【連載開始】「馬車にあなたの席はないわ」と継母が言うので、乗合馬車で夜会へ。隣に座ったのは公爵閣下でした
連載版を始めました(https://ncode.syosetu.com/n8101mx/)。短編のお話を、公爵と車掌の視点を足しながら書き直し、第10話から、公爵家に移ったクレマンスと緑の乗合のその先へ進みます。よろしければ、そちらもどうぞ。
「馬車にあなたの席はないわ。アンブルのドレスは裾が広いの」
継母は馬車の段の上からそう言って、私の目の前で扉を閉めた。
ベルクール伯爵家の箱馬車は四人乗りだ。窓の向こうには、父と継母と、義妹のアンブルが見える。アンブルの薄桃色のドレスは裾が大きく広がっていて、座席をほとんど埋めていた。残った隙間には、予備のドレスを入れた白い箱が載っている。
アンブルが窓を下ろして、手を振った。
「お姉様のショール、私の箱に入れておいたわ。あとで返すわね」
その奥から、父が顔を出した。
「アンブルはまだこの家に慣れていないんだ。クレマンス、お前はどうにでもなるだろう」
御者が鞭を鳴らし、馬車は門を出ていった。
私は手首に提げた手提げを開けて、厚紙の綴りを出した。穴は、もうだいぶ埋まっている。残りは三回だ。
「七時十分の緑でございますね」
後ろで、侍女のマルトが私の外套を広げて待っていた。私が玄関に下りたときから、腕に掛けていたらしい。
「ええ。今夜も、楡通りの角から」
(三年経っても慣れないのなら、あと何年かかるのかしら)
父が継母と再婚したのは、母が亡くなった翌年の夏だった。継母は子爵家の未亡人で、アンブルは継母の連れ子だ。二人が屋敷に来てから、家の馬車に私の席があったことは、一度もない。
初めて置いていかれたのは、その年の秋の市の日だった。私は門の前で泣いていた。そこへ、通りの角を、帯を緑に塗った大きな馬車が曲がってきた。走り始めてまだ間もない、乗合馬車だった。後ろの段に立っていた白い口ひげの車掌が、私を見て鈴を鳴らした。
「空いてますよ、お嬢さん。乗合には、いつでも席がありますから」
それから私は、席がないと言われたら、乗合馬車で行くことにしている。
継母の決めた私の小遣いでは、辻馬車を雇って夜会のあいだ待たせることなどできない。乗合なら、どこからどこまで乗っても銅貨二枚で済む。まとめて買うと一回分おまけの付く回数券は、これで三冊目になった。マルトは自分の分の銅貨を、自分の財布から払う。私の小遣いから出すと何度言っても、聞いてくれない。
私は外套を羽織り、マルトと並んで、楡通りの角へ歩き出した。
* * *
時刻ちょうどに、緑の乗合が角を曲がってきた。
屋根の付いた長い馬車だ。中には、両側の壁に沿って長い腰掛けが向かい合っている。後ろの段で、車掌のジョスさんが手の鈴を鳴らした。
「楡通りー。おや、今夜は王宮ですかい、お嬢さん」
「ええ。開きの舞踏会なの」
回数券を渡すと、ジョスさんは鋏で穴を一つ開けて、片目をつぶってみせた。あの秋に私を乗せてくれた車掌さんだ。夜の便は、たいていジョスさんが乗っている。
「まあ、うちのお嬢さん! 今夜もきれいだこと」
段を上がるなり、パン屋のおかみさんのドニーズさんが、籠を膝に抱え直して声を上げた。毎晩この便で、王宮の厩と門番小屋の人たちに夜食のパンを届けに行く。その向こうには、病院の夜勤に向かう看護婦さんたちが並んでいて、私の若草色の裾を見て、小さく手を叩いてくれた。
空いている席は、入口の脇と一番奥だけだった。マルトが入口の脇に腰を下ろし、私は奥へ進んだ。一番奥の席は、地味な濃い灰色の外套の男の人が、本を読んでいる隣だ。
その人のことは、前から知っていた。夜会のある夜には、たいてい緑の一番奥に座っていて、いつも本を読んでいる。私が乗ると顔を上げて会釈をし、私も会釈を返す。これまでに交わしたのは、それだけだった。マルトと私は、心の中でその人を「本の人」と呼んでいる。
「失礼いたします」
腰を下ろすと、ドレスの裾が本の人の膝の上まで広がった。本の人は黙って本を閉じ、少し奥へ詰めてくれた。
今夜は、その人の外套の襟元から、白い襟飾りがのぞいていた。夜会の礼装だ。
「今夜は、王宮前まで?」
本の人が言った。声を聞いたのは初めてだった。思っていたより低くて、静かな声だ。
「はい。あなたも、今夜は終点まで?」
「仕事で」
馬車が動き出して、噴水広場へ向かう大通りに出た。窓の外を、ガス灯が一つずつ後ろへ流れていく。本の人は、しばらく窓の外を見ていたが、やがて私のほうを向いた。
「失礼だが、伯爵家の方だろう。なぜ、いつも乗合で」
「家の馬車に、私の席がございませんので」
「三年ですよ、三年!」
向かいの席から、ドニーズさんが身を乗り出した。
「こんなにきれいに支度したお嬢さんを、置いて行くんですよ。下のお嬢さんのドレスの箱は乗せるのに!」
「ドニーズさん、声が」
「いいんですよ、言わせてくださいな」
看護婦さんたちが、そろって頷いた。本の人は、ドニーズさんのほうを見てから、私に目を戻した。
「知っている」
「え?」
「去年の秋、雨の夜だった。楡通りの停留所に、ドレスのご令嬢が立っていた。その前を、紋の付いた箱馬車が、止まらずに通り過ぎていった。私はこの窓から見ていた」
覚えている。あの夜は雨で、裾が濡れないよう、マルトと二人で傘を傾けて待っていた。
「あの夜は、予備のドレスの箱が二つでしたので」
本の人は、一度まばたきをした。それから、喉の奥で笑い出した。こらえようとして肩が揺れ、こらえきれずに声になり、本を膝に置いたまま、しばらく止まらなかった。看護婦さんたちが振り向き、ジョスさんが後ろの段から、目を丸くして覗き込んだ。
「すまない。……箱が、二つ」
「はい。片方は帽子の箱でした」
本の人は、また肩を震わせた。
「王宮前ー、終点でございます」
ジョスさんの鈴が鳴った。
王宮の門の前は、到着する箱馬車の灯りで明るかった。紋章を付けた馬車が次々に止まり、扉が開くたびに、絹の裾と礼装が降りてくる。その列の脇に、緑の乗合は止まった。
先に段を降りた本の人が、外套を脱いだ。下は、黒の礼装だった。
門の衛兵が、こちらを見た。それから、槍を立て直して、背筋を伸ばした。
「アルドワン公爵閣下!」
(閣下?)
本の人は衛兵に軽く頷き、脱いだ外套を畳んで、ジョスさんに預けた。
「帰りの便で受け取る」
「へい、承知しました、旦那」
ジョスさんは、少しも驚いていなかった。
本の人は、私のほうに向き直った。
「名乗るのが遅れた。オクターヴ・アルドワンだ。この乗合を走らせている者だ」
アルドワン公爵。王都で一番古い公爵家の当主で、何年か前に王家の許しを得て、王都に乗合馬車を走らせた方だ。社交界の一部では、陰で「乗合公爵」と呼ばれていると聞いたことがある。
頭の中で、言うべきことがいくつか並んだ。結局、口から出たのは一番正直な言葉だった。
「クレマンス・ベルクールでございます。いつも、お世話になっております」
公爵閣下は、真顔で胸に手を当てた。
「こちらこそ。ご乗車、ありがとうございます」
後ろで、マルトが咳をした。笑いをこらえたのだと思う。
公爵閣下は、私に腕を差し出した。
「同じ乗合で来た者どうしだ。一緒に入らないか」
マルトは、門の脇の供の控えの間へ向かった。私は、公爵閣下の腕に手を載せた。
* * *
「アルドワン公爵閣下、ならびに、ベルクール伯爵家、クレマンス嬢」
大広間の入口で取次が声を張ると、天井の大燭台の下で、人の顔がいっせいにこちらを向いた。
「乗合公爵が……」
「どなたかの手を引いていらっしゃるわ」
「初めてではなくて?」
囁きが、波のように広がっていく。公爵閣下は、それを気にする様子もなく、私の手を腕に載せたまま広間に入った。
壁際に、家族がいた。アンブルの薄桃色の裾は、遠くからでもよく分かった。その隣で、継母が扇を持ったまま固まっていた。
継母は扇を開き、裾を持ち上げて、足早にこちらへやってきた。
「まあ、クレマンス。あなた、どうやって……」
「緑の乗合で参りました。七時十分の便です」
継母の扇が、止まった。それから継母は、公爵閣下のほうへ向き直り、声を一段甘くした。
「閣下、お恥ずかしいところをお見せいたしました。この子は少し変わっておりまして。家の馬車を嫌がって、勝手に乗合などに乗りますの。本当に、家の恥ですわ」
公爵閣下は、首をかしげた。
「乗合馬車は、私の事業だが?」
近くにいた年配の紳士が、ぶふっと吹き出した。慌てて咳払いでごまかしたが、その隣の夫人は、扇の陰で肩を震わせていた。
継母の顔から、色が引いていった。
「そ、そうでございましたわね……」
「それに、彼女が家の馬車を嫌がっていたようには見えない。去年の秋の雨の夜、楡通りの停留所で、伯爵家の紋の馬車が彼女の前を通り過ぎるのを、私は乗合の窓から見た」
父が、継母の後ろから出てきた。額に汗を浮かべている。
「閣下、あれは……アンブルのドレスが嵩張りまして」
「まあ、オクターヴ」
別の声がした。白い髪を高く結い上げた、背の高い老婦人が、杖もつかずに歩み寄ってきた。広間の人たちが、自然に道を開ける。
「あなたが女性の手を引いているなんて、明日は雪かしら」
「母上」
先代の公爵夫人だった。社交界で最も重んじられる女主人の一人で、その方の舞踏会に招かれるかどうかで、令嬢の一年が決まると言われている。
先代公爵夫人は、閉じた扇の先を父に向けた。
「伯爵。いま聞こえたのだけれど、四人乗りの馬車に、お三方とドレスの箱で、上のお嬢さんの席がないの?」
父は口を開けて、そのまま閉じた。
扇の陰の囁きが、さっきより大きくなった。
「乗合で、お一人で?」
「下のお嬢さんの箱に、席を取られたんですって」
「もう何年もですって」
アンブルは、裾の大きなドレスのまま、壁際に立っていた。誰も、アンブルのほうへ一曲目を申し込みに行かなかった。
楽団が円舞曲を始めた。公爵閣下が、私に手を差し出した。
「一曲、いいか」
私が手を載せると、公爵閣下は広間の真ん中まで私を連れていった。乗合の一番奥で本を読んでいた人とは思えないほど、踊りは上手だった。
「怒らないのか」
回りながら、公爵閣下が言った。
「家の馬車のことか、と聞かれれば、少しは」
「少しか」
「乗合が好きなのです」
私は、ドニーズさんの甥御さんが今年パン職人の試験に通ったことを話した。ジョスさんの膝が、雨の前の晩に必ず痛むことも。看護婦さんたちが、夜勤に向かう便で、いつも同じ歌を小さな声で歌っていることも。
「家の馬車に乗っていたら、どれも知りませんでした」
公爵閣下は、黙って聞いていた。曲が終わりに近づいたころ、ぽつりと言った。
「私が乗合を始めたのは、それが聞きたかったからだ」
「それ、とおっしゃいますと」
「馬車を持たない人が、銅貨二枚でどこへでも行けて、隣に座った人と話す。そういう馬車が、王都に欲しかった。……乗合のことを、そういうふうに話す人には、初めて会った」
曲が終わった。公爵閣下は、私の手をすぐには離さなかった。
壁際へ戻ると、令嬢たちが扇を閉じて寄ってきた。
「あの、乗合って、どうやって乗るの?」
「停留所で待って、来たら手を上げるだけです。運賃は銅貨二枚で、後ろの車掌さんに渡します」
「そんなに安いの?」
「私、銅貨って触ったことがないわ」
令嬢たちは顔を見合わせて笑い、今度乗ってみようかしら、と言い合っていた。少し離れたところで、継母がアンブルの手を引いて公爵閣下のほうへ行こうとしていたが、そのたびに誰かが公爵閣下に話しかけ、二人はなかなか近づけなかった。
壁の時計を見上げて、私は公爵閣下の前で膝を折った。
「そろそろ、失礼いたします。最終便が九時四十分ですので」
近くで聞いていた令嬢が、「最終便?」と小さな声で繰り返した。
公爵閣下は、また笑った。今度は、すぐに止まった。
「送ろう。私も、最終便で帰る」
最終便の緑は、時刻ちょうどに王宮前を出た。ジョスさんは、預かっていた外套を公爵閣下に返し、公爵閣下は運賃の銅貨を、ジョスさんの手に載せた。乗合を走らせている方でも、運賃は払うのだった。私の回数券にも、また一つ穴が開いた。
車内には、私とマルトのほかに、これから夜勤に入る看護婦さんたちと、居眠りをしている職人さんがいるだけだった。公爵閣下は、行きと同じ一番奥に座り、私はその隣に座った。
「近いうちに、母が舞踏会を開く」
王宮前を出てほどなく、公爵閣下が言った。
「来てくれないか。迎えの馬車をやる。あなたの席が、確かにある馬車を」
「乗合でも、参りますのに」
「知っている」
公爵閣下は、窓の外を見たまま言った。
「だが一度くらい、迎えに行かせてほしい」
「公爵邸前ー」
ジョスさんの鈴が鳴り、公爵閣下は降りていった。門の前で振り返り、乗合が見えなくなるまで、そこに立っていた。
ジョスさんが、後ろの段から私に笑いかけた。
「お嬢さん。ようございましたねえ」
* * *
翌朝、アルドワン公爵家から、手紙が二通届いた。
一通は「ベルクール伯爵ご一家様」宛ての、あの舞踏会の招きだった。もう一通は「クレマンス・ベルクール嬢」宛てで、当日の夕方に、お迎えの馬車を差し向けます、とだけ書いてあった。
継母は朝食の席で二通とも読み、しばらく黙っていた。それから急に、アンブルの一番いいドレスの話を始めた。
「あの淡い金のドレスがいいわ、アンブル。公爵家の舞踏会ですもの」
「公爵がクレマンスを、か」
父は二通目を手に取って、首をひねった。
「……アンブルのほうが、年頃もちょうどいいと思うんだがな」
数日たった朝には、公爵家の従僕が、白い薔薇を一輪とカードを届けに来た。カードには、角ばった字で一行だけ書いてあった。
回数券の残りは、足りているか。O
私は、同じカードの裏に返事を書いて、従僕に託した。
あと一回ございます。舞踏会の夜は迎えの馬車に乗せていただきますので、足ります。C
舞踏会までのあいだ、継母は私に何も言わなかった。薔薇のことも、カードのことも、聞いてこなかった。それが一番、嫌な感じがした。
舞踏会の日の夕方、約束の時刻より少し前に、玄関の前に黒塗りの馬車が着いた。扉には、アルドワン公爵家の灰色の鷺の紋が付いている。
私は、二階で支度を終えて、階段を下りているところだった。玄関の扉は開いていて、継母の声が聞こえた。
「ご苦労さま。クレマンスは、支度が間に合いませんの。先に妹をお願いね。姉は後から、家の馬車でまいりますから」
御者が何か言いかけたようだった。御者が言いつかってきたのは、たぶん「ベルクール伯爵家のお嬢様をお迎えに」までだったのだろう。どちらのお嬢様かを、伯爵家の玄関先で伯爵夫人に問い返せる御者はいない。私が階段の下まで来たときには、淡い金のドレスの裾が、黒塗りの馬車の中に押し込まれていくところだった。
扉が閉まり、灰色の鷺の紋の馬車は、門を出ていった。
続いて、家の箱馬車が玄関に回ってきた。父が乗り込み、継母が段に足を掛けてから、振り返った。
「あら、あなた、まだいたの。家の馬車にも、あなたの席はないわ。アンブルの予備のドレスが乗っているの」
扉が閉まった。
(公爵家の馬車にまで席がないとは、さすがに思わなかった)
私は、手提げから回数券を出した。残りは、ちょうど一回だった。
「緑の便でございます」
マルトの声は、いつもより低かった。外套を広げる手が、少し震えていた。
「ええ。一回、残しておいてよかったわ」
楡通りの角に、いつもの時刻ちょうどに緑が来た。
「おや、今夜は公爵様のお屋敷ですかい」
ジョスさんが鋏を構えて、私の顔を見て、手を止めた。
「……お嬢さん。何かありましたね」
事情を話すと、向かいの席のドニーズさんが籠を抱えたまま立ち上がった。
「公爵様のお迎えの馬車に、妹さんが乗っていったって!?」
「ドニーズさん、座って。揺れるわ」
「座ってなんかいられますか!」
看護婦さんたちも、職人さんたちも、口々に何か言った。ジョスさんは黙って、最後の穴を開けた。それから、いつもより丁寧に、私に回数券を返してくれた。
「お嬢さん、髪のリボンが曲がってますよ。ちょっと、こっち向いて」
ドニーズさんが、パンの粉の付いた指で、私のリボンを結び直してくれた。
「公爵邸前ー」
ジョスさんの鈴が、いつもより大きく鳴った。ドニーズさんは、王宮前まで乗っていく。降りる私の背中に「しっかりね、お嬢さん!」と声が飛んだ。
* * *
公爵邸前の停留所は、門の真ん前にある。公爵閣下が、お屋敷に通う使用人たちのために置いた停留所だ。
乗合を降りると、マルトは門番に案内されて供の控えへ向かった。私が一人で門をくぐると、前庭に着いたばかりの馬車から降りてきた客たちが、いっせいに振り返った。
「乗合から……」
「あれは、ベルクール伯爵家の」
前庭の奥の大階段の下に、人だかりができていた。灰色の鷺の紋の馬車が止まっていて、その脇に、淡い金のドレスのアンブルが、得意そうに顎を上げて立っている。その隣に、継母と父がいた。階段の上には、先代公爵夫人が立っていた。
そして階段の一段目に、公爵閣下がいた。
近づくと、継母の声が聞こえた。
「――それで閣下、クレマンスは、今夜は気分がすぐれないと申しまして、家に残りましたの。せっかくのお迎えでしたので、代わりにアンブルを」
公爵閣下は、何も答えていなかった。その顔が、継母の肩越しに私を見つけた。
門の外で、ジョスさんの鈴がもう一度鳴った。緑の乗合が、次の王宮前へ出ていく音だった。
公爵閣下が、階段を下りてきた。継母の脇を通り過ぎ、アンブルの前も通り過ぎて、前庭を歩いてくる私のところまで来た。
「来たか」
「はい。緑の、七時十分で」
「そうだろうと思った」
階段の上で、先代公爵夫人が扇を閉じたまま、よく通る声で言った。
「まあ。気分のすぐれない方が、乗合馬車でいらしたのね」
前庭のあちこちで、客たちが笑いをこらえた。こらえきれなかった誰かの笑い声が、植え込みの陰から聞こえた。
継母が振り向いた。私を見て、口を開けたまま、何も言えなかった。
代わりに、アンブルが叫んだ。
「どうして来られるのよ! 馬車には席がなかったはずでしょう!」
前庭が、しんと静まった。
「アンブル!」
継母の声は、もう遅かった。
公爵閣下は、黒塗りの馬車の脇に立っていた御者を振り返った。
「伯爵夫人は、何と言った」
「は、はい。お姉様は支度が間に合わないので、先に妹様を、と。お姉様は後から伯爵家の馬車でお見えになる、と」
公爵閣下は頷き、継母に向き直った。
「伯爵夫人。伯爵家の馬車に、彼女の席はなかった。今夜は、私の家の馬車からも、あなたがたは彼女の席をなくした」
「閣下、これは、何かの手違いで……」
父が前へ出た。
「アンブルも、私の娘でございます。年頃もちょうどよく、きっと閣下のお気に」
「伯爵」
公爵閣下の声は、少しも大きくならなかった。
「私が迎えに行かせたかったのは、三年、乗合で来た人だ」
父は、それきり黙った。
公爵閣下は、私に向き直った。それから、前庭の真ん中で、私の手を取った。
「クレマンス嬢。迎えの馬車は、届かなかった。だから、ここで言う」
公爵閣下は、少しだけ息を吸った。
「私の隣の席に、これから先、ずっと座ってくれないか」
乗合には、いつでも席がある。あの秋の市の日から、私はそれを頼りにしてきた。
けれど、この人の隣の席は、乗合の席とは違う。この人が、私のために空けてくれた席だ。
「……はい」
声が少しかすれたけれど、ちゃんと聞こえたらしい。オクターヴ様は、乗合で笑ったときと同じ顔で笑った。
前庭のどこかで、誰かが手を叩いた。それが二つになり、三つになり、植え込みの陰の笑い声も一緒になって、拍手に変わっていった。
先代公爵夫人が、大階段をゆっくり下りてきた。そして、継母の前で足を止めた。
「伯爵夫人。わたくしの家が迎えの馬車を差し向けたのは、上のお嬢さんお一人でした。その馬車を下のお嬢さんのためにお使いになって、息子に嘘をおっしゃいましたね」
「お、大奥様、それは」
「今夜は、お引き取りを。この先、わたくしの家からのお招きはございません」
継母は、何か言おうとして、言葉にならなかった。父が、先代公爵夫人に深く頭を下げた。アンブルは淡い金の裾を握りしめて、泣き出す前の顔をしていた。
家族が自分たちの箱馬車のほうへ歩き出したとき、先代公爵夫人が、その背中に向かって言った。
「お帰りの馬車には、お席がおありでしょうね」
その夜、私はオクターヴ様と何曲も踊った。
壁の時計が最終便の時刻に近づいたとき、私はいつもの癖で「最終便が」と言いかけた。オクターヴ様は、私が言い終わる前に頷いた。
「知っている。一緒に乗ろう」
帰り際、先代公爵夫人が、私の手を両手で包んだ。
「乗合で来るお嫁さんなら、この家にはちょうどいいわ。あの子の乗合の話を、最後まで聞いてくれる人がいなくて、困っていたの」
* * *
それからのことは、短く済んだ。
下のお嬢さんが公爵家の迎えの馬車に乗り込み、上のお嬢さんは乗合で来た、という話は、あの前庭にいた人の数だけ広まった。伯爵家への招きは、その週のうちに途絶えた。
しばらくして、仕立て屋と宝石商の掛けの取り立てが、一度に屋敷へ来た。これまでのアンブルのドレスと宝石で、合わせて金貨三百枚近くになっていたそうだ。噂を聞いた商人たちが、払いを待ってくれなくなったのだ。父は冬の前に、箱馬車と馬を手放した。それでも足りずに、客間の調度と、継母の首飾りもいくつか売ったそうだ。
そのあとのことは、ジョスさんから聞いた。
「奥様と下のお嬢さんがね、仕立て屋に返しに行くドレスの箱を抱えて、緑にお乗りでしたよ。奥様が、席はあるのかとお聞きになったんでね、申し上げました。乗合には、いつでも席がございます、って」
父からは、公爵家への詫び状と一緒に、婚約の承諾書が届いた。私には一枚だけ、手紙が添えてあった。お前はどうにでもなると思っていた、と書いてあった。私は一度だけ返事を書いた。どうにかなりました、と。
アンブルの箱に入った私のショールは、とうとう返ってこなかった。乗合で寒い思いをしたことは、一度もないけれど。
伯爵家は、いずれ父の甥が継ぐ。私はマルトと一緒に公爵家に移り、婚礼は春に決まった。
婚約の贈り物は、指輪と、新しい回数券が一冊だった。公爵家の舞踏会の帰り、使い切った回数券の代わりに私が銅貨で運賃を払うのを、オクターヴ様は隣で見ていたらしい。
「まだ穴が一つもない。使い切ったら、また渡す」
「公爵家の馬車があるのに」
「乗合が好きだと言ったのは、君だ」
冬の夜会の夜、私たちは、緑の夜の便に乗った。もう楡通りの角からではなく、公爵邸前からだ。
「公爵邸前ー。おや、今夜もお二人ですかい」
ジョスさんが、鈴を鳴らして笑った。ドニーズさんが籠の上から手を振り、看護婦さんたちが小さく手を叩いた。
オクターヴ様は、先に段を上がって、一番奥の席に座った。そして、隣を手で示した。
「君の席は、ここだ」
私は、若草色の裾を少しだけ持ち上げて、そこに座った。
お読みいただきありがとうございます。緑の乗合の二人の続きも、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。




