第3話 ジャズダンスの部 その2
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試合の無い日は完全に休養にあてるべきなので球団社長に頼み込みナイターの前のウォーミングアップの時間帯に入れて貰った。プロ野球選手のウォーミングアップの時間は人それぞれだ。6時間も前から入りランニングを始める人もいれば、30分前に入ってミーティングを聞きながらストレッチを行う人もいる。
僕はどちらかと言えばスタンダードなほうで3時間前に入りストレッチを30分以上行ってから1時間しっかりと身体を温める。あとにミーティングまでの時間は野球のことを考えずに小説でも読みながら過ごすのが日課になっている。
このストレッチからの1時間30分を次期家元の指導の時間帯とした。
いつものように初めの30分はストレッチの時間だ。前後左右に鏡が配置された部屋で軽快な洋楽に合わせて講師と行うのだが目のやり場に困る。美名子先生のようにTシャツ姿で現れると思っていたのだが、雪絵さんも多絵子さんも過去の発表会で着た衣装を着てきたのだ。
身体の線が出ているセクシーなレオタードやまるで洋楽のギターリストのように胸元がギリギリまではだけた衣装など今回の発表会の衣装の方向性を決めるために着てきているんだそうだ。
そんな女性が球場内を歩いていて目立たないわけがなかった。見学者がひとりふたりと増え、どうせならストレッチも一緒にしようということになり、出場選手登録25人中10人が集まる大所帯になっていった。
先輩たちに聞いてみるとストレッチは各人が思い思いにやっていることが多かったようで彼女たちのように普段からフィットネススタジオや文化センターで教えているやり方を知らなかったという人も多かった。
「ジャズダンスだぁ。ナス、幼稚園児のお遊戯じゃねえか。そんなもの良く踊って恥ずかしくないよな。」
例によって、ハラッキヨこと原清が因縁を付けにくる。
近くにはチアガールたちも居る。もちろん次期家元は彼女たちの先生でもあるし、彼女たちの踊りもジャズダンス中心なので冷たい視線を送っている。コレだからコイツは水商売の女性たちにしかモテないんだよな。
ハッキリ言って相手をするだけ無駄なので無視をすることにしている。反応が無ければさらに因縁を付けることも出来ないのだ。
「じゃあ。わざわざ見に来ること無いじゃない。さっさとあっちへ行ってよ。」
でもココには言い返す女性がいた。多絵子さんである。
「なんだと、ここは俺たちの為にある場所だぞ。」
ほら火に油にを注いじゃった。もうぼうぼうだ。
「大変申し訳ありません。荻ダンススクールはこの場所を球団社長より正式にお借りしており、ストレッチに参加される選手の方、お一人ごとの指導料を頂戴しております。従って邪魔されますと営業に支障をきたしますので、球団社長に報告し改善をお願いすることになりますがよろしいでしょうか?」
初めは僕に対する個人レッスンだったのだが希望する参加者を増やすにあたってこの辺りの取り決めが必要だと思った僕は球団社長に直談判したのだ。
まあ僕が払う個人レッスン代で他の選手がタダでレッスンを受けるのが嫌だったのだけど。上手くこの場を乗り切れたみたいだ。
雪絵さんに言い負かされたハラッキヨはフンと鼻を鳴らすと出て行ってしまった。どっちが幼稚園児なんだか。
☆
その日の試合が終わり、ロッカールームに戻った僕に伝言が残っていた。雪絵さんが今後の進め方について話し合いたいということだった。わざわざ、こちらで宿を取ったらしく近くにある遊園地のオフィシャルホテルの名前と部屋番号が記載されていた。
次期家元といえど、そこは女性であるかぎりファンシーなものが好きなのかもしれない。
外は大雨でロッカールームからレインコートを持って出た。ホテルに到着するとドアマンがびしょ濡れになったコートを預かってくれるというので渡し、指定された部屋番号のドアのチャイムを押す。
部屋の中も随分とファンシーな装いで気分がほぐれてくる。
「呆れたでしょう。こんなオバさんがなんていうところに泊まっているんだって。でも昔から、この遊園地が大好きで良くあの人と出掛けたものよ。」
「いいえ。みんな大好きですもんね。でも勇大さんはちょっと似合わないですけど。」
「ああ違うのよ。昔の彼氏なの。荻真也さん、家元の弟さんで今回のダンスを振り付けした人だったの。」
ヒモが結ばれていないガウン姿の彼女が近付いてくると胸がはだけそうでドキッとする。きっと中にTシャツを着ているのだろう。
「どことなく似ているわ。顔も似ているけど、貴方が持つ雰囲気が非常に似ていたの。だから貴方の踊りを見たときに真也さんが舞い戻ってきたのかと錯覚しちゃった。」
彼女の手が僕の顔の形を確かめるように動く。なんだかゾクゾクする。
「あの真也さんという方はもう・・・?」
何となく彼女の言い方が全て過去形になっていたので気になって聞いてみる。それにそんな男性がいれば、尚子先生に紹介されないはずもない。
「そうよ。もう15年くらい前に死んじゃった。」
多絵子さんが16歳で雪緒くんが19歳だから・・・。
「まさか?」
「そうよ。特に雪緒なんかよく似てきて誤魔化せなくなっちゃったわ。多絵子も貴方に父親の面影を探しているのかもね。」
誤魔化す・・・ってことは内緒だったということで・・・それはつまり・・・。
「そうよ。旦那と真也さんに二股だったというわけ。酷い裏切り行為よね。わかっているわ。だからあの人は美名子のところに行ってしまった。だからね。私を抱いて。抱いてほしいのよ。」
そこで美名子さんが僕をあの屋敷に連れ込んだ理由がわかった。真也さんに似ている僕に雪絵さんの心が傾けばその分勇大さんの心が美名子さんに傾くと思ったんだな。
彼女の身体からスルリとガウンが落ちていく。下には何もつけていない姿だ。
思わず喉が鳴ってしまうくらい魅力的な提案だった。
据え膳食わぬは男の恥という言葉がチラついたが理性を総動員して欲望を押し殺す。そしてゆっくりと深呼吸をすると違和感があることに気付いた。
上気して顔を赤くしているにも関わらずフェロモン臭がしていないのだ。彼女は僕に欲望を抱いていない。
つまり真也という男性の代替えでしかないのだ。スッと頭が冷えていく。本当に抱いていいのか良く考えろ。
考えれば考えるほどリスクがありすぎる。彼女は人妻で僕は未成年だ。万が一、このことが公になってしまえば僕は最低でも1ヶ月の謹慎処分を食らうだろう。彼女からすれば逮捕は無いにしても法律に触れる。離婚もあるだろうし、娘の信頼も失う。失うものが多すぎるのに得るものは心の慰めに過ぎない。
「僕に何の価値があるのですか?」
自分が知らない間になんらかの付加価値がついているとしか思えない。彼女が価値を認めるようなものを与えられるのはひとりしか知らない。
「荻尚子先生ですか、家元は何と仰っているんですか?」
「・・・後継者にしたいと。荻ダンススクール全てを貴方に渡すと。」
「ちょっと待って下さい。ダンスのことも業界のことも何も知らないし、発表会という舞台に立ったこともない人間が後継者ですか? ちょっとどこじゃないバリバリ違和感がありますよ。」
「家元は貴方が球界を引退したあと手伝うという了承を貰ったと言っていたし、バックダンサーとして既にいくつかの大舞台にも立っていると聞いているわ。」
確かに山田ホールディングスのグループ会社の芸能事務所に所属されている歌手の振り付けに関わり、急に来れなくなったダンサーのピンチヒッターとして踊ったことはあるがほんの数回だ。
「『引退したあとなら演出や振り付けのお仕事を手伝ってもいいですよ』と家元にお伝えしましたがダンススクールの話は聞いていません。」
それはどちらかと言えば球団社長の手伝いだったはずなのに拡大解釈されている?
「今、私たちがインストラクターとして教室をさせて頂いているところは全て家元がテレビ業界や映画界で培ってきたコネを元にしているのです。演出や振り付けという仕事を手伝うということは貴方無しではダンススクールが成り立たないのです。」
この僕がダンススクールの命運を握っている。そんなことがあってもいいのだろうか。
「恐らくそのときは経営にノータッチでもいいと思っていらしたのでしょうけど、貴方には踊りを3回見ただけで同じように踊れる特技まで持っている。まさに家元が掲げてらっしゃるダンス技術の研鑽と蓄積の片輪をひとりで受け持てる。そんな人材をあの家元が見逃すとは思えないんです。」
「およその事情はわかりました。ですが今は貴女を抱きません。僕はやっとプロ野球選手として初めの一歩を歩み始めたに過ぎません。僕にもパートナーが必要となる時期が来るでしょう。そのときにはこちらからお願いに上がります。それまで待っていて頂けませんか。」
言外にそれまでに独り身になってくださいとお願いしたつもりだったけど伝わったのだろうか。そのときにそうなっていなかったら縁が無かったと思えばいいよな。それに球界は大半が姉さん女房だ。珍しくもない。