焼き焦がす
波の白がこちらに繰り返し忍び寄るようすを飽かず見ていた。
空はうす青く、全体に紗のかかったように雲が覆っていた。風はなかった。波の背はごく低い。
大勢の人間が泳ぐせいで特段海は澄んでいなかった。
空気中に潮と人々の甲高い話し声と絶え間ない波音が混ざり、時折かもめの鳴き声もそこに加わった。スピーカーから流れ出す注意喚起の言葉も。
尚史は麦藁帽を被った頭を少しだけ仰向けた。
サングラスの奥の目を細め、いっしょに浜辺にやって来た、海水浴を真剣に楽しむ連れを見つめた。
もう何時間もああして一心不乱に泳いでいた。延べにして何キロも。
運動が好きだとは知っていたが、実際それに集中しているさまを目にするたび、ただただ驚くばかりだった。
中学生の時分、体育教師が運動能力は全部遺伝子によってあらかじめ決まっていると話していたことを思い出す。要するに出る結果に差が出るのは当然だが、それでもそれぞれ自分なりに頑張ることが大切だと若い教師は続けた。なんだか不思議な感触の話だなと頬にいくつかニキビの浮いた幼い尚史は思ったが、今では彼がかなり優秀な教師だったことがよく分かる。その通りだ。あいつはどんなに泳いでもへいちゃらなのに、俺はわずかにばしゃばしゃとしただけでへばってしまう。が、それはDNAの差だ。尚史は尚史なりに海を楽しんでいた。泳ぐのだって好きなのだが、いかんせん体力が続かない。電池切れになるすれすれまで海に浸かり、今はこうしてシートの上で膝を抱え、視界いっぱいに広がる多様な青と、そこに混じる白の観賞に耽った。海坊主のように時々頭をひょっこり出す真文以外の人間は除いたすべてを、つまりは夏の海を、尚史は全身に浴びていた。
しばらくしてようやく真文が尚史に向かって体から水を滴らせながら歩いてきた。
額に黒いゴーグルを上げ、相当色の付いた肩や胸からだらだらと海の残りを落とし、顔をしかめて尚史を見下ろした。
「あちい」
12時を回り、太陽はみずからをもっとも燃やし、ここにあるもの皆焦がしていた。
「腹減ったな」
尚史が手渡したタオルを受け取り、体のあちこちを拭きながら真文は呟いた。
真っ黒いサングラスをかけた尚史は肌の水分を減らしていく真文を見上げ、遮光の弱さから眩しさに眉間を寄せ口元を歪めて言った。
「なんか食うか?」
「うん、海の家行こうぜ」
おう、と答えて腰を上げ、貴重品だけ持ち、ふたりは連れ立って掘っ立て小屋のような夏にだけ開く店に歩いて向かった。
てりてりとソースの色に輝く焼きそばをどちらもが食べた。
青海苔がふんだんに掛かっており、尚史も真文も顔を見合わせて声に出さず賞賛した。歯につくかもしれなかったが、 四十を過ぎたおっさんふたり、そんなことよりも味の満足の方がずっと大切であった。
「お前サングラスのかたちに日焼けし始めてる」
「まじか」
「うん」
もぐもぐ咀嚼する間に顔を晒した尚史を上目で見つつ真文は言い、軽く笑った。
「間抜けだな」
「帽子被ってんだけどな」
「もっと日焼け止め塗っとけよ」
「そうだなあ」
会社のやつらに笑われんな、それだと。
水と焼きそばを口に交互に運びながら、心底おかしそうに真文は破顔した。
「別にいいけどさあ」
尚史は筋肉質な真文に比べて締まりのない体をしていた。
特に太っているというほどではないが、二の腕や腹回りは年々たるみ、とにかく柔らかそうであったし、実際どこまでも柔らかかった。この夏ほのかに焼けてはいたが、こんがりと火の通ったような真文と比較すると、軽く刷毛で色を塗った程度であった。どこから見ても中年の体を尚史はしていた。ただ肌だけは、それこそ中学時代できたような吹き出物とはここ何十年も無縁であった。しみそばかすも、皺も目立たず、母の肌質を受け継いでいるらしいことを年を経るごとに実感した。母は今だひどく若く人の目に映った。それはたくさんの艶やかな髪と光る肌のおかげであった。尚史も髪と肌に関しては成人してから周囲が気に病むような問題に頭を悩ませたことはなかった。その点真文は特に髪は、口にこそしないが気にしているのを尚史はなんとなく知っていた。しかし薄くなっているとはいえ、不快感を他人に与えるものでは決してなかった。魅力を彼から削ぐようなものでも。
少し長めに伸ばし、撫でつけた髪の毛はたとえ量が減っても性的魅力を放っていた。高校生がそのまま大人になっただけのような自分とは大違いだと尚史は心中羨ましかった。羨ましいだけにとどまらなかった。そうだったらどんなによいか。
「食ったらまた泳ぐわ」
発泡スチロールでできた皿の中はほとんど空だった。紅生薑がうねうねと白の中に浮き上がって見えた。
「お前ももう少し泳げ」
ぐびぐびとビールを干すように真文は水を飲んだ。上下する黒い喉仏を尚史は口を開けて見た。
「そうする」
視線を外し残った焼きそばを口に運んだ。
気温の上昇はとどまるところを知らない。
同僚として働き出して十年以上経つ。
部署や役職は変わったが、付き合いは変わらず、それどころか年月を重ねるごとに深さは増した。
週に一度は必ず飲んだし、こうして遊びにも共に出る。独り者同士。
それぞれに彼女がいることもある。だがお互い、交流の頻度や内容は女たちに変えさせなかった。
尚史は何をどうすればよいのか途方に暮れていた。知り合ってから今まで、ずっと。
海に入り、仰向けに浮かんで、サングラス越しにこちらに手を伸ばしてくるような太陽を見た。
自分の豊かな髪が海藻のように波に揺られているのを感じる。
子供っぽさの漂う唇を半開きにして、体じゅうが海の生き物になったと思い込み、瞳を隠した。
閉じたまぶたの裏に、体を濡らした真文がいる。
海水パンツは体に沿ったタイプのもので、かたちがそれとなく伺える。
するするとひっきりなしに水分が体を伝い、肌や毛を潤している。
駄目だ。
うす目を開けて尚史は思う。
脳は人間のままである。欲に駆られてどうしようもない。
ごぶりと潜ると、あてもなく熱を持った下半身を海で冷やした。
酒は一滴も口にしていなかった。
だが酔ったように熱の回った頭で、ふたりは海岸沿いを駅まで歩いた。
からん、からんと、真文の履いた下駄の音がゆったりとリズムを刻んだ。
昼下がりから夕刻までのねっとりとした雰囲気があたりにあった。
「ビール飲みながら夕焼け見るか?」
下駄の音の合間を縫って尚史は尋ねた。
「そうだなあ」
鼻緒に挟まった足の甲も、くるくると裾をまくった麻のパンツから伸びたくるぶしも、きれいに焼けているのを尚史は目に映す。
思案している気配はあったが、結論を出さぬまま真文は歩いていた。
「あ」
首を横に向け海を眺めていた尚史は、声と共に特徴的な足音の止まったことに気付き、出しかけた足を止めた。
振り向くと俯いた真文がみずからの片足を見ている。
「…鼻緒、切れた」
サングラスを上げ、相手の左足の親指と人差し指の間を注視すると、確かに根元から板を抜け出ていた。
「あれま」
「縁起悪りぃー」
首の後ろに手をやる真文の顔は心底いやそうであった。
「迷信だ迷信」
しゃがみ込み、相手の指の間をここぞとばかりにじっと見た。
硬そうな毛がすべての指に満遍なく生えている。人差し指が親指より長い。指の隙間は砂だらけだ。
「どうすっかな、これ」
「俺のビーサン履けよ」
体勢はそのままに、尚史は自分の荷物の中から海岸で履いていた白いビーチサンダルをがさがさと取り出した。
「ほら」
「サンキュー。まじ助かった」
真文は尚史の肩に手を置き、下駄を脱いだ。掌から伝わる温度と体重が、すでに太陽によってさんざん熱をこもらせた尚史の皮膚をまた、焼いた。
差し出したビーチサンダルに履き替えさせる瞬間、わざと尚史は手の親指で真文の足の親指をそろりと触れた。毛と爪の硬度を親指は知る。
「なあ」
まだ腰を上げず、尚史はビーサンを履いた男の大きな足を見つめながら言った。
「ん?」
「やっぱり帰ろう」
顔を上げ、まっすぐ真文を仰ぎ尚史は提案する。
「うち、来いよ。飲もう」
真文は若干の動揺を目の中に覗かせた。それが何によるものなのかまだ尚史には分からない。だが、きっと。
「いいだろ」
決定事項のように尚史は告げた。
「……うん」
ぐっと足を伸ばすと、尚史は踵を返した。
「じゃ、ビールとつまみ買って帰ろうぜ」
もう、下駄の音はしない。
今日聴き続けた波の音と、客の嬌声があるばかり、そしてやはり、たまにかもめが鳴いていた。
おわり