第14話 ヒップホップの部 その4
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「うわっ。今日はパンの日かよ。この匂い凶悪だよな。」
志正が店に入ってくるなり暴言を吐く。
それもそのはずランチの時間帯に合わせて20分置きにタイマーを設置したホームベーカリーから食パンの焼けるいい匂いが漂う。
鰻屋がタレを燃やして客を集めるのをヒントにパンを使ったランチメニューの日には、こうしてホームベーカリーを設置して雰囲気だけでも焼き立てパンを演出しているのだ。
ランチのほかに常時パスタメニューもあるのだが、ほぼ100パーセントのお客様がランチを頼まれる。手の込んだランチメニューのほうが単価も利益も多い。
でも実際にはホームベーカリーで作ったパンはお出しすることは無い。焼き立ての食パンというものは柔らかすぎて料理には向かないし、底に出来る羽根の穴が料理を携わる人間として許せないのだ。大抵は自分の朝食のパンにしたり、ランチメニューの試食用に使われたりしている。
「残念ながらランチメニューは完売したぞ。」
パンを使ったランチメニューの場合、大抵午後1時近くには完売してしまう。志正のように昼時を避けてランチを食べようとすると売り切れている場合が多いのだ。
「ええっ。酷くない。」
「酷くない。こんな時間に来る志正さんが悪い。」
「仕方が無い。ベーコンクリームパスタへいつものようにその食パンの端っこをスライスカットして付けてくれよ。」
また面倒くさいことを言い出す。はっきり言って端っこでも焼き立ての食パンは柔らかすぎて切りにくい。しかも折角キレイに膨らんだパンが潰れてしまうのだ。
だから断っていたのだが、あるとき志正が良く切れるパン切り包丁を調達してきたのだ。
まるで普通の包丁で豆腐を切るように切れるので問い質してみると志正が召喚されたときに神から貰ったという伝説の聖剣を渚佑子さんに頼み込み錬金術でパン切り包丁に変えて貰ったというから驚いた。
焼き立ての食パン食べたさに伝説の聖剣をパン切り包丁に変換して貰ったことも驚きだったが、あの守銭奴で有名な渚佑子さんに錬金術を使って貰うなんて、幾ら料金を払ったんだか。
パン切り包丁は僕の物という位置付けで、それ以来断れなくなっているのだ。
「あれっ。その食パンって売り物なのね。」
さらに店に入ってきた瑤子さんが不思議そうな顔で聞いてくる。以前、売り物じゃないという話をしたからであろう。
ここは警視庁管内じゃないはずなのに頻繁に現れていつも2時間くらい寛いでいる。後ろから新田警部補が申し訳無さそうに入ってくる。どう考えても公務員に2時間以上も昼食の時間など無いはずだからサボリなのだろう。
「ええ。イートインではお出ししていないんですが、1斤の食パンをお持ち帰り前提で友人には適価でお分けしているんですよ。」
はっきり言って、この食パンには自信がある。ほぼ全工程ホームベーカリー任せだし、材料も普通に売っているものを使っているが途中冷蔵庫で低温発酵を6時間ほど行なっているのだ。
強力粉250グラム
バター10グラム
グラニュー糖15グラム
岩塩4グラム
低脂肪牛乳170ミリリットル
ドライイースト1.0グラム
これをホームベーカリーのピザモード実行後6時間以上冷蔵庫で保管。
グラニュー糖5グラムとドライイースト0.8グラムを追加投入して食パンモードで焼くという。手間は掛からないが暇だけは十二分に掛かっている食パンなのだ。
多くのレシピ本は短時間で膨らませるためにドライイーストを大量に投入する。そのためイースト臭さがどうしても残るので、独自に考案した方法だ。
だからこの日ばかりは朝4時に起きて仕込みをしなくてはならない。
「私もシンの友人だよね。何で教えてくれないの。」
未だに瑤子さんには飲み友達という立場を押し通しているが、自分の中では友人以上恋人未満という位置付けだ。瑤子さんも人前では恋人だなんて言わないから助かっている。その辺りは分別ある大人なのだろう。
「あ、いやそのう。」
はっきり言って嫌がらせの意味もあって、志正には食パンだけで2000円貰っているのだ。
『ハロウズ』に入っているパン屋の超高級食パンでも2斤1000円なのに1斤のホームベーカリーの食パンに2000円も払ってくださいとは言い辛かったのだ。
「瑤子さん。高いんだよ。その食パンは。でも那須が現役の頃に餌付けされた俺たちが食べれる手作りパンなんて何処にも無いんだよ。」
大げさだなぁ。
餌付けなんてした覚えは無いんだがな。引退後にカフェを経営しようと思っていた僕は寮の食堂を借りていろいろと料理を試作しては友人たちに振舞っただけなんだけど。
「私にも頂戴。そうねメインはこの明太子クリームパスタでいいわ。」
「新田さんはどうします?」
「俺はミートソースパスタで。」
「ありきたりねぇ。」
はっきり言って全部手間は掛かっていない。
ベーコンクリームパスタは冷凍のきのこのクリームパスタを電子レンジで調理したものに炒めたベーコンを加えただけだし、明太子クリームパスタも電子レンジで調理した上に新鮮な海苔を散らしただけだ。
麺は冷凍ものだがミートソースだけは自家製だから一番手が込んでいるかもしれない。
「そういえば荻ダンススクールの20周年記念発表会のときもその食パンで作ったサンドイッチを持ってきていましたねえ。あの事件からもう何年経つんですかね。」
「その話を聞いて驚いたわ。あの複雑怪奇な事件を解明したのがシンだったなんて。名探偵の素質もあるなんて素敵ね。」
「そんなこと無いんです! 僕は何一つ出来なかったんですよ。」
思わず苦いものが込み上げて弱音を吐いてしまった。
「どうしたのよシンらしくもない。」
荻ダンススクールの20周年記念発表会は警察の厳重な警備の中、午前中のゲストのリハーサルも終わり、午後1時30分の開演に向けて順調に進んでいた。
番頭さんの代わりに雑用係に任命された僕だったが碌々役にたっていなかった。何しろ参加者の全てが女性ばかりで殆ど下着姿でうろうろされたんでは身の置き所が無かったのだ。
文化センターの初心者向けのヒップホップは男性も2割くらい居るという話だったが記念発表会には誰も参加していないらしい。
インストラクターやそのアシスタントたちは各教室の生徒と共に踊るだけで1日5本の舞台を踏みつつ日頃の成果を発表するために荻ダンススクールの本部の生徒として踊る舞台もあるというから驚きだ。
しかもその踊り如何では業界からスカウトされることもあり、熱の入った演技を求められるらしい。
「これは寮のオバサンが作ってくれたの?」
横から手が伸びてきて食べようとしていたサンドイッチを奪い去っていった。
「いや。自分で作ったんだ。」
多絵子さんが口にすると驚きの顔に変わる。
「何よ。これ美味しいじゃない。なんかパンが違う。パンも手作りなの?」
「うん。ホームベーカリーだけどね。」
「雪緒も食べてみなさいよ。手作りパンと言ってもママが作るようにイースト臭く無いのよ。」
またしてもお弁当箱から多絵子さんが奪い去っていく。初めは断っていた雪緒くんだったが口の中に無理矢理押し込まれると驚いた顔を向けてくる。
「雪絵さんもパンを手作りしてくれるの?」
「ホームベーカリーが出たときに1度作ってくれて雪緒がお腹を壊したのよね。それ以来作ってくれないわ。元々料理は出来ない女なのよ。食卓もお手伝いさん任せだしね。はい。代わりに楽屋弁当をあげるわ。」
完全に弁当箱を取り上げられ、楽屋弁当を押し付けられる。これはこれで美味しい。スマートフォンで写真を撮りレシピを書き出していく。まあこういった和風弁当のおそうざいの作り方は一般的だから再現するのも楽そうだ。
「刑事さんも食べてみなさいよ。」
「はい。戴きます。」
新田巡査部長がチラリと僕を見ながら弁当箱からサンドイッチを持っていく。男が弁当を作るなんて軟弱者とか思っているんだろうな。