暗き幌馬車の中で
頑張ろう。
「…お前邪魔なんだよ。向こうに行けよ。」
怒気を含んだ声が響きわたる。
それはとある一人の少年が発したものだった。
彼の薄茶髪の髪と同じ色の瞳は、ヒタと隣人を鋭く射抜いている。
年の頃は十二程であろうか。
容貌は優しげであるのに、それを裏切るかのように顰められているその眉は
彼の気持ちを雄弁に物語っていた。
だが、瞬時に彼は赤面した。そしておずおずと隣人を伺う。
自分の苛立ちを隣人にぶつけてしまったことに気づいたのだ。
彼らがいる空間は薄暗く、狭く、体を伸ばそうにも上手く伸ばせない。
…身動きしようにも手足の枷がそれを阻む。
加えて人々が密集しているために熱気立ち上り、
汗や埃、排泄物が混じったような臭いがこもっている。
要するに言語を絶する劣悪な環境だったのである。
少年のストレスが極限に達してしまうのも無理はなかった。
人々の心は荒みきっている。
このようなことは珍しいことではない。
この空間の中では。
ガタッ、ガタッと床が振動した。
「…言い過ぎたよ。すまない。」
「…いや、気にしないでくれ。」
少年の謝罪にやんわり答えた黒髪の少年は、俯いていた顔を上げた。
この少年も年恰好はそれほど茶髪の少年と変わりない。
彼はその切れ長の美しい双眸を、茶髪の少年に向けた。
思わず薄茶髪の少年は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
彼は目を見開いて、まじまじと黒髪の少年を見つめた。
黒髪の少年の容貌に驚いたのだ。
細い月のように切れ長の眉や目、繊細な鼻筋や唇。
異国的な美しい顔立ち。
香気がそこだけ、立ち上っているかのようにクラクラする。
「随分遠くから来たようだな。」
彼はこのような風貌の者を見たことがなかった。
一度見れば忘れられない顔だ、と少年は思う。
「…ああ…。」
黒髪の少年は短く首肯した。
「どこから来た?」
「…ロプサーナから…。」
「俺は自分が生まれたところすら知らないから
人のことは言えないが、随分遠いんだな。」
薄茶髪の少年はこのエキゾチックな少年に俄然興味を持った。
「…お前、名前はなんて言うんだ?」
「……ナフィーサ。」
黒髪の少年…ナフィーサはそうとだけ言うと薄茶髪の少年から視線を外し、再び俯いた。
「ナフィーサか。俺はジンだ。自分でつけた名だ。」
「…そうか。」
「…俺達どこに売りとばされるんだろうなぁ。」
「…知らない。」
「お前…適当なことでもいいから返して来いよ。
会話は言葉のキャッチボールというじゃないか…。」
ナフィーサの気のなさすぎる返事に茶髪の少年…ジンは頭を振り振り、肩をすくめた。
ナフィーサは顔を上げると
眉を心持下げ、不思議そうな表情をする。
「あ、ああ…すまない。
…しかし何故貴方は私と会話をしようとしている?」
「…そ、それは…なんとなく。
というより、なんなんだよ。同い年位のくせして妙に他人行儀な奴だな。」
「…だって…貴方と私は他人ではないか…?」
戸惑い顔のナフィーサにジンは顔を面白いように歪め、
「…まあ、そうなんだけど…な。」
と呟いた。
話が続かない奴だ…、とジンは眉間を押さえる。
ジンはこの少年と話してみたいが、彼の興味はどこにあるのかが、分からなかった。
故に基本事項を聞いてみようと考えた。故郷のことだ。
「…な、なあ…ロプサーナってどんなところなんだ?」
ナフィーサはしばらく、何も話さなかった。
逡巡の後に口を開いた。
「…美しいところだ。」
「…まぁ、誰にだって故郷は美しいもんだよな。
他には?そこにはどんな奴らがいるんだ。お前の家族は?」
「ロプサーナはバティル氏族が治めている…。
美しい緑生い茂るオアシスは砂漠の中のエメラルドと呼ばれ、
そのオアシス都市ヤスミーンには白玉の城がある。
私に家族は…いない。」
「…家族いないのか…。俺と一緒だな。」
ようやく口を開いたな、とジンはほくそ笑んだ。
後は簡単だ。相手に話させればいい。
「ああ、そうだ…お前の故郷は城が宝石で出来ているのか?」
ナフィーサは何を言われているのか分からないという顔をした。
虚をつかれたのだ。
そしてすぐにフフッ、と笑いを漏らした。
彼の勘違いに気づいて。
「…なんだよ。」
「い、いや…物は例えようではないか…。
白い珠で出来ているような城だとよく言われるのだが、白レンガで出来ている城さ。」
「…なんだ。本当に白玉じゃないのか…。
いやいや…実はレンガの中に宝石が練り込まれているのかも…。」
もしそうならば、少しだけ、バレない程度に削って売りたいものだとジンは思う。
「…本当に城が玉で出来ているのなら盗まれて何も残らないだろうな。」
ジンは思わずナフィーサを凝視する。
「…。」
「あ、もしかして貴方は玉を盗みたいと思ったのかな…?」
こいつは俺の心が読めるのか。
絶句するジンを見て、上品に微笑むナフィーサは
同年代の同性とは思えない程、優雅で艶美だった。
「お前…一体何者なんだよ…。」
しばしの沈黙の後、ナフィーサは応えた。
「……私は貴方と共に売られかけている奴隷だが…。」
お前みたいな奴隷臭くない奴隷は初めて見たよ、とジンは呟く。
「…そうか?」
「お前ならきっと高値で売れる。安心しろよ。なんとなく、高貴な感じがするから。」
そうだ、こいつはきっと高値で売れる。
…俺はどうなるんだろうな。
餓えとそれに伴う盗み。
死線を乗り越えてきた少年は奴隷狩りにあっても平然としている精神力があった。
その強靭さがこれからの不安を忘れさせていた。
衣食住が保障されているから、今までよりはマシであろうと呑気に構えていたのだった。
しかし、少年とて奴隷になるのは初めての経験だ。
「…高値…ね。」
ナフィーサは繊細な眉や口を一瞬だけ歪めた。
歪められた顔に、苦悶の色が見えた。
「…ナフィーサ?」
「…いや、これから奴隷になる自覚がなかったのだ。」
「そうか…そうだよな。俺はこの幌馬車に乗せられた時点でなんとなくイメージ出来たんだけどな。」
互いに沈黙してしまう二人。
気まずい空気が数拍流れる。
ジンはナフィーサの肩をトントン、と叩こうとして自分の手首の枷に気づいた。
…そうだった。
ジンは滅入っていく自分を叱咤する。
わざと明るい調子で隣人に語りかける。
「うん。まあさ、俺には故郷なんてものはない。
だから俺、自由になったらお前の故郷に行ってみたいよ。
白玉の城が本当に宝石じゃないのか、見てやらんと。」
ナフィーサはクスリと笑った。
「…まぁ…私の故郷は素晴らしい。
けど、白玉の城に期待するなよ。
美しい外面に反して、あそこは…悪鬼の巣なのだから。」
苦苦しいその言葉がナフィーサの事情に絡んでいるものらしい。
「…逃げてきたのか。」
「あ…分ったんだ?うん、実は私はね…とても高貴な人間だったのだ。」
「本当か?そいつは羨ましいな。」
「嘘だよ。真に受けるなよ。」
ナフィーサはケラケラ笑った。
「こんなボロを纏った人間がそんな筈あるわけないだろ。」
「…ああ、そうだな…。」
困らせるのが上手い奴のようだ、とジンは思う。
もし、自由になったら何がしたいか…、
もし、自由になったら何処に行こうか…、
もし、自由になったら誰に会いたいか…。
それから、彼らはそんな他愛のない話を始めた。
必要なのは、今後への希望だ。
かつて、ジンは一箇所に定住せず、季節ごとに過ごしやすい街を遍歴して暮らしていた。
今、彼は自身の経歴を滔滔とナフィーサに語っている。
その様子は兄貴が弟に自慢話をしているようだ。
こころなしか、ジンはふんぞり返っている。
「……まぁ、それでだ、どういう経緯か孤児の俺は食べ物を盗んで生きていくしかないわけで、袋叩きに遭うこともあった。
…だが世の中には親切な奴もいる。ルカリスという所にはわざと盗みやすい位置に食べ物を置いてくれる姉さんがいた。」
「随分慈悲深いお姉さんだな。聖女のようだ。」
ナフィーサが感心したように言った。ニヤリとジンは笑った。
「…大分毛深い聖女だった。そして持ってくるものはバナナ限定だ。」
ジンの聖女は人間ではないのかもしれない。
「分かった。それって…もしかしてサルじゃない?」
ナフィーサはしたり顔だ。
「…に似たオカマ姉さんさ。彼女は無類のバナナ好きなのさ。」
ジンは何かを思い出したようだ。その顔は柔らかく微笑んでいる。
「紛らわしいな…ちぇっ。」
「まぁ、彼女はバナナを良く売っていたからな。彼女の実家がバナナ農園だからだ。
彼女は慈悲深いが、キレると手が付けられなかったな。周囲を吹き飛ばす勢いでヒステリーを起こしていたのでつけられたあだ名が『箒』だ。
…俺も一回ボコボコにされたわ。」
のんびりと宣うジンの横でナフィーサの顔は青ざめた。
「人間ってのは…いい部分があれば、悪い部分もあるってことさ。」
ジンは自分語りを続行する。
「…他にはゴリラのような親父が厳つい顔して近づいて来たから警戒したら、
照れながら服をくれたってことがあった。俺は思わずギャップ萌えしてしまった。
他にはチンパンジーのように五月蠅いガキが俺に話しかけてきたり…。」
「…ギャップ萌えって何…まぁ、お前は周囲に恵まれていたようだな。」
寂しそうにナフィーサが微笑んだ。
「…私の周りには穢い人間しかいなかったのに。」
「俺の周りには猿人類しかいなかったぞ。」
ナフィーサがプッ、と噴き出した。
少女のように高い笑い声が明朗に響く。
その様子を見たジンはこの異国の少年が存外に愛らしいと感じた。
「うん…やっぱ、お前は笑っている方が親しみやすい。
元が綺麗だからな、近寄りがたいのさ。
笑っていれば四海中の美女と野郎がメロメロさ。」
「…お前もメロメロなのか。」
おどけたようにナフィーサが言った。
「…お前がそんな冗談飛ばすとは。良い傾向だな。
その調子で雇い主もメロメロにするがいい。
解放奴隷になるためにな。」
「…はあ、奴隷…。」
「そこで落ち込むなよ。何事もポジティブに、だ。
きっとお前なら乗り越えられる。」
適当なことを言っている自覚はあるが、
一応この優男を慰めてやりたいジンであった。
そのジンの言葉に応えた人物がいた。
「何がポジティブに、じゃ。
儂らは売られるということを分かっているのかな?」
向かいに座る老人がのんびり呟いた。
その年の割に黒い目が細まる。
「…浮かれているのも、今のうちだと思うのう。」
そう言ってその老人は顔をそむけ、ゆったりと体勢を変える。
目を閉じながら老人が続ける。
「なんだよ…こいつのテンション上げようとしているのに邪魔するなよ、じいさん。」
胡乱げに老人を見つめるジンである。
そんなジンの様子を意に介さず、のんびりと老人は続ける。
「…特に…そこの黒髪。おぬしには凶相が見えるな。気をつけるがよい。」
続けられた言葉に二人は顔を見合わせる。
「…貴方は占いが出来るのですか?」
ナフィーサが眉をしかめながら問う。
占い師のぅ…そう呟いた老人は苦笑した。
「…故郷ではエセ占い師と罵倒されたこともあったわ…。
だが、儂でも確信する時があるのじゃ。この者は凶運に憑かれていると。
お主がそうじゃ。じゃが…お主の隣の猿人類は…」
「…じいさん、さり気なく酷いな。それは俺の友達であって俺じゃない。」
お前も酷いんじゃないか、とナフィーサは心の中で呟いた。
「…失礼。そこなるコソ泥は結構な運の持ち主と見受ける。
まぁ、本人も能天気な奴じゃしのう。黒髪はなるべく、こやつのような強運の奴の側にいると良かろう。」
ナフィーサが胡乱げに老人を見つめる。
「…私は確かに結構不幸な目に合ってきましたよ、老人。
でもそれなら強運を持つジンは何故、奴隷馬車に入っているのです?」
「…痛いところを突くのう。それはな、儂にも、分からぬ。
だがこれだけは言える。彼の運は他者が介在せずとも、おのずと上がる。
だが…お主は誰かの助けを必要とする…多大に。」
「…随分不公平な話じゃありませんか。老人。」
ナフィーサが微妙な顔をした。
「…儂はルシェドと申す。
…お主の運命がそれだけ、凶運を呼び込みやすく、複雑なものということじゃ。
そしてお主もそのように選択するじゃろうし。」
ナフィーサがそれを聞いて黙りこんでしまった。
まるで、何かを考え込むように。
「…貴方の言うことが本当でなければいいのですが。」
彼は溜息をついた。
「確かに私は平坦な道など歩みたくもない。」
「おい。じいさん、俺らはこれからあんたの言うとおり奴隷になるのにこいつを暗くしてどうするんだ。
…なぁ、ナフィーサ。お前だってそれなりに生きていればそれなりの人生が歩める筈なのに、そんなこというなよ。平凡が一番。」
そうはいっても、それなりに生きたところで厄介事というのは生じるものだ。
ジンは適当なことをまた言ってしまったような気がした。
坊ちゃん、坊ちゃんしてボゥッとしているナフィーサ。
そんな彼が突然強い意志を滲ませた。
それはジンが持つナフィーサの像と乖離しているのだ。
慌てて、ジンはナフィーサに説く。
「…お前、無難な生き方が素晴らしいということを知らないな?
俺はそんな生活に憧れるね。金ためて解放奴隷になって、自由に暮らす。
素晴らしいことじゃないか。」
自分のそれまでの暮らしにそれほど満足していないジンだったが、
この瞬間それまでの生活が色鮮やかな物に見えた。
…『箒』のような恩人は他にもいた。
食いはぐれたジンに昼食を分けた奴隷。
通りすがりの縁だ。
その名も知らぬ奴隷は目を輝かせながら語った。
無難で平凡な人生の意義を。
そして自身が無難に生きるためのプランを矢継ぎ早に語っていた。
『無難な生き方辞典』とジンが名付けたその奴隷は
「君が羨ましい」と呟いていた。
何が羨ましいものか、とジンは反駁したのだが、今のジンになら分かる。
彼が羨ましがったのは、意志を曲げられない環境だ。
すなわち、自由だ。
今のジンの手足には枷が嵌り、
その時のジンには食う物がなかった。
失えば、その物の価値を深く感じるものなのだが、
失う前は別の物に憧れている。
「…どっちがいいのかね…。というより無難な人生ってなんだろうな。」
「…急に大人しくなっちゃって。」
ナフィーサがどうしたのか、と問う。
「…なんでもないさ。お前ね、このエセ老人の話を鵜呑みにすることないさ。
粋がって自分の人生を複雑に生きようだなんて、馬鹿げているのだから。」
「え…エセ老人…。それは、儂の占いを信じられないということかな?」
ルシェドが目を白黒させた。
「自分でエセ占い師と言っていたではないか…俺は信じないぞ。」
「そうか…儂はお主に一つの予言をしようか。折角言わないでおいてやろうと思ったのに。」
「…なんだよ。」
ジロリと睨みつけるように老人を睨みつけるジンをみて
老人…ルシェドはフォフォフォ…と白い髭を口元でモゾモゾ動かしながら笑った。
「…気になるか?気になるのならば頭を下げよ。」
茶目っ気溢れる表情でウインクする。
「…しないっての。」
「可愛げのない奴じゃ。聞きたくないかの?」
「聞きたくない。」
「…あ、そう。じゃあ、勝手に言っちゃうもんね。
お主、運はそこそこいいが…女にはモテぬ。」
「…そうか。それだけか。」
「何故、そんなに平静なんじゃ…からかいがいがないのう。」
実につまらん、と老人は不服そうな顔をする。
その様子を見てナフィーサがコロコロ笑った。
ルシェドが身を屈めて目を閉じる。
ジンの耳元に柔らかい感触がかすめる。
「…なぁ、君。本当は少し気になっているんじゃないの。」
ナフィーサは最初と打って変わって朗らかになっている。
ジンは少しホッとした。
「結果オーライってとこだな。」
再び、床が大きく振動する。
ガタリッ、と幌馬車が急停止する。
重なり合うように人々が倒れる。
そうなると、場所を確保しようと騒動が起きる。
場所をがっつり取られてしまったルシェドは情けない声で抗議するも、
聞き入れる人間はいなかった。
「そこは儂の場所だというに…。」
老人は泣きそうな顔をする。
「まぁ、よい。ここは心の広い儂が譲ってやるに限るであろう。」
ふて腐れたように言うとダンゴ虫のように縮まった。
「…ルシェドさんも気の毒だが…私達も相当だな。」
「…売るなら、売るで、さっさとここから出してほしいもんだな。」
クソッ、と呟いたジンの視界に突如光が差し込んだ。
馬車の入り口が開き、人が入ってきたのだ。
三人の少女。二人の少年。一人の老人。
「…新しい奴隷が入って来たのか…。」
そこにいる皆がそれぞれに呻いた。
「…勘弁してくれよ…。」
新たな侵入者は座れるところを探しているが、
誰も譲る者などいなかった。
三人の少女の中の一人がナフィーサとジンの傍までやって来る。
栗色の髪や顔が薄汚れてはいるが、
汚れを落としたらそれなりに可愛いのではないかと思えるその少女は
突如、目を見開いた。
「…きゃぁぁ、ご、ゴキブリ」
「ぎゃああっ。な、なんだとっ!」
ジンは焦ったように立ち上がった。
その隙に体をナフィーサの隣にねじ込む少女。
「…なんなんだよ?」
恐ろしく不機嫌そうにジンは少女を睨みつけた。
「だってぇ。誰も場所空けてくれないんだもの。
悪かったわ、お兄さん。私と場所半分こにしてよ。」
ナフィーサは少女に感心したようだ。
「…ねぇ、君は頭がいいね。
ジン…この子私達よりも小さいし、場所を分けてやってはどうだろう?」
ジンははぁぁ、と溜息をつくとしゃがみ込んだ。
「…ならお前が立つなり、半分譲ればいいのに。」
「どうせ君は、この子と半分ずつにしたら、私の場所を奪うのだろう?
なら同じことだ。」
少女は言い争っている二人を手で制した。
「心配しなくてもお兄さんたち、もうすぐ着くわよ。
だって私が乗せられたの、アラーニャ王国の領内ですもの。
奴隷商が言っていたけど、この馬車アラーニャの奴隷市場と王宮に行くみたいなのよ。
老いたものや、体の弱い人はアラーニャの奴隷市場に。
若い人間や容姿の良いものは王宮へ。」
ナフィーサとジンは顔を見合わせた。
幌馬車が再び止まり、アラーニャの者ではないと一目で分かる
東方の商人達が中に乗り込んでくる。
彼らは老人や力の弱い者を選別し終わった。
「どうやら、儂らはここでお別れなようだのう。」
少し寂しそうにナフィーサとジンを見詰めるルシェドは奴隷市場で売られるらしい。
ナフィーサは瞳に涙を溜め、その手を取った。
「…ルシェドさん…変な占いは全くありがたくなかったが、
笑わせてくれたことは感謝する…。」
「変な占いですまんかったの…お主、これから挫けずに生きていくんじゃぞ…。
モテぬ猿人類とそこなる少女も体に気をつけて…。
お主らがあんまり楽しそうだったので、
儂もその中に入れて欲しかったんじゃ…楽しかったぞ。」
…ジン、ナフィーサ、そして少女は選別されなかったのだ。
「出ろ!」
商人達はがなり立て、ぐったりした奴隷達を無理矢理立たせる。
ある者は馬車から引きずり下ろされ、ある者はノロノロと歩みを進める。
人間と名のつくものはそこには一人もいなかった。
ルシェドと商人が揉めている。
「そう掴まんでも、自分であるけるわいっ。」
「なら早くしろよ、糞じじい。」
ルシェドはジン達を振り返り、もう一度見つめると決然と前に踏み出した。
「…悲惨な光景だな。」
ナフィーサは目を怒らせるも、涙が決壊している。
ジンと少女はそれに比べると平静だ。
「…俺は餓死する奴を見た。あいつらはまだ、生きているんだから。
大丈夫。」
「そうね、お兄さん。私の両親は流行り病で死んだわ。
私の両親はきっと奴隷になっても生きたかったと思うわ。
彼らは生きているのだから希望があるわ。
そう気を落とさないで。」
「…よく、分かっているな。ナフィーサは泣き虫なんだな。
なぁ…お前そういえば名はなんというんだ。『場所取りゲーム』?」
「場所取りゲーム?」
「だってそうだろう。あんなに必死に場所とっちゃってまぁ…。」
少女はプッ…と噴き出した。
「…クロエよ。『乙女兄さん』。」
「なっ…。」
瞬時にジンの顔が赤らむ。
ゴキブリの件で、年下の少女の前で
情けない声を上げたことについては触れて欲しくなかったのである。
馬車の扉は閉められ、光が閉ざされた。
ガタンガタンと車輪が再び走り出す。
「ジン…私達は王宮にいくのだろう。」
「ああ。」
「お前と離れずにいれて良かった…宜しくな。」
「二人ばっかり、ずるいですよ。私は数えてくれないの?」
クロエが頬を膨らませた。
「じゃあ、君も…。」
「もう、遅いですよ。
…『泣き虫』さん。目が腫れてるわよ?」
「…。」
ナフィーサは彼らしからぬ動作で、腕で乱暴に涙を拭う。
「…もう、大丈夫だ。」
床の振動が止まり、再び扉が開かれた。
…その時、ジンは自分がナフィーサと隔たった場所に配属されるとは知る由もなかった。
彼らが再び出会うのは五年後のことだった。
王宮の下働きになったジンはこきつかわれる毎日だ。そんな彼は時折、別れたナフィーサのことを思い出していた。そんなある日、アラーニャ王が少年をいたぶる異常性癖であるという噂を耳にする。噂の中心にいるのはとある少年。ジンは偶然ナフィーサと再会する。ナフィーサは何か物憂げな様子であったが、ジンの姿を見るとその顔に喜色を浮かべる。一方のジンは大いに戸惑っていた。友人の姿が自分とあまりに違いすぎて。