その1
古から首都の上部地域にて鎮座している宮殿・ジェーダ。
かつてそこは、太陽神が祀られていた大神殿だったといわれている。
その姿形が荘厳華麗な宮殿に変わってしまった今も、神殿だった頃の名残のように、
神々が落としていった理屈では説明できない何かががかすかに息を潜めて生きている。
時折、ジェーダはそれ自体が生きていて、大地の息吹に合わせて呼吸しているとも言われる。
あまねく神々の、おわする家とも――――
「でね、昨日蝋燭の継ぎ足しに廊下を歩いてたら…出たのよ。」
ゴクリと誰かがつばを飲んだ音が聞こえた。
「おどろおどろしい、長い髪の毛をふり乱した男のお化けが…!!!!」
「キャー!!」
「怖いですわあ!」
話し込んでいる女官達の輪から一斉に悲鳴が漏れた。
先ほどから、こめかみの青筋をぴくぴくさせながら彼女たちを見やっていたアンリエッタは、これみよがしに溜息をついた。
「こらそこ、今は就業時間外とはいってもここは王宮です。口を慎みなさい。」
「「「はーい…」」」
円になっていた女官らが渋々アンリエッタの注意を飲み込み、散り散りになる。
―――女王が統治する『洋国』の王宮・ジェーダ。
その一角であり、王族達が日常の住まいである【奥の宮】の小間使い用の小部屋で、アンリエッタは女官として出仕の準備をしていた。
一口に女官といっても仕事内容は多岐にわたるが、女官の中でも一番花形といわれるのが【奥の宮】付である。
女官の中で一番審査が厳しいといわれ、倍率も他とはケタ違いに高い。
その上、王族と直で接する機会が格段に多いため、その大抵が礼儀作法を身に付けた貴族出身の女子である。
そして奥の宮付女官にはもう一つ花形と呼ばれる理由がある。
それは、【後宮】が開かれた場合、奥の宮の女官がそれも担当するからである。
【後宮】に配属される女官は、王族男子にいつ見初められてもおかしくない距離にある。
それゆえ、娘を持つ貴族たちにとって垂涎の的である。
ただし、現在の王は女性の為、慣習に倣って後宮は閉ざされている。
しかし王の子どもは二人とも王子。どちらが将来的に王になっても後宮は必ず開かれる。
それ故、【後宮】が開かれていない今現在、【奥の宮】の、さらには王子付の女官になるための倍率は、下手すれば女王付のそれよりもこれまたウンと倍率が高かった。
「あなたたちは夜勤が終わったんでしょう?さっさと宿舎に戻りなさい。
もしこれが王子殿下に聞きとがめられたとき、私はあなた達にそれ相応の処罰を下さねばならないのですからね。」
処罰という言葉で3人の女官が一様に息を呑んだ。
彼女らは制服こそ支給品であるが、目一杯に化粧をし、手に持っている複雑な意匠の凝らされたレースのハンカチーフや髪を結っているリボンなどは一見しただけでもかなりの高級品だとわかるものである。。
明らかに王子の側室もしくは正室狙いに女官になったと思われる。
アンリエッタは、最近の『第二王子殿下の恋人志望』目当てで出仕する彼女らを見て、内心溜息をつかずにはいられなかった。
「用が無いなら早くここから出て行きなさい。」
恐らく彼女らがこの小間使いの間に夜勤明けでも滞在していた理由は一つ。
朝、第二王子殿下が起きた時に、真っ先に彼の傍に行く為だ。
第二王子殿下は大変寝起きが悪く、なかなかベッドから出てくることは無い。
その殿下をいつもベッドから引き摺り下ろしているのはアンリエッタだ。
アンリエッタの涙ぐましい努力を知らない彼女らは、その日王子が初めて目にしたものが自分であることを願いながら、今か今かと王子の起床を待っていたのだ。
『あの王子が自分から起きてくるわけ無いじゃないの…こんな所で待ってても無駄なのにあの子たちもよくやるわ。』
内心呟いた声がどこかから聞こえたのか、小間使いの間から明らかに機嫌の悪くなった3人が出て行く寸前にこれみよがしにボソリと呟いた声が聞こえた。
「ちょっとわたしたちより長く勤めてるからって、王子殿下を起こすのは自分の役割とでも思ってんのかしら。
それとも殿下がお認めになっているとでも思ってるのかしら、辺境伯爵家の三女だっていうのにね…」
バタリとドアが閉まる。たった一人アンリエッタは部屋に残される。
『…まあ、彼女達の言い分は、尤もね。』
彼女達の家格は辺境伯爵家のアンリエッタ以上。それも、そのうち一人は侯爵家の令嬢だ。
王子の妃としても申し分ない。
けれど、彼女達の言い分にはひとつだけ間違いがある。
アンリエッタは、王子の妃なんて、狙ってもいないのだから…
午前8時。朝議まであと30分。
おそらく、各省庁の高官達は既に出仕しており準備もほぼ整っているだろう。
この、殿下がまだ寝ているということ以外は。
「で~ん~か~~~!!!今、何時だとお思いなんですか!!!」
「…アン?…もうちょっと寝かせてくれ…んー、あと2時間くらい。」
「どこがちょっとなんですか!!!!」
アンリエッタは布団にしがみつく『洋国』第二王子・ジェイドを引きずり落とす。
その拍子にゴトリと不気味な音を立ててジェイドは床に落ちた。
乱れた寝間着から腹が肌蹴て見えるほど、あられもない格好だ。それでも床にうずくまったまま動こうとしない。
埒が明かないので、アンリエッタは分厚い寝室のカーテンを勢いつけて開ける。
真っ暗だった部屋に目を焼くような強い朝日が差し込み、王子の寝室の全景がアンリエッタの目に映る。
どれもこれも最高級品の家具ばかりが置かれている、王子専用の寝室。
壁に掛かる絵は国宝級の作品で、値段が付けられない代物だとアンリエッタはつい最近知った。
その他にも、どこから発掘したらこんなのが出てくるのやらと言うほどの大粒のダイヤが嵌め込まれた小ぶりの冠やら、コチコチと正確に時を刻む天井まで届きそうな巨大な柱時計など、
一応貴族の生まれであるアンリエッタですら未経験の豪華さだった。
そして飴色に光るチェストの前で、S字にくねった形で未だ転がっている王子を、アンリエッタはしゃがみ込んでまじまじと見つめる。
朝日に照らされた髪は白に近い金、男性にしては細身であまり日に焼けていない白い肌。
そして、成年男子ながら天使と揶揄される天下無敵の美貌。
この王子という存在が一番この豪華な部屋に磨きをかけていた。
―――そんな風にしてじいっと見つめていたせいか、目の前に転がる王子が既に目を開けている事にアンリエッタは気付いていなかった。
すっとアンリエッタの頬に白い指が伸ばされる。
むに、と頬を掴まれたときようやく王子が目を覚ましているのに気付いた。
「で、殿下…?」
「おはよう、アンリエッタ。
今日も床にたたき落とされると言う実にユーモア溢れる目覚めだったよ。愉快愉快。」
「そうでございますか。殿下が愉快と仰るのなら明日でも明後日でも、いえ、
私がこの王宮に勤める限り毎日やってさしあげますが、いかがでございますか?」
「い、いや、それは勘弁願いたいな。あは、あははは。」
「…変な笑い方なさらないでさっさとお召し物をお代えになってください。
もう朝議までに30分を切ってるんですよ?」
「わかったわかった。今すぐ着替えてくる。」
ジェイドは寝室の隣にある衣裳部屋にふらりふらりと、全く威厳のかけらもなく入っていく。
実をいえば、中では既に1時間も前から針子が待機していたのだが、ようやく彼らの活躍の時が来た。
『はあ。いつになったらこの王子の寝坊癖は直ることや…』
これには更なる溜息をつかずに入られなかった。
アンリエッタが女官として出仕し始めてから早4年。王子は延々と寝坊を繰り返している。
その理由はただ一つ。
彼のあだ名『女官食いの王子様』という言葉が端的に表している。
彼はアンリエッタが出仕した当初からその名で女官達に呼ばれていた。
アンリエッタもその目で王子が自室に女官を連れ込んでいる光景を見たことがあった。
ジェイドは性格にはかなり難有なのだが見た目が凄まじい為、女は皆それに靡く。
ただ、最近はそれも落ち着き、こうやって独り寝する夜が殆どになっているのだけれど…
「アン、着替えてきたぞ!さ、早く朝食を食べるぞ!給仕をしてくれ。」
ジェイドが大人によって着替えさせられていた子どもがようやく開放されたように元気一杯で衣裳部屋から出てくる。
乱れのひとつもない衣服に身を通し、ぐしゃぐしゃになっていた髪の毛に櫛が通され、ついでに腫れぼったくなっていた顔を拭われたお陰で、さっきの床に寝間着一枚で転がっていた姿からは想像できない王子様っぷりになっていた。
アンリエッタはギャップに苦笑しながら、朝からはしゃぐ王子に答えた。
「では、殿下、お供いたします。」
『はあ…疲れた疲れた。あの王子、時間ないってあれほど言うのにブレッドを7つも食べて!!』
内心では決して口に出しては言えない悪態をつきながらもすれ違う男性に軽く会釈をする。
すれ違う人間はどれも執務官と呼ばれ、内政を取り仕切る政府高官たちである。
アンリエッタは各省庁が集う本宮に王子の使いで訪れていた。
アンリエッタの仕事はあくまで数多いる王子つきの女官の一人に過ぎないのだが、どうしてだか彼から仕事を手伝ってくれといわれる機会が多かった。
この時も彼の決裁した書類を関係省庁に持っていくという、本当は女官ではなく政務官に任せればいいことをさせられていた。
ちなみに、当の王子は朝食後無理矢理アンリエッタに追い出される形で朝議に出席している。
朝議とは朝の各省庁の長官達との会議の事である。
この国の王子は兄が外、弟が内といわれる。その所以は
兄が外政、つまり有事につよく、弟は内政、つまり頭がよく切れた。
女王はその才能を認め、弟ジェイドには王の名代として、週に何日かある、朝に開かれる会議に出席させている。
ズボラで王子をやってること自体やってらんないと豪語するジェイドにとって、朝議はイヤでイヤで仕方が無いらしい。
しかし王の名代として遣わされているのだから、出なければ女王の顔を汚す事になる。
アンリエッタはそれだけはなんとしてでも避ける為、毎朝一国の王子を床に転がすという暴挙に出なければならなかった。
そんな朝の決闘を思い出しながら、本宮のある部署の窓口に王子自らサインした書類を手渡し、奥の宮に戻ろうとした時、
ドダダダダダと誰かが走ってくる足音がした。
『…王宮で走るなんて誰かしら…警護の者に止められても知らないわよ。』
そう心の中で苦言を呈すが、足音はますます迫るばかり。どうも、相手は止まる気が無いらしい。すると、
「アーンーリーエッーターーーさあああああん!!!」
と随分間延びした調子で自分の名前が呼ばれることに気付いた。
さすがにぎょっとして逃げようとするが、アンリエッタに追いついたその声の主にパシッと手を掴まれる。
恐る恐るアンリエッタは顔を見上げるとそこにあったのは―――
「ギ、ギルバートさん!?」
「ア、アンリエッタさん…こんなところで、お、追いかけてすみませんでした…」
膝に手をついて肩で息をしている男性は…
第二王子付私設秘書官のギルバート・フェルディゴールだった。
彼は本来王宮に併設されている王国軍本部勤務のエリート軍人なのだが、ジェイドの
『ギルバートは俺のもの』
というちょっとした誤解すら招きそうな謎の一声で秘書官も兼務している。
第二王子付秘書官とは聞こえがいいが、言い換えればただの王子のお守りである。
ギルバートは高身長で、『洋国』の人間に多い栗色の髪の毛を清潔に短く切りこんでいて、適度に筋肉がついた体躯に軍の演習で焼けた肌は、内に籠りっぱなしで髪の毛伸ばしっぱなしの王子よりよほど男性らしく見える。
過去の出来事によって男性不信気味なアンリエッタが珍しく好感を持つ男性の一人だった。
その彼がらしくないほど物凄く慌てた様子でアンリエッタを追いかけてきた、ということは…
「殿下に何かあったのですね?」
「ええ…その通りです。」
因みに軍を統括する位置にある大将はジェイドの兄である第一王子である。
清廉潔白、質実剛健、それでいて温厚篤実と呼ばれる男の鑑である第一王子を、同じ軍人としてギルバートはいたく尊敬しているらしい。
しかし、変人で女タラシで仕事にも不真面目な第二王子に顎で使われるこの状況は、きっとたまらないだろう、アンリエッタは気持ちが凄く良く分かるので彼に対してはどうしてだかいつも親近感がわく。
「それで今回は何がありましたの?」
「お忙しい所申し訳ありませんが…殿下は、また逃げ出しました。」
眉根をギュッと寄せて、本当に悔しそうにギルバートは言葉を吐いた。よっぽど王子を取り逃がした事が悔しいらしい。
アンリエッタも、どうしてこの軍のエリートからあの生っちょろいジェイドが逃げ出せるのか不思議でならない。
「それで、殿下は何処に行かれたんですか?」
「それが、殿下の姿が見当たりません。
おそらく、花園にお逃げになったかと思われます。だから、私にはもう追いかける事が…」
「花園…『王の花園』…」
アンリエッタは信じられないと思いながらも呟いた。
「そうです。殿下はお逃げになりました。私や他の者達が絶対的に追いかけられないあの場所に。」
【王の花園】
ジェーダの奥の宮と本宮を繋ぐ廊下にポツリと存在する扉の向こうに広がる庭。
ただし、その扉は万人に対して開かない。
王族の血を持つもの以外には。
というわけでUP。
一応、「政略結婚の~」の番外編にあたりますが、個人的には「いちメイド~」のほうがより深くかかわるかなぁと思っています。
とはいっても、これ単体でも読めますので…
厨二な発想から生まれた話なので、これ書いた奴痛いな…と思われること請け合いです。