第8話 ジャズダンスの部 その7
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「あれっ。うぐいす張りなんですね。この廊下。」
行きは番頭さんと雪絵さんと美名子さんと刑事さんの合計5人でドタドタと稽古場に移動したので気付かなかったが刑事さんの先導で戻ってくると廊下がキュキュと鳴いた。
「それなんですがね。事件当夜、居間から裏の自宅に戻った番頭さんの話では勇大さんが被害者と打ち合わせの後、居間に戻ってきてからは誰も稽古場に向ったものが居ないと言っているんですがその理由がこのうぐいす張りの廊下にあるのですよ。」
なるほど、いくら足音を忍ばせて稽古場に向おうとしても廊下がキュッキュッと鳴ってしまうわけだ。この屋敷はコの字に建てられていて居間を挟んで稽古場に近いほうが雪絵さんの居室で反対側が勇大さんの居室、稽古場の反対側が子供部屋という按配になっている。
また中央には大きな池があり、居間からは大きな窓ガラスから丸見えになっているのでいつ人が通りかかるか分からない状況では、子供部屋近くにある正門から稽古場に人が渡るのは難しいかもしれない。
ただ家の周囲は人ひとりくらい通れるようになっているため、外周をぐるりと回り込み番頭さんとミナコさんの目を誤魔化せれば正門から稽古場に行くことは可能だという。ただ小雨が降り続いていた所為で足跡などの痕跡は分からないようになっていたそうだ。
「では外部犯の線で警察は動いているわけですか?」
「そうなんですよ。勇大さんもその後居室に戻っているのでアリバイが曖昧でして、そうは言っても決定的な証拠も出ていないわけなんですよ。ですから話を伺った被害者と愛人関係にあったという話が本当なら容疑者として勇大さん、雪絵さん辺りが有力となってくるわけですよ。」
「警察では雪絵さんも容疑者の対象なんですね。」
「まあ、あんな綺麗な女性が嫉妬に狂って愛人を八つ裂きにしたとは思いたくはありませんが一般的に考えれば有力な線なんでしょうな。」
どこか他人事のように言う新田刑事を見て、この人本当に大丈夫なんだろうかと疑問に思った。綺麗だろうが不細工だろうが嫉妬に狂うだろうし、殺人衝動に駆られたりもするだろう。
「少し時間が空いたようなので、まずは子供たちから事情を伺いたいと思うのですがよろしいでしょうか。」
しまったな。子供たちにまで事情聴取をするとは思ってなかったので口止めもなにもしていない。それにあれから多絵子さんにも会っていないから誤解されたままかもしれない。
でも嫌だとも言えないので頷いた。
まずは多絵子さんと雪緒くんの部屋に向う。
ちなみにミナコさんの家は裏の番頭さんの隣にあり、後で勇気くんにも会いに行くことになった。
「お邪魔しますよ。」
「あっ。刑事さん。それにシンさんも。」
その部屋には3人の子供たちが居た。多絵子さんは足音もさせずに近寄って来て腕を組んでくる。雪絵さんに良く似た顔が近付いてくるとドキッとする。
相変わらず男の子たちの視線が痛い。この屋敷に舞い込んできた蛾のように異分子を見るような視線だ。
「シンさんですか?」
こっちはこっちで刑事さんの視線が痛い。もしかして雪絵さんや多絵子さんが好みのタイプなのだろうか。露骨だな。
「そうよ。シンさんったら凄いのよ。」
これで僕も刑事さんの中では重要人物のひとりになってしまうかもしれない。
てっきりタエコさんが僕のことをベラベラと喋るに違いないと身構えていたが、違う方向から話が続いていった。
「ええ凄いですね。初め若い彼が後継者に指名されたと聞いて眉唾モノだと思っていたのですが、どうしてどうして稽古場で被害者の振り付けを雪絵さんと美名子さんに指導されているところを拝見して考えを改めたところです。」
まあ自分でも荻ダンススクールの後継者とか言われてもバカらしいと思うのに、刑事さんから見たら只の若造の僕が後継者とか言われても何なんだろうと思うよな。
「えっ。稽古場でそんな面白そうなことをしていたの。見てみたかったわ。」
「丁度良かった勇気くんもいらっしゃるようなので、今回の事件について何か気が付いたことが無いか皆さんから聞かせて頂けないかと思いましてお伺いしました。」
幾分刑事さんの態度が下手に出ているような気がするが子供とも大人ともつかない年代への配慮なのだろう。僕にも大人たちのそういった配慮には覚えがある。
「何故、その男が居るんですか?」
19歳になっていると思う雪緒くんを庇うようにして勇気くんが前に出てくる。こちらも多絵子さんに負けず劣らず気が強そうだ。
「何故、父から後継者の地位を奪ったこの男がいるのですか?」
男の子のほうが精神的な成長が遅いと聞くがこの屋敷の中で庇われて生きてきた所為なのか。とんでもないことを刑事さんの前に口走ってしまう。思わず僕は自分の顔を覆った。
「何っ。勇気くんのお父上は亡くなったんじゃなかったのか? 今の言い方だと雄大氏が君の父親にしか聞こえないぞ。」
勇気くんは周囲に助けを求める顔を向けるがもう遅い。
「勇気。貴方って本当にバカね。父や母や貴方のお母さんが必死になって隠してきたことをさらけ出してしまうなんて。全くなんてバカなのかしら。・・・そうよ。美名子さんと父の子供が勇気なのよ。」
「那須さん。君はそれを必死になって隠そうとしていたのか。通りで1時間も前に屋敷にやってきて話し合いを始めるはずだ。」
木を隠すには森に隠せとは良く言ったものだ。あまりにも重大な大きな森のような隠し事のため、本当に隠したい勇大さんがインストラクターたちに手を出していたという枝葉は埋没してしまった。
まあ刑事さんが本当に隠したいことを知ったとしても重要視しないかもしれないが時間稼ぎにはなるだろう。
「それに勇気。この人はこんなちっぽけなダンススクールなんか興味も無いはずよ。このダンススクールの年間収入を遥かに凌ぐだけの年棒を数年後には稼ぐはずだわ。凄いのよ。チーム一の本塁打王なのにスキャンダルで居なくなった選手の代わりに投手として活躍してらっしゃるのよ。」
これは本当だ。原清の抜けた穴は重大な支障をきたし、そのツケが僕に回ってきたのである。まずは我が軍の先発陣のそれぞれ得意とする球種を2つずつ、投球フォームを真似ることで3人6球種を投げ分けられるようになった。
クルクルと変わる投球フォームに相手の打撃陣をきりきり舞いさせているがいつまで続くかは分からない。なにせ1つの投球フォームから出る球種は2つ、どちらかに的を絞るようになれば打たれる可能性が高いのである。
今は他球団の投手の投球フォームを盗むことに専念している。パシフィックリーグで何十人も居る投手の球種を全て投げ分けられるようになるといいのだけれど。