剣に恋して
月夜の闇に、剣が光る。
長い刀身が、闇を切っていく。
キィィィ……
二枚の刃が鳴る。気が遠くなるような、長い金属音。
ウインの手の中で歓喜の声を上げて、本来の姿を取り戻していく。
長剣の真っ直ぐな鋼の刃が、動きを変える。
蛇のようにしなる刀身。空間を切り裂き、光る鋼が闇を裂く。
ウインの靴が鳴る。回転するように土をえぐり、跳ぶ。
流れるような足運びで……まるで輪舞のように回転する。
優雅に魅せる。
思わせ振りに、ゆっくりと。しかし突如として素早く。
その瞬間だけ、剣が見えなくなる。剣の音が消える。
そして……今までとは反対方向に、しなる刀身が鳴く。
イイィィ……
闇に溶けるような、漆黒の髪。
回転する度に、空間に広がる。
ふわりと揺れて、白い頬にかかる。
汗で黒髪が張り付く。
美しい唇に、横髪が触れる。
―――なんと美しい剣技だ。
アルフレッド・ケイルは、公務中を示す白い制服で、それを見ていた。
建物の影に身をひそめ、息を飲む。
ここは城内の練兵場。
果てしなく広い空間が、樹木に囲まれている。騎士団本部からそう離れていない位置で、ウイン・シュランドが一人で剣を振っていた。
黒い国家騎士団の制服が闇に溶けているようだ。
誰もが見惚れるようなその美しい剣技は、相手がいようがいまいが関係ない。一度それが始まってしまうと、もうその流れが途切れることがない。輪舞のように回転しては、相手に切りつける。
だが細い刀身では、薙ぎ払うよりも打突の方が得意なはずだ。
それは足元を見ているとよくわかる。
セントール剣技では横に足を開き、どっしりと構える。だがシュランド流は違う。縦に足を開き、瞬間で前に移動する。それこそが突きを主体としている証拠だ。
しかし……すごい剣だ。
アルフレッドは感心した。
自分には、あの白蛇という剣を使いこなせる自信がない。
柔らかくしなる刀身が、二枚も同時に動く。通常そのまま突きを繰り出せば、しなる刀身が左右に分かれてしまい、目標にうまく当たらないはずだ。しかしウインは、その流れるような優美な動きで、独特の拍子をつけることによって、二枚の刃を揃えて突いてくる。まるで一本の刃に見える。
だが、たまに軌道を変え、自由自在にしならせる。
その切っ先までがウインの一部のようだった。
そして、動きをゆったりとさせると、美しい刃が互いを擦り合わせて鳴く。
これこそが音楽不要の剣舞……シュランド流剣技。
それはシュランド家のみに伝わる、伝説の剣技だ。
長年、剣舞としてのみ披露されてきた。
貴族の名門である以上は、それが実践で使われることはなかった。
貴族が剣を握ること自体があまり例を見ないのだ。
剣舞としてたしなみ、王族の前で披露する程度のものだった。
だが彼は……それを解禁した。
それがただの剣舞ではないことを、証明してみせた。
実践でこれを使っている所を見て、誰もが腰を抜かした。特に彼の父親であるギルキス・シュランドの驚きようには、凄まじいものがあった。
ウインはセントール剣技で圧されていた相手に、突然それを使った。そして圧倒的な強さで剣聖に上り詰めていった。それを使ってからの彼は、一度も危うくならなかった。動きが速すぎる。元が剣舞と思えないほどに速くなる。
そして……美しかった。
さすがに試合では白蛇を使っていなかったが、練習用の刃引きした剣でも、その美しさを魅せるには充分だった。
誰もが目を奪われる……美しい彼に。
そして自分も、例外ではなかった。
団長に就任してから初めての剣武祭だった。出場しなかったことを激しく後悔した。
だが、もう遅い……もう……自分は、剣を置いたのだ。
帯剣こそしていても、二度とこれを抜くことはないだろう。
その時だった。
ウインは突然動きを止めて、立ち竦んだ。
「……誰だ」
アルフレッドは硬直した。
初めて聞く彼の声は、たゆまぬ水のような、深い響きだ。
一瞬迷ったが、このまま姿を消すと、何か悪いことをした気になる。
それに彼に失礼だ。
アルフレッドは後悔する前に、建物の影から一歩、歩み出た。
「……申し訳ない。邪魔をしました」
「!」
ウインは驚いたような表情で振り返った。
「あ……アルフレッド近衛騎士団長様……!」
愕然としたように言うと、ウインはその場で跪いた。抜き身の剣を背中に隠す。
「失礼致しました。あなたとは存じませんでしたので」
ウインはかすかに息を切らしていた。いったいいつから剣を振っていたのだろう。ちょっとやそっとでは、この男の息を切らすことなどできない。
「ああ、いえ! とんでもない、邪魔をしたのはこちらの方ですから……どうかお立ち下さい。そのまま続けられて……」
「いえ。もう……」
ウインは跪いたまま、頭を下げた。
アルフレッドは困ってしまった。本当に邪魔をするつもりはなかった。ただその美しさに見とれていただけだ。アルフレッドはゆっくりと彼の前に歩いた。
二人はしばらく沈黙したが、ウインの方から切り出した。
「あの……このような時間に、なぜここに……」
「ああ実は、日課の巡回中に、窓から光るものが見えたもので……不審者かと思ったら、あなたでした」
アルフレッドは軽く笑った。
「はは、まさかこのような時間に、誰かが訓練をしているとは思わなかったので、つい……いつもこんな時間になさっているのですか?」
「……申し訳ございません。ご公務の邪魔と知りつつも……」
アルフレッドは慌てて言った。
「いえいえ、とんでもない。邪魔ではありません。むしろ幸運でした。またあなたの剣が見られるとは思わなかったので……つい、見とれてしまいました」
「……」
ウインは跪いたまま沈黙した。アルフレッドは感嘆のため息を漏らしてしまった。
「とても美しい剣技ですね……やはりシュランド流は、ただの剣舞ではない……実に機能的な動きだ。剣武祭の時に拝見した以来です。ぜひまたお目にかかれたらと思っていました」
「お目汚しにございます」
アルフレッドは軽く笑った。
「ふふ……とんでもない。しかし次の剣武祭には、もうあなたはお出にならないのでしょう?」
「……はい」
アルフレッドは目を伏せた。
「……とても残念です。まるで灯が消えたようだ……もう見納めとは」
「御所望いただけるのでしたら、いつなりと」
アルフレッドは軽く首を振って、微笑んだ。
「いいえ、いいのです……あなたにも、ご公務がおありだ」
「……」
ウインは頭を下げながら、じっと土を見つめていた。
そしてアルフレッドも、何も言わずに目を伏せた。
夜の闇に、沈黙が流れる。
だがそれでも……何も言わなくても、互いの気持ちはよくわかっていた。今、同じ気持ちなのだ。二人の剣聖は言葉にしなくても、互いの感情を有り体のままに読み取っていた。ウインが頭を下げたまま、静かに言った。
「……団長閣下」
「アルフレッドとお呼びください。私はあなたの上官ではない」
「では、アルフレッド様……もし……」
ウインは頭を下げたまま、迷いながら言った。
「もし、ですが……」
「お止め下さい」
アルフレッドは強く言って、言葉を止めさせた。ウインは、はっと顔を上げた。
「ウイン殿……私を、誘惑しないでいただきたい」
「……」
アルフレッドはウインを見て、切なく微笑んだ。
「私はもう歳です。あなたの期待には応えられない」
ウインは、すっと目を細める。
「ご謙遜を」
その吊り上った美しい瞳が、アルフレッドの剣を見た。
アルフレッドは、ぞくっとするのを止められなかった。勝手に手が震えてくる。自分の口元が、ふっと微笑むのを止められない。
熱い想いが、腹から込み上げる。
「ふふ……あなたは……私と、同じ気持ちなのですね……」
「アルフレッド様……」
「いえ……よく、わかります。あなたは私と同じだ……」
「……」
ウインは跪いたまま目を伏せた。
「とうに忘れたこの私でも……あなたを見ているだけで、熱くなってくる……体が、勝手に思い出すのです。あの情熱を……」
アルフレッドは、ぐっと手を握り締めた。
そして、ふっと微笑みながら、切なくなる目を閉じて言った。
「あなたも同じ気持ちなのでしょう。この胸の奥が熱くなる。勝手に震えてくる……本当は、わかっているのです。この乾きを……癒せるのはあなただけ、と」
「では……」
「でもダメです」
アルフレッドは強くウインを遮った。
「もう遅い……ただではすみません……お互いに」
「……」
ウインは悲しそうに目を伏せた。
しばらくの沈黙の後、アルフレッドが静かに言った。
「あなたと……話したいと思っていました。しかしそれ以上の事は……過ぎた望みです」
アルフレッドは自分の剣に軽く触れた。ウインは弱く頭を振った。
「いえ……そのようなことは決して……」
「わかっています……あなたも同じ気持ちであることは。しかし……あと五年、いや一年でいい……あなたと出会うのがもっと早ければと……」
アルフレッドは自嘲して笑った。
「なんて、勝手に思ってしまうのです」
「アルフレッド様……」
ウインは静かに言いながら、目を閉じた。
「よくないですね……あなたは目の毒だ」
アルフレッドは、跪くウインに背を向けた。
「……あなたと話せて光栄でした」
ウインは頭を下げた。
「いえ……こちらこそ……」
「どうぞ、お続けになってください。では……」
アルフレッドは微笑みながら、すっと建物の中へ入って行った。
残されたウインは、頭を下げたまましばらくそうしていた。頭を下げているというよりは、うつむいているのだ。ウインはうつむいて地面を見ながら、ぼうっとしていた。
「……」
だがしばらくして、すっと立ち上がり、何かを振り切るように剣を縦に振った。その勢いのまま、身を躍らせる。昂った気持ちを剣に込めるように、輪舞のように舞い踊る。
アルフレッドは建物の影から気配を絶ってそれを見ていたが、軽く頭を振って、目の前にある階段を静かに上がって行った。
翌日……軍部小会議室。
アルフレッドは頭がぼうっとしていた。
しかし周りでは、国議会の本会が始まる前の先立ちが行われていた。本会での議論を煮詰めるためのものだ。司会を真中に、二人の執政官が、執務机に座っている。アルフレットの隣には、辺境騎士団長のカティスと国家騎士団長のコランが並んで座っている。離れたところに情報部(諜報士団)と参謀部の席があり、そこでも軍の上層部の人間が席を連ねていた。
ぼうっとしているアルフレッドを尻目に、司会が淡々と議事を進めている。
特に目を引くような議案もなければ、興味もない新法草案。
アルフレッドは視界に霞がかかるのを自覚していた。
……眠いのだ。ただひたすらに。
アルフレッドは常に、時間で行動を決めいていた。
何時になれば寝て、何時で起きる。何時から日課の巡回をして……と常に決めている。そしてそれに逆らったことは今までに一度もなかった。
昨日までは。
昨日、初めてそれに逆らった。
……眠れなかったのだ。
いつもの時間に寝台に入り、目を閉じ、強制的に眠ろうとした。
しかし眠れなかった。
ウインの剣、声……その足運び……隙のない立ち方。
ちょっとやそっとでは崩れそうにない、あの剣技……眠ろうとして目を閉じる度に、目の前に銀色の剣がちらつく。ウインの美しい身のこなしが、頭から離れない。
まるで恋だ。
ウインに恋をしているようだった。
だがそれは違う。
純粋に彼の剣が恋しいのだ。彼の剣が欲しい。彼の持つ刃に、自分の剣を重ねたい。どうしたら彼に勝てるだろうか。どうしたらあの美しい剣技を止められるだろうか。
どうしたら……彼と戦えるだろうか……
互いに責任ある立場だ。
互いに負けることなど許されない。
もし仮に、自分が団長という地位を捨てたとしても、彼にはまだ先がある。若くないコラン・レイド国家騎士団長の後任は、間違いなく彼だ。
今はまだ若いから政界入りできないだけだ。
いつか彼は、自分と同じ地位に立つだろう。
だがそれだけではない。彼の父親が執政官なのだ。もし万が一にも勝ってしまったら、その父親にも泥を塗ることになる。
かといってわざと負けるくらいならやりたくない。
彼と純粋に剣を楽しむことなど、夢のまた夢だ……
それなのに……あの時、彼は何を言おうとしたのだろうか。
それを聞いてもまだ、振り切ることができただろうか。
そんなことを考えているうちに、朝が来てしまったのだ。
「おい。アル」
すぐ近くにカティスの声が聞こえて、はっとした。
髭面のコランと、隣にいたカティスが心配そうにこっちを見ている。
「あ……」
アルフレッドは気付かないうちに、一瞬だけ寝てしまっていた。
議題は途切れなく続いているようだった。
―――ぞっと青ざめた。
近衛騎士団長である自分が議会中に居眠りなど、許されたことではない。
初めての自分の失態に、愕然とした。
カティスがこっそり言った。
「大丈夫か? 顔色悪りぃぜ……」
「医務棟へ行ってきたらどうだ」
コランがじっとこっちを見ている。
「あ、いや……大丈夫だ」
さすがに、ただの寝不足とは言えなかった。
青ざめたまま、手元の議事録を目で追った。
今はどこを話しているのだろうか。そう思っても、司会の声が耳に入ってこない。視界が歪む。文字が見えない……ぐらりとしてくるのを止められない。
「おい。アル……アル!」
誰かが肩を揺さぶってくる。
誰だ……眠い……つらい……起こさないでくれ……
「アルフレッド!」
低い声で鋭く呼ばれた。
誰かに胸倉を掴まれて、強制的に椅子から立たされた。
はっとして、目を開ける。すぐ目の前に、鋭い双眸があった。
「あ……ウイン殿……」
そう呟いて、無意識に剣を掴んだ。
しかし抜けなかった。
アルフレッドには見えなかったが、剣の柄頭を、カティスとコランが必死に手で押さえていたのだ。
「寝ぼけるな」
目の前にいる男が、じろりとアルフレッドを睨んだ。よく見たら口ひげがある。
「あ……ぎ、ギルキス様!」
アルフレッドは愕然とした。
執政官の一人が、自分の胸倉を掴んで立たせているのだ。気付けば、場内の全員がアルフレッドを見ていた。いったいどれくらい寝ていたのだろうか。
アルフレッドは今度こそ顔面蒼白になった。
ギルキスの背後の遠い席で、自分の上官であるアルテスが、呆れた表情をしている。
ウインの父であるギルキスが、目の前で睨んで言った。
「目が覚めたか……近衛騎士団長とあろうものが……」
「あ……す、すみま…………せ……」
そう言った瞬間だった。
ふっと目の前が暗転した。
気を失ったのだ。いや、正確には、寝てしまったのだ。こんな状況でも、意識をつなぎとめることができなかった。がくんとそのまま崩れ落ちる。
剣を押さえていたカティスとコランが、無理な体勢だったのに、本人が崩れてしまい、そのまま一緒に椅子から転げ落ちた。
「!」
ギルキスが驚いて目を見開いた。
崩れ落ちるアルフレッドを支えきれず、その胸元から手を離した。
「どわぁぁ……!」
「ぎゃぁぁ……!」
カティスとコランの叫び声と、ガタガタという椅子と机が散乱する音。三人の大柄な騎士たちが、椅子を巻き込み床に落ちた。
「あ……」
しかしそれでもアルフレッドは目を開けられなかった。
意識が、現実と夢を行き来して、どちらが本物なのかわからなくなる。意識が混濁しているのだ。そのままぐったりと床に伏せてしまった。
「いってぇ……! くそ!」
「おい! アル……しっかりしろ!」
遠くでカティスの悪態が聞こえる。コランが必死に自分を呼んでいた。
ギルキスの声が、冷静に誰かに言った。
「軍医を呼べ」
「は」
その瞬間にアルフレッドは目を覚まし、身体をよろよろと起き上がらせた。
「あ、そ、その必要は……」
そう言ったが、またぐらりと眩暈を起こして、床に倒れ込む。
一瞬しか起きてられないのだ。意識が戻っても、またすぐに夢に引き込まれる。
なんだこれは……?
いくら寝不足だからって、居眠りにもほどがある。
アルフレッドは自分で信じられなかった。だがすぐにぼうっとしてくる。
目の前に、ウインの艶やかな黒髪が揺れる。そうかと思えば、議会場の天井とコランの心配そうな顔。周りの音が聞こえてくる。議会場が騒然としているのがわかる。だが身体が重くて起き上がれない。無理に起き上がっても、きっとまた倒れる。
アルフレッドは諦めて目を閉じた。
誰かが指で、片方の瞼を開けた。無理やり目を開かされ、はっとして意識を取り戻す。
目を開けると、議会場の天井と、金色の瞳が見えた。
「あ……老師」
筆頭軍医の小柄な老人だった。
老師と呼ばれていて、本名は誰も知らない。髪はすべて白髪で、申し訳程度に生えている。瞳が金色だ。彼はシャロワ人だった。そのシワだらけの顔は、陽気に笑った。
「うひょひょ……いったいどうしたね。アルフレッド」
「あぁ、いえ……」
そう言ってすぐに、またぐらっと意識が途切れそうになる。身体が重くて床から動けない。アルフレッドは気力を振り絞って言った。
「なん……でも……」
「ふぅむ。確かにどこも怪我をしとらんし、病気でもなさそうじゃな。しかし……心に何か問題があるようじゃ。憔悴しておる」
コランが心配そうに言った。
「心、ですか……」
カティスが吐き捨てるように言う。
「けっ、こいつがそんな玉かよ」
アルフレッドは、うとうとしてくる意識を抑えて、弱々しく言った。
「いえ……そんな、ことは……」
だが老師はうひょひょ。と笑った。
「ま、病名は貧血と過労と寝不足じゃな。昨夜は眠っておらぬのだろう。心に何か問題を抱えた証拠じゃ。常に規則正しく生活をしているおんしが……考えられぬ。じゃから身体が危険と判断した。強制的に意識を落としておるわ」
「う……」
アルフレッドは唸ってしまった。そのまま意識が遠のく。
闇の中で光る……ウインの剣。
気の遠くなるような、長い金属音。
「アルフレッド。起きようとするから辛いのじゃ。寝るがよい」
その声に、はっとして老師を見る。
「い、いえ。そういうわけには!」
「恋でもしたか」
意識を取り戻した瞬間に、間髪いれずに問われ、かっと顔を赤くする。
「違います!」
「ほう。では、あとで聞こう。今は寝るのじゃ」
「あ……」
また、とろんとしてくる。
なんて甘い誘惑だろう。寝て、いいのだろうか。
いや、議会は一時中断している。自分のせいで……
しかし身体が重くて動かない。
アルフレッドは意識を混濁させたまま言った。
「いいえ……だめです……」
遠くに座っていたギルキスが、呆れたように言った。
「アルフレッド。お前がいると邪魔だ。われわれの職務のために寝てこい」
アルテスの、のんびりした声も聞こえる。
「そうですよ。あなたらしくもない。心配しないで休みなさい」
二人とも執政官だ。
国の頭であるこの二人に迷惑をかけている事実を思い直し、どうしようもなく、恥ずかしくて、いたたまれなかった。
倒れてしまったアルフレッドを運ぶために、近衛騎士たちが議会場に入ってきていた。自分の部下に失態を見せたくなくて、強引に意識を繋ぎ止める。
「くっ……」
老師がため息混じりに言った。
「一体何があったのじゃ。おんしともあろうもんが。ここで言えることなら言うてみい」
ウトウトしてくる頭で、必死に考えた。
言っていいのだろうか……言えば少しは楽になれるだろうか。
しかし、ぼうっとしてろくに頭が働かない。
気が付くと、口走っていた。
「あ……じ、じつは……ウイン殿が……」
「え? ウインじゃと?」
老師が聞き返す。
遠くに座っていたギルキスが、その一言で顔色を変えた。突然自分の息子の名前が出てきたのだ。驚くのも無理はない。
諜報士団の頭の男が、鋭い目で遠くに倒れているアルフレッドを睨んでいた。
アルフレッドは、また意識を連れ去られそうになった。
朦朧としてくる頭で、ぼうっと言ってしまった。
「ええ……ウイン殿に……誘惑されまして……」
深く考えられなかった。言葉を選べなかった。
「……!」
その瞬間、そこにいたほとんどが、かっと顔を赤らめた。
だがギルキスと、諜報士団の男は、ざっと青ざめる。
だがコランと老師は顔色を変えなかった。
コランは眉根を寄せて首を傾げた。国家騎士団長のコランには意味がわからなかったのだ。そういう意味ではないことを、ウインと親しいコランは当然に感じていた。
老師が、かすかに頷いた。
「そうか……なるほどのう……」
ギルキスが、椅子を蹴るように勢いよく立ち上がった。そしてワナワナと肩を震わせる。
「あんの……クソガキが……!」
怒りの形相で言うと、ツカツカと早歩きで議会場を出て行った。側近たちが慌ててそれを追いかける。落ち着かれませ! ギルキス様! と必死に声をかけながら走って行った。
諜報士団の男は青ざめたまま口に手をあてた。
その時。
老師が、突然アルフレッドの耳を引っ張った。
「いたたた……!」
「しかし言葉を選ばんか。バカ者め」
「ろ、老師……?」
アルフレッドは、また目を覚ました。ひょひょっと老人が笑った。
「誘惑か……うまく言ったもんじゃわい」
「え?」
老師が金の瞳をすっと細めた。
「互いに押さえきれぬのだろう。その想いが」
「……」
「特におんしは火の性じゃ。くすぶっていた情熱を再燃させられたか」
「火の……?」
アルフレッドは床に寝たまま首を傾げた。老師が静かに言った。
「戦いたいのじゃな。ウインと」
「……」
ずばりと言われ、何も言えなかった。絶句してしまった。
「だがいろんなことを考えて、突っ走ることができなんだ。それが歳の功というやつよ」
「老師……」
老人は静かに目を閉じた。
「互いに天才じゃ……互いの剣に惹かれ、それでも反発したくてたまらぬ……」
老師は目を開けて、意地悪そうに笑った。
「はっきり言おう……おんしらの実力は拮抗しておる。本気で相手ができるのは、互いのみよ。だからこそ惹かれるのであろう」
「う……」
また、ぐらっと眩暈がして目を閉じそうになる。
老師は、また耳を引っ張った。
「いたたた……!」
「何を迷うことがある。それを決めるのはお主じゃぞ?」
アルフレッドは、ひりひりする耳を押さえた。
「で、でも、私はっ……もう……!」
慌てて言うと、老師は突然真顔で言った。
「可能性にフタをするつもりか。諦めるでない! 突然その時がきたらどうするつもりじゃ。それまで何もしないつもりか。後悔するのはおんしじゃぞ!」
「老師……」
初めて老師に諭され、驚き目を見開いた。
老人は、うひょひょ……と笑った。
「いつかきっと想いを遂げる。諦めたらそこでしまいじゃ」
アルフレッドは、やっとの思いで言った。
「そんな……ことが……あるでしょうか……」
「ある。だが諦めたら、ない。心がけ次第よ」
「……」
老人の金の瞳が、アルフレッドを真摯に見つめた。
「再び剣を取れアルフレッド。その情熱のままに」
「……はい……」
それを聞いていた議会場の全員は、ほっと胸を撫で下ろした。
諜報士団の頭は口に手をあてたまま、がっくり肩を落としている。
老師が二人の騎士団長を見て言った。
「カティス殿、コラン殿。ギルキス様を止めてまいれ。なにやら誤解しておられるようじゃ。もう騎士団本部まで行ったと思うがの……」
「はっ! 了解!」
「しかたねぇなぁ、もう……」
二人は同時に返事をして、走って議会場を出て行った。
老師はアルフレッドに言った。
「そなたは寝るのじゃ。迷いがなければもう眠れるはず。今から寝るのじゃ。わかったな」
「あ……はい……」
アルフレッドはそう言ったものの、身体が重くて動かなかった。
返事をした途端に、ぼうっとしてくる。
「団長を私室まで運べ」
老師が近衛騎士に指示すると、は。と答え、アルフレッドを両脇から抱えるようにして立たせた。アルフレッドはもうすでに、真っ青なまま意識が遠のいていた。
老人は振り返り、陽気に言った。
「ではこの老いぼれはこれで失礼しようかのう。アルテス様」
アルテスは軽く微笑んで言った。
「はい……ご苦労さまです」
老師はアルフレッドが運び出されるのと同時に、議会場を出て行った。
後に残された者たちは皆一様にざわめいたが、ゆったりとしたアルテスの声によって静まり返った。
「今日の議会は、明日のこの時間に延期とします」
執政官アルテスが、静かに宣言した。
「これにて閉会します……皆ご苦労さまでした」
それからアルフレッドは、毎日剣を取った。かつての熱い想いを取り戻し、鮮明にウインを思い出しては剣を振った。無駄な努力と知りつつも、それでも、なお彼の剣に焦がれた。まるで恋をしているかのように、剣の情熱に浮かされた。
それはウインがこの城から消えた後も続いた。
いつかくる、その決戦の時まで。
二人が想いを遂げるのは、この数年後。
最悪の形で幕を開けることになる。
End…