第1話 オープニング
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その谷田という男は昔タップダンサーとして活躍した時期もあったそうだが足の故障により、ダンサーの道を断念し、荻尚子の個人マネージャー兼経理担当として設立よりも前から荻ダンススクールの裏方として仕事してきたそうだ。
「ようこそお越しくださいました。ここでは番頭を仰せつかっております谷田と申します。」
なるほど、この重厚感たっぷりのお屋敷に畳がひかれた日本情緒たっぷりの障子や襖で仕切られた建物の中では番頭さんという言い方がぴったりだ。
「凄いですね。とてもダンススクールを主宰されている方のお住まいとは思えません。」
「そうでしょう。そうでしょう。以前は人間国宝の三味線の家元のお住まいだったそうです。それが後継者に恵まれず、かろうじてバブル期まではお弟子さんたちが支えたそうでございますが、バブル崩壊と同時に売りに出されたものをうちの家元が買った次第です。」
我が意を得たとばかりに熱の入った説明をしてくれる。
「家元ですか?」
「ああ。おふざけなんですが、この屋敷に居る間は荻尚子先生のことを家元、荻雪絵常務のことを次期家元と呼んでいるのですよ。社員やインストラクターの方々も荻姓で通しております。ここには外国のお客さまも沢山お見えになられるので、この屋敷と共に自然とそう呼ばれるようになった次第です。」
なるほど、外人って将軍とか家元とか現代には存在しない純日本的なものが大好きだものな。
「番頭さんのその喋り方やお着物も同じような理由なんですね。」
「そうでございます。全員が全員そうでは御座いませんが外国のお客さまがみえるときは家元も次期家元も着物の装いで出られます。私はもう家元からご指導を頂ける状態では御座いませんのである意味、私が一番面白がっているわけです。」
面白い番頭さんだ。
☆
20畳はありそうな部屋に通される。床の間には花が活けてあり、水墨画の掛け軸が掛かっている。畳敷きでは無く板の間だったが、そこに大きな絨毯が敷かれ漆黒の革張りのソファーが置かれていた。
「貴方は・・・。」
初めてみた次期家元の荻雪絵さんは目を見開いて僕のことをジッと見ていたがスッと普通の表情に戻った。
一瞬だけアドレナリン臭がしたから気のせいでは無いと思う。訳がわからない。
「那須新太郎と申します。この度、ご縁があり荻ダンススクールの門を叩かせて頂きました。よろしくお願いします。」
なんとなく、その場の雰囲気にのまれてバカ丁寧な挨拶をしてしまった。
「シンさん。此方が次期家元の荻雪絵さん、その隣にいらっしゃるのが旦那さんでタップダンサー兼演出家の石井勇大さん。そしてその隣の大きな女性が荻一実さんでさらに隣に居る小さな女性が荻由香里さん。私を含めた女性4人が荻ダンススクールの社員よ。」
なんだぁ。いきなりのシンさん呼びに驚く。しかも少し親しげに腕を組んでくる始末。今まで那須くんと呼ばれていたからびっくりした。
「シンさんって凄いのよ。Ziphoneフォルクスの新人選手なんだけど、2分あまりとはいえ家元の振り付けを私が3回踊って見せただけで完璧に再現して見せたのよ。私だって家元に教えて頂いた振り付けを1日がかりで必死に覚えてやっとなのに自信無くしちゃうわ。」
いつもはヒップホップのインストラクターとして男前な美名子さんが女性らしい喋り方に代わっている。
「お前のは遅すぎるんだよ。有名歌手のバックダンサーたちも1曲3分くらいの振りだけは3回くらいで覚えるぞ。でも凄いな。プロ野球選手なんだろ。今まで野球ばかりに打ち込んできた人間がなあ。」
次期家元の旦那さんと紹介された勇大さんが随分親しげに美名子さんに突っ込んでいる。まるでこっちの方が夫婦ような感じだ。
「信じられない? なら稽古場でやってもらおうよ。シンさんならヒップホップどころかジャズダンスも完璧にこなすわ。だから雪絵さん、好きな曲を3回お手本を見せてあげてくれるかなぁ。」
「そうね。入門ですもの。まずは実力を見せて頂きますね。」
場所を稽古場に移す。ここは能舞台が稽古場になっていた。三味線の家元の屋敷だったときはここで能や狂言と合わせるのに使われていたのだということだった。
「へえ。この人がプロ野球選手の入門者なの。凄い筋肉ね。」
稽古場では丁度、子供たちが荻ダンススクール20周年記念発表会の練習中だった。
子供と言っても最年長の男の子は僕と同い年19歳だった。その他に16歳の女の子と17歳の男の子の合計3人。『鑑定』スキルで確認すると19歳の男の子と16歳の女の子が次期家元の子供で17歳の男の子が美名子さんに子供らしかった。
しかも名前が雪緒くん多絵子さん兄妹に勇気くんと言うらしい。まさか全て勇大さんの子供なのか。
それならば本妻と愛人が同じ家に住むという時代錯誤極まりない家庭になってしまうではないか。まさかそんなことがあっていいのだろうか。いや何かの間違いだ。あの美名子さんがそれで満足するとはとても思えない。
僕はダンスに関わるようになるまでジャズダンスというのはジャズミュージックに合わせて踊るのだと思っていたが違った。ヒップホップと同様に洋楽に合わせて団体で踊るものを指すらしい。
有名なところではサラ金会社のコマーシャルで数人の女性たちが少しセクシーなレオタードに身を包み、ぴったりと息をあわせた踊りをみせるものがあるくらいだ。
事前に幾つかのジャズダンスの動画をみていたのだが基本形は同じだがそのどれとも違う振り付けが流れるような踊りが目の前に展開されている。
「すみませんがもう一度だけ正面から見させて頂いてもよろしいでしょうか。」
一回目が素晴らしすぎて視覚と聴覚に集中するのを忘れてしまったのである。
「雪絵さんの踊りに見惚れてたのね。狡いわ。私が踊ってみせた5曲は1度も追加でお願いされなかったのに。」
「まあそう言うなって。ジャズとヒップホップじゃあ、ジャズのほうが完璧にこなそうと思えば思うほど難易度が上がっていくんだから。しかし、もう5曲も教えたのかよ。」
またしても勇大さんの合いの手が入る。
「だってぇ。あまりにも完璧で悔しかったんだもの。でも15周年の私のソロ曲まで完璧に踊られた日には両手を上げて観念するしかなかったわ。」
「えっ。あの超技巧的で散々飛び跳ねるヤツを踊ってみせたのか。」
あの中にはそんな曲まで入っていたのか。ちょっとやりすぎたかな。もう遅いけど。




