいか。入院させられた当時は大層叔母さんを恨めしく思ったものだが、今になって思えばとんだ勘違いだったなとすら思う。とはいえ、そんな私の境遇などつらつらと述べたところで、誰も興味なんてないのだから、さっさとこんな思考は止めるべきだ。とにかく、私が言いたいことは、『今日明日生きているかも分からないような私という人間が、来年の約束なんて守れるとは思えない』ということなのである。だから決して、少女の申し出が嬉しくないというわけではない。その心遣いには非常に心が温まるのだが、所詮私はもうすぐ死ぬ運命にある。だから、来年、少女がここにやって来たとして、私がここにいる保証はないのだからやめておこうと、ただそれだけの話なのである。
私が少女の申し出を断った後、少女は酷く泣いた。突然のことだった。少女はいつも突然ではあったが、これは特別突然な感情の変化であった。それはもう、恐らく多くが想像しているよりも遥かに激しく、少女は泣いたのだ。泣き叫んだ、という方が俄然適切で近しい表現であろうか——少女は泣き叫んだまま、暫く何も言葉を発せずにいた。ただただ、悲痛で、心臓ごと引き裂くような泣き叫ぶ声が、私の心を深く抉った。
少女が泣き止むまで、私はただじっと、その場で何をするでもなく待っていた。まさか置いていくわけにもいくまい——雪はあれからますます激しさを増し、視界も悪くなってきていたのだが、それならば一層、少女をこのままにしておくわけにはいかなかった。どれくらいの時間が経っただろう——少なくとも、日は当に沈んでいた。辺りは荒れた雪も相まって真っ暗である。そんな時間になって、少女はとうとう泣き止んだ。ぐずぐずと鼻をすすり、目元を服の袖で拭っている様子を見て、私は咄嗟に持っていた花柄のハンカチを手渡した。
「……ありがとう……」
——そういえば、どうして私は花柄のハンカチなど持っていたのだろう。自分で買った記憶はない。そもそも、こんなもの自分で買うとは思えないのだが……なんとも、懐かしい心地がした。そして、その心地は数瞬、確信に近いものに変わる。
「……返す」
そう言って私にハンカチを差し出す少女の姿を、私は絶対に見たことがあった。だが、どうしても、どこで、どうして見たことはあるのかは、思い出すことが出来なかった。私は、何か大切なことを忘れているのではないか——そんな気持ちになった。
「……今日はありがとう。チョコレート受け取ってくれて、嬉しかった。また、会おうね……」
再度礼を言って、私の元を離れようとする少女の顔は、吹き荒れる雪による視界不良を無視しても酷く暗く落ち込んでいた。声色は、まだ涙を含んでいた。ここで別れたら、私はもう二度と少女に会えないような気がした。しかし、私は何か声を出す、ただそれだけのことが出来なかった。寒くて震えたからだとか、悴んだからだとか、決してそういうわけではない。それなのに、私は声を出せなかった。去りゆく少女の手を掴むことも、出来なかった。そしてそれは、死んでからも尚後悔し続けることになるのだろうと、理由もなく、ただ、そう思った。
1週間後、公園のベンチに座って少女からチョコレートを貰った男は病に侵され亡くなった。享年45歳であった。少女は、あれから二度とあの公園には現れないし、もしかすれば、男が死ぬ間際に見た幻想だったのかもしれないというのもあながち間違いだとは言い切れない。
少女は、男に何を伝えたかったのか。男は、なぜ最後に深い後悔を覚えたのか。それを知ることは、もう出来なくなってしまった。
そして雪が溶けて、春が来た。しかし、あの公園のベンチの下には、まだ若干だが雪が溶け残っているようだった。