「壊れた歯車」04
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「それじゃあ僕はここで」
「おう。また明日なー」
本屋に寄るために昴と別れる。いつも通りの帰り道……のはずだ。だが、それにしたって人が居ない。普段であれば少ないながらも人の通りはあった。それが今やゼロ。見渡しても、店の中を覗いても。
「……」
響くのは自分の足音だけ。おかしい、何かが違う。本能的な部分が警鐘を鳴らしている、逃げろと。だが、足は何かに引き寄せられるかのように前へ前へと進んで行く。唐突だった。護を襲うのは突如耳を裂いた轟音と、地震のような大きな揺れ。空気に乗って伝わる熱と、鉄にも似た臭い。護は意味も分からず崩れ落ち、四つん這いでどうにか激しい揺れに耐える。
(一体、何が……?)
揺れが収まり、何とか立ち上がる事が出来た。恐怖よりも自身を襲った――襲っている謎の現象への謎が深まっていく。どうして、何故、何がと。
「……ケ……タッ」
突然、日の光が消えた。否、“何か”によって遮られたというのが正解だ。遮られた、つまりは上空に……何かが在る。雲ではない、別の何かだと直感的に感じた。雲であるのならこの妙な生温さを体が覚えるはずがないだろう。護が気付いてゆっくりと見上げた空には、異形が歪な翼をはためかせ、赤く光る三つ目を滾らせているではないか。
「な、に……?」
蛇に睨まれた蛙のように足が竦んで動かない。まるで足を杭で固定されてしまったかのようだ。不思議だった。未だに怖いとは思えない。恐らく頭が付いて来ていないのだろう。でなければこのような奇怪な現象、生物――生きているのかは分からないが――を見て冷静に観察などしていられないだろう。
異形はそんな護を嘲笑うかの如く口を曲げる。感情を持っているのか。開かれた赤黒い口内にはびっしりと生えた不揃いな牙。垂れ落ちる粘性を持った唾液と血のような何か。
「エサ、ミツ・ケ、タァァ――!」
不安定な日本語。大口を開き、叫ぶ異形。飛び散る体液。聞き間違いでなければこの異形は護の事をエサ、餌と言った。
ここで漸く危険を感じた護だったが、逃げようにも体が言う事を聞かず、尻餅をつく。異形は今にも襲い掛かって来るだろう。
直感した。死ぬのだと。死を。何も知らずにあの牙で貪られるのだと。あろうことか、両親の命日に。
異形が高度を下げ始めた。バサバサと肌を逆撫でするような不快な音を立てながら。
「ひっ……」
少しだが、後退出来た。しかし、異形との距離は離れる事はなく、段々と迫っている。
異形がゆっくりと緩慢な動作で腕を伸ばす。獣のように太い腕だ。血管らしき物が浮き出ているし、傷跡のような物も見て取れる。何をどう間違えても人間ではないだろう。
「ツカ、マエタ……ゾ!」
気味の悪い巨大な両手で強く握られ、痛いはずのに悲鳴も上げられない。あり得ない圧力を受け、全身の骨が軋む。もしかしたら既に何本かは折れているのかもしれない。呼吸もままならなくなり、酸素が足りなくなる。意識が朦朧とし視界が霞む。恐らく今見えた光は異形の牙だろう。
「ぁ……」
自分の声だったのだろうか。それすらもわからない程に危機的状況だ。
「グ……ガアァアッ――!!」
突如として聞こえた、耳を劈く不気味な悲鳴。低くもあり、高くもあり、変調に失敗したかのような不協和音。それは自分の声ではなく、異形の。その後に聞こえたのは何かが潰れるような音。鼻を突く強烈な鉄の臭い。
すると、どうやら異形の手から解放されたらしく、体に叩きつけられたような衝撃が。解放された事で一気に大量の空気が肺に流れ込み、激しく咳き込む護。
「さようなら。この世界を蝕む怪獣さん」
歌うように紡がれたどこか優しさを含んだ言葉を耳にした直後、護の意識は暗闇の中に墜ちていくのだった。