プロローグ
いかがでしたでしょうか?
「お婆ちゃん、九十九歳の誕生日、おめでとう!」
と、ラフな、夏に適した格好をした三十台半ばの女性が、縁側でお茶をすすり、空を見上げる老婆に満面の笑顔で言った。その老婆は、夏真っ盛りであるというのにもかかわらず、その小柄な身を大きく見せてしまうほど丈に合わないちゃんちゃんこを身に纏っていた。
彼女は亀もかくやというほどのゆったりとしたそれでいて品のある動作で、娘の方に体を向け、ただお礼と言わんばかりに会釈だけをすると、また背中を丸めて、空を見上げ始めた。
「じゃあ、私、今からお婆ちゃんの誕生日用にお料理買ってくるから、きちんと留守番しててね?」
それだけを言ってその女性は部屋から出て行ってしまった。
老婆は、耳で、扉の鍵がかけられた音が聞き取ってから嘆息した。
こんなにつっけんどんに振舞っているのは彼女にとって別に今日が自分の誕生日であった、なんてことはどうでもよかったからだ。
彼女は、ついに口の中にぬるくなったお茶を含んで口の中で転がしつつ、残り全ても一気に飲み干してしまった。
「……あの戦争からもう八十年もたったのかえ」
老婆は、そうしみじみと言って、歴史を物語るようなその顔に刻み込まれた深い皺を無意識のうちに撫でた。
蝉達が、かしがましく、絶えず泣き声を発する。蝉達は自分たちが生きている一週間の間で、己が生きていた証をこの世界に表現するべく、必死に叫びを上げている。
そしてむなしく死んでいき、また新たな蝉がその儚くも尊い願いを達成しようと産声を上げる。
夏というのはそんな季節だ。誰もが楽しいと思える季節でも老婆にとっては、心が重くなってしまう。
あの夏、蝉のように人々は誇りをかけて、この世界に、折れてしまいそうな弱弱しい自分達というものを必死に表現しようと、世界と戦い、たくさんの人が散っていった。
国民、そして女性の1人であった彼女にできることといえば、出征兵の応援か、工場で働くことくらいだった。
かつて彼女の好きだった男、そして夫は皆戦争に借り出され、遠く異邦の地で、誰にも見届けられることなく土に還っていった。
彼女は国を、政府を呪った。戦争に負け続けてばかりなのに戦争をし続け、自分の周りの人々をことごとく奪っていった彼らを。
だから、その老婆は塀越しで、嬌声を上げて、夏を楽しんでいる今の子供たちが羨ましくて仕方が無かった。
その老婆は庭先に生えている一輪の悠々とした向日葵に目をやった。
「八十年前の向日葵はこんなに美しかったかねぇ?」
水を与えられ湿った土壌に生えるその一輪の向日葵は高嶺の花という言葉がぴったりなほど庭の中で存在感を示していた。太陽の光を浴びて、色づいた美しい楕円状の花びら。そうしてその中央にはたくさんの子供を宿している。まさに生命力の象徴ともいえるそれに老婆はある種の皮肉さを感じていた。
というのも八十年前、向日葵は出征兵の戦死を、その身内に伝える際に遺書と共に贈られた花だったのだから。でもそれだって今は知られていないし、知る必要もない消えた伝統であった。
ただ過去を知らず、これから自分たちで創り上げていく未来にだけ目を向けていく子供たちをその老婆は羨ましく思った。そうしてそれと同時にその老婆はもう一つの思いも抱えていた。
――不安
彼女たちの代が死に絶えれば、戦争の歴史は暗闇の中に自然と引き摺られていってしまう、それが彼女にとっては怖くて仕方が無かったのだ。
老婆は白髪ばかりの少ない髪の毛を触って、また空を見上げた。
空はどこまでも青くて美しく、皆が笑いながら、見上げている。今の時代はこんなにも平和で笑いの耐えない幸せな世界なのだ。
だから子供達の頭は毒されているといってもいい。自分たちの心に潜む暗黙のルールがどれだけ特殊なものであるのか、ということが、全く分かっていないのだ。
ところで、80年前に起きた戦争は今となっては彼女たちにたくさんのものをもたらしてくれた。しかし、そこまでたどり着くためにどれだけの犠牲を支払ったことか?それを皆は知らない。それも老婆にとって悲しくて仕方が無かった。
その当時、彼女はまだ成人するかしないか程の、若い、水も滴る美しい女性であった。
農家の娘として生まれ育った彼女にとって政治のいろはなんて何一つわかっていなかった。ただ今でもいえるのは、その当時ほど、人々が残酷であった時代は今後永劫存在し得ないだろう、ということだけだ。
元来、農家という仕事は、土をはじめとして、作物や水の管理など、色々なところに気を配らなくてはいけない仕事。だから、感覚は敏感になる。
そんな仕事を持った家庭の娘として生まれた自分もまた、感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていた。
あの時代、ただ人も自然も何かが違うと感じ取っていた。
といっても、完全にすぐ見て分かるように違うわけではない。
表面上はいつも通りの生活を過ごすだけの何の変哲もない日常。
ただほんとにわずか、わずかなのだけれども。
周りの人々の笑顔に心なんてものは無いように思われた。ただ押し付けられ、強制的にさせられている笑顔。そして空気に棘が交じっているのか、と思ってしまうほどの人間同士の激しい空気。いうなればかつてのこの国には人間地獄であった
心は、無意識のうちに、疲弊に慣れてしまっていた。
と、手元においていたラジオから、町のどこからかもボーンと哀愁を感じさせる鐘の音が鳴り響いた。
その老婆はゆっくりと目を閉じた。目の裏にありありと昔の風景がよみがえってきて、老婆の目からは次第に涙が溢れてきた。
「我々の国に1人の勇者様が来てくださったおかげなんじゃな……」
突然、困窮していた我が国に現れ、激動の時代、戦争で命を捨ててまで我が国のために戦ってくれた一人の勇者の名前はたとえこの国の国民全員に知れ渡っていないとしても、少なくともこの老婆の心の中には刻み込まれていた。
その勇者の名前は、ミツルギヤクモと言った。
いかがでしたでしょうか?




