サニー・レイニー・ウェディング
えっちなのはいいことだと思います!
※ばっちばちに全年齢です
「はぁあ……つっかれた……」
二階建てアパートの階段を登りきって一息。大学にバイトで体力を搾り取られていた陽介は、雨に濡れた身体に喝を入れて自分の部屋の前までよたよたと歩く。
先程まで晴れ渡っていた空は、様子はそのままに雨がしとしとと降っていた。天気雨というやつである。傘を持っていなかった陽介には不運が重なったとしか言えない。
陽介が間借りしているアパートは築四十八年という良く言えば古めかしい、悪くいえばボロアパートと呼ばれる物だ。しかし、大家さんも周りの住民も穏やかな人達ばかりなので気に入っている。
陽介の部屋は二階の階段から一番離れた所にある。塗装のはげた扉のドアノブに鍵を差し込み、カチャリと音がしたのでドアを開けようとしたら鍵がかかっているのか開かない。
あれ、と予想外のことに手を止める。不審に思いながらも、もう一度鍵を回してからドアを開ける。
「おかえりなさいませ、旦那様」
ガチャン、と大きな音を立ててドアを閉めた。おかしい、この扉の向こうに見知らぬ女の子がいたような気がする。満面の笑みを浮かべ白いフリルエプロン、所謂良妻エプロンを付けた、獣耳と尻尾があるタイプの。
いや、そんな筈は無い。第一陽介は一人暮らしであり、寂しいことに彼女も居ない。先程の光景は陽介の疲労によって作られた幻想だったのだ。
陽介はやれやれ、と肩を竦めてみせた。どうやら随分疲労が溜まっていたらしい。頭を振ってからもう一度ドアを開ける。
「もう、旦那様ったら、照れ屋さんなんですから。ご夕飯にします? 湯浴みにします? それとも……」
言い終わる前にまたドアを閉め……ようとしたらガッ、という衝撃音と共に扉がつっかえた。恐る恐る下を向くと、女の子の細くしなやかな脚が隙間に挟まっていた。
思わず喉からヒェ……という情けない声が出る。この子、可愛い顔してなかなかにアグレッシブである。他人の家に勝手に上がり込んでる時点で相当アグレッシブなのだが。
「旦那様、奥ゆかしい様子も大変愛らしいのですが、私、少々気が短い質ですの」
「すいません……」
「ふふ、謝らないでくださいな。また今度りべんじ致しますので」
頭に乗った耳をぴこぴこと揺らして、どこか逆らえないような空気を漂わせる笑顔に謝罪の言葉が出る。後ろでゆらりと揺れる質量の多い尻尾は狐のそれに似ていた。
「お体を冷やしてしまいますわ。こちらを」
陽介に差し出されたのは白いふわふわのタオル。柔軟剤も良い物を使っているのか優しい香りがした。
「え、あ、ありがとうございます」
タオルを受け取り、濡れた身体と頭を拭いた。目の前の女の子があまりにも自然体すぎて頭の中で量産される疑問は次々と蓋がされてゆく。それでも時間が経つにつれて冷静になれたのか、陽介は聞きたかったことをようやく尋ねた。
「あの、貴方誰ですか? なんで俺の家に……」
そう問うと女の子は突然正座をし、三指を着いて深々とお辞儀をした。
「申し遅れました。先日助けていただいた狐です」
「助けてませんけど!?」
「いいえ、助けていただきました。旦那様、古びた狐の像と聞いて、何か思い当たる節はございませんか?」
「……そういえば」
顔を上げこてりと首を傾げる狐を名乗る女の子。まったくもって見覚えがないが、狐の像というのには覚えがある。
二日前、バイト帰りの事だ。いつもとは違う道を通ってみようと少年の冒険心が疼いて、いつもなら信号の所で曲がる道を一つ手前の細道で曲がったのである。コンクリート社会にしては緑が多く茂る通りでテンションが上がったものだ。
何事もなく歩んでいると、少し先の道の真ん中に狐の像が転がされているのが見えた。
怪しいことこの上ないのだが、大学のレポートを書き上げた後で気分のよかった陽介は「もう誰だよこんなとこに狐の像を倒したヤツ、仕方ないなぁ」と側らにあった祠前に戻しておいたのだ。
「はい。私、その時の狐にございます」
「うっそぉ……」
色々とツッコミどころ満載なんですが。鶴の恩返しと笠地蔵のオマージュか何かですかね。
ファンタジーじみた状況に、陽介は軽く現実逃避をしていた。アレだけで助けたことになるなんて亀を助けた浦島太郎もびっくりだと思う。
「あの時の旦那様を見て、私、ビビッときちゃいました」
「ビビっと」
「はい、それはもうビビっと。私はこの方と添い遂げるために生まれてきたのだと実感するほどに」
「え? 添い遂げ?」
「旦那様。不束者ではございますが、どうぞよろしくお願い致します」
再び三指を着いてお辞儀する狐女子。
どうやら陽介は、狐に嫁入りされてしまったらしい。
□■
強制的に同棲が始まってしまったわけだが、陽介はされるがままになっていた。
なぜなら押しかけ女房よろしくしてきた狐女子は、作るご飯が美味しかった。それだけで絆されるのはどうかと思うが、本当に美味しいのだ。実家を離れて一人暮らしの男は、手作りの味に飢えていた。男を落とすには胃袋からと言うが、あれは事実だったんだな陽介はしみじみ思う。
流し台の方からカチャカチャと洗い物をする音が止む。ひょい、と台所の入口から顔を出した狐女子がエプロンを脱ぎながら、ソファで寛いでいる陽介に近付いてきた。
むぎゅり。陽介の二の腕が、何か柔らかいものに包まれる。
「お慕いしております、旦那様……」
甘く、熱っぽい声を上げて狐女子は胸を押し当ててきた。布越しからでもわかる吸い付くような感触に陽介の思考は停止する。あまりの突然の出来事に、陽介から飛び出た言葉は一つだった。
「えっちなのはいえないと思います!」
腕を突っぱねて狐女子を引き剥がす。どこの生娘だと言いたくなるような反応だが、陽介の理性が過労死寸前まで働いてくれたおかげだろう。
陽介は名前も知らない女の子とそういう関係になるのは嫌だった。はっきりそう伝えると、狐女子は目をぱちくとさせてから下を向いた。キツく言いすぎたかな、と少し罪悪感を抱きながら反応を待つ。フッと顔を上げた狐女子は、眉を八の字に下げてバツの悪そうな表情をしていた。
「私、鈴音と申します」
順序が逆になってしまい、お恥ずかしい。そう言って口元に手を当てからころ笑う狐女子、鈴音は、ピコピコと動く耳が真っ赤だった。
どきり、と不自然に動いた心臓の意味に気づかないよう、陽介はところで、と話題を変えた。
「それ、中途半端に人型とっちゃったんですね」
ふわりと動く耳と尻尾に目をやりながら聞くと、鈴音はなぜか誇らしげな顔をした。
「私程の力であれば人の姿への変化など容易いですので、これはわざとです。……何かおかしかったでしょうか? 現代の男性は、このような姿がお好きだと小耳に挟んだのですが……」
今度は誇らしげな顔が鳴りを潜め、先生に間違いを指摘された子供のような顔になる。
「多分それ一部の人だけだと思います」
「旦那様はお嫌いで?」
「う、いや、き、嫌いではないです」
追い打ちをかけるようで悪いと思いながらも否定すると、くるりと尻尾を巻いて、耳をへたりと倒しながら伺うような言葉を返された。嫌いとは、一概に言えないものだ。
そうですか、と安堵したように笑う鈴音は床に着く準備をしに陽介とは別の寝室へ向かった。流石に寝室は別だよな、と不安になっていた陽介も安堵した。
次の日の朝、陽介は朝食の良い香りで目が覚めた。食卓に行くと湯気の立った料理達が綺麗に並べられた様子と、テキパキと動く鈴音が見られた。料理はもちろん、美味しかった。
大学に向かうため陽介が靴を履いていたら、鈴音が小走りで玄関までやってきた。手には可愛らしい花柄の小包が収まっている。
旦那様、と鈴音がその小包を差し出してきた。
「勝手ながら、お弁当を作らせていただきました。よろしければお持ちください」
「え。あ、ありがとう……」
驚きのあまり、張り付いていた敬語がぽろりと抜ける。それがしっくりきてしまい、少しむず痒くなる。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
「……うん、いってきます」
誰かに見送ってもらうなんて久し振りで。なんだか擽ったいような、温かいような気持ちになった。
□■
例の同棲生活にも慣れてきた頃、陽介はふと思い至った。鈴音と一緒に出かけたこと無いんじゃないか、と。いつも温かいご飯と優しい笑顔で待っていてくれる鈴音に何かしてやりたいと、陽介は思ったのだ。
バイトが終わって直帰した陽介は、鈴音に何処か行きたいところはないかと聞いてみた。玄関で出迎えてくれた鈴音は一瞬驚いてみせ、ふと考え込んだがすぐ答えが出たようだった。
「では私、しょっぴんぐもぉる、という所に行ってみたいです」
両手をぐっと握りしめ、意気込むように力強く言った。何が鈴音をそうさせているのかわからなかったが、行きたい場所があるならそれでいい。でも、やっぱり早くに言うべきだったなと陽介は少し後悔した。
次の週の土曜日、バイトの休みが取れたので陽介と鈴音は隣町の大型ショッピングモールに来ていた。鈴音は耳と尻尾をオフにした姿で、完全に普通の女の子のようだった。ちょっと緊張したのは陽介の秘密だ。
嬉しそうに隣を歩く鈴音に、なぜショッピングモールに来たかったのか聞いてみることにした。鈴音はきょとりと目を瞬かせた後、くすりと笑みを溢す。
「実はですね、憧れだったのです」
共に市場へ向かいどれを買おうか話し合ったりするのが、夫婦のようで。
悪戯が成功した時のような顔で、鈴音は言った。陽介は恥ずかしくなりふい、と横を向く。ふふ、と鈴音は笑いながら跳ねるように歩みを進めていった。
少し進んだ所で、ある棚の前で鈴音が立ち止まる。すぐに追いついて店を覗くと、そこはアンティーク小物が立ち並ぶ雑貨屋だった。
「それ、気になる?」
「あ、すみません、足を止めてしまって……」
「へぇ、砂時計か。久し振りに見た」
鈴音が熱心に眺めていたのは砂時計だった。まろい曲線を描いて真ん中でしゅっと締められたガラスボトルが、金属の骨組みに収められ細かい装飾が施されている。中に入っている砂は、不思議な事に見る角度によってちろちろと色が変わる、暗く輝かしい宇宙の色をしていた。
陽介は鈴音に少し待っていてくれと伝え、砂時計を手に持ちその場を離れた。戻ってきた時には砂時計は手に無く、代わりに赤い包装と細い白色のリボンでラッピングされた小箱が収まっていた。
「鈴音、これ」
おずおずと、小さな宇宙が閉じ込められた箱を鈴音に渡す。慣れないことに、少し手が震えた。
「旦那様、こちらは……」
「よかったら貰ってくれ」
鈴音はそっと、壊れ物を扱うかのようにラッピングされた宇宙を手で包んだ。
「ありがとうございます」
鈴音は一度目を伏せてから、陽介に視線を合わせ、頬を染めて幸せそうに笑った。
鈴音が居なくなったのは、その翌日のこととだった。
その日、バイトが無かったので陽介は大学からそのまま帰宅しのだが、家に鈴音の姿はなかった。
「あれ、鈴音?」
玄関から声を掛けるも、アパートの一室に響くのは自分の声だけ。
「買い物かな……」
鈴音の帰りを待ったが、アパートの扉はひとつも音を立てなかった。一週間が経っても、それは同じだった。
ここ、こんなに静かだったっけ。
砂時計は持ち主がいなければ時を刻むことはない。鈴音の残した砂時計は、ただそこに在るだけだった。
□■
鈴音が居なくなって半年が過ぎた。陽介は大学とバイト先と自宅を行き来するだけ。ご飯はバイト先で買った惣菜で済ませていた。
もそもそと夕飯を食べていると、コンコンと扉を叩く音が響いた。陽介は、大家さんだろうかと箸をおいて腰を上げた。少し前から大家さんは作りすぎた、と言って煮物やおかずを持ってきてくれているのだ。陽介が思っているよりも随分と気落ちしているらしい。大家さんの気遣いがとてもありがたかった。
今日もきっとそうだろう。一昨日貰った南蛮漬けのタッパーがあったはずだ、返さないと。台所に置いてあったタッパーを持って玄関に向かう。
「はーい、今行きまーす」
サンダルを履いてドアノブに手を伸ばそうとしたら、勝手に扉が開いた。へ、と気の抜けた声が出そうになったが、陽介は扉の向こうの光景に息をのんだ。
そこには鈴音が立っていた。初めて会った時と変わらない、あの鈴音が。いつもと違う所といえば、服装が豪華な着物になっている所だけだ。何重にも重ねられた美しい着物に身を包む鈴音は、神様と名乗られても納得してしまうような神聖さだった。
「旦那様、お迎えにあがりましたわ」
「す、鈴音?」
「ええ、貴方の鈴音にございます」
少々準備に手間取ってしまいまして。からころと笑う鈴音は、やっぱりいつもの鈴音だ。
「さぁ、旦那様」
鈴音は陽介に向かって優美に手を差し出す。掌を上にして出されたものは、御伽噺の王子様が姫に伸ばす手のようで。
「狐に婿入り、ですよ」
晴れ渡った空からは、まるで祝福するかのように優しい雨が降り注いでいた。
趣味全開のオチでした。これが書きたくて筆をとった……
目を通してくださりありがとうございました!
次回作は「転生×悪役令嬢×百合」をテーマに執筆した小説の予定です。