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婚約破棄された悪役令嬢は、滅びゆく辺境で真の王冠を戴く

作者: シオン
掲載日:2026/09/08


第一章 祝福の日に告げられた断罪


「リディア・アーデルハイト! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


王立学園の卒業記念舞踏会。


未来への希望に満ちるはずだった夜、第一王子エドワードの声が大広間に響き渡った。


壁際で談笑していた貴族たちが、一斉に口を閉ざす。楽団の演奏すら、示し合わせたように途絶えた。


無数の視線が、一人の令嬢へ注がれる。


リディア・アーデルハイト公爵令嬢。


腰まで届く銀髪と、黒曜石のような瞳を持つ十八歳の少女である。


彼女は七歳のときにエドワードの婚約者となり、十一年もの歳月を未来の王妃として過ごしてきた。


語学、歴史、法学、外交、財政、領地経営。


王妃に必要とされるすべてを、彼女は身につけた。


微笑み方を学び、怒りを隠す方法を学び、たとえ足の皮が破れていても舞踏会では優雅に踊り続ける術を学んだ。


国王が倒れた際には、王妃とともに慈善事業を指揮した。


洪水が起きた際には、寝る間を惜しんで救援物資の配分表を作った。


戦争の兆しがあれば、周辺国の言語で書かれた報告書を誰よりも早く読み解いた。


それでも今、エドワードはリディアを指さし、憎々しげに睨んでいる。


王子の腕には、栗色の髪をした少女が寄り添っていた。


男爵令嬢ミレイユ・ローレンス。


半年前に編入してきた、聖なる光の魔力を持つ少女である。


「殿下」


リディアは扇を閉じ、静かに一礼した。


「理由をお聞かせいただけますか」


「まだ白を切るつもりか!」


エドワードが声を荒らげる。


「貴様はミレイユを妬み、陰湿な嫌がらせを繰り返した。教科書を隠し、階段から突き落とし、果ては毒を盛ろうとした!」


大広間がざわめいた。


リディアは一度だけ瞬きをする。


「それは、いつのことでしょう」


「なんだと?」


「教科書を隠した日時、階段から突き落とした場所、毒物が使用された時刻をお尋ねしております」


あまりにも落ち着いた返答だった。


エドワードは一瞬だけ言葉を失い、すぐに苛立ちを露わにする。


「細かいことなど問題ではない! 被害者であるミレイユが、貴様にされたと証言している!」


「証言だけで、王国法第三十二条に定められた証拠の提示を省略なさるのですか」


「貴様はいつもそうだ!」


エドワードは拳を震わせた。


「法だの慣例だのと、私を見下している! 冷たい女め! ミレイユは貴様とは違う。優しく、温かく、私を一人の人間として見てくれる!」


ミレイユが涙を浮かべ、王子の胸に顔を伏せた。


「殿下、私のために争わないでください。リディア様にも、何か事情があったのかもしれません」


「君はなんと優しいのだ、ミレイユ」


王子が感極まったように少女の肩を抱く。


わざとらしい沈黙の後、ミレイユは恐る恐る顔を上げた。


「ただ、もう怖い思いはしたくありません」


「安心しろ。私が君を守る」


誰かが小さくため息をついた。


しかし、それを非難の言葉に変える者はいなかった。


相手は次期国王である。


エドワードの隣には、宰相の息子クライヴ、騎士団長の息子ロベルト、大神官の甥ユリウスが並んでいた。いずれもミレイユと親しくなり、彼女を守る騎士を自称する若者たちだ。


「リディア嬢」


クライヴが眼鏡を押し上げる。


「言い逃れは見苦しい。潔く罪を認めてはどうだ」


「罪を認めれば、寛大な処置を願い出てやる」


ロベルトが続ける。


ユリウスは聖印を握り、悲しげに首を振った。


「嫉妬は心を蝕む毒です。今からでも悔い改めれば、神はあなたをお許しになるでしょう」


リディアは彼らを順番に見た。


それから、壇上に座る国王と王妃へ視線を移した。


国王は苦悩を浮かべ、王妃は凍りついたように動かない。


二人とも、何も言わなかった。


否。


言えないのだ。


エドワードはすでに近衛兵を掌握し、若い貴族たちを味方につけている。この場で王子に恥をかかせれば、王家の分裂が公になる。


そのためにこそ、エドワードは卒業舞踏会という衆人環視の場を選んだのだろう。


リディアは理解した。


これは裁判ではない。


最初から結論の決められた見世物だ。


ならば、彼女がすべきことは一つだった。


「承知いたしました」


リディアは胸元から、王家の紋章が刻まれた首飾りを外した。


「リディア?」


予想外の反応だったのだろう。


エドワードの顔に戸惑いが浮かぶ。


リディアは首飾りを近くの侍従へ預けた。


「十一年間にわたる婚約を、本日をもって解消いたします」


「ま、待て。私はまだ処罰を言い渡していない」


「婚約破棄は、殿下がお望みになったことでは?」


「それはそうだが……」


「また、王国法第八条により、王族との婚約を解消された者は、王宮における任務からも解放されます。わたくしが管理していた公務、帳簿、外交文書、事業計画につきましては、明日中に引き継ぎの手配をいたします」


ミレイユが不安げにエドワードを見上げた。


「公務って、それほど多いのですか?」


「大したことではない」


王子は即座に答えた。


「王妃や官僚に任せれば済む」


その言葉を聞いた王妃が、そっと目を閉じた。


リディアは最後に深く一礼する。


「国王陛下、王妃陛下。これまでお世話になりました」


「リディア、あなたは……」


王妃が何かを言いかけた。


だが、リディアは微笑んで首を横に振った。


もう、遅いのだ。


「それでは皆様、ごきげんよう」


背筋を伸ばし、顔を上げる。


彼女は誰にもすがらなかった。


涙も見せなかった。


嘲笑と好奇の視線が渦巻く大広間を、一人で歩いていく。


扉が閉まる直前、ミレイユの弾んだ声が聞こえた。


「殿下、これで私たちは結ばれるのですね!」


リディアは振り返らなかった。


十一年を捧げた場所に、未練など残してはいけない。


けれど馬車へ乗り込み、扉が閉じられた瞬間。


彼女は胸元を押さえ、小さく息を吐いた。


痛くないはずがなかった。


ずっと分かっていた。


エドワードが自分を愛していないことも。


彼がリディアの忠告を疎ましく思っていたことも。


それでもいつか、同じ国を背負う者同士として、理解し合える日が来ると思っていた。


「お嬢様」


向かいに座った侍女ナタリーが、唇をかみ締めていた。


「泣いてもよろしいのですよ」


「泣いたら、戻れるの?」


ナタリーは答えられなかった。


リディアは窓を開けた。


夜風が銀の髪を揺らす。


王都の灯が、少しずつ遠ざかっていった。


「なら、泣くのは後にするわ」


「これから、どちらへ?」


「北へ行きます」


リディアは暗い空の彼方を見た。


「アーデルハイト公爵家が所有する、ノルディア辺境領へ」


「ですが、あそこは……」


「ええ。作物は育たず、魔獣が現れ、三年続けて人口が減少している。王国で最も貧しい土地」


リディアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「王都の皆様は、わたくしが何もできない悪役令嬢だとお考えなのでしょう」


黒曜石の瞳に、涙ではない光が宿った。


「それなら、ちょうどいいわ。誰にも期待されない土地で、好きに生きてみましょう」


その夜、一人の令嬢が王都を去った。


そして王国は、自らの繁栄を支えていた最後の柱を失った。


第二章 滅びゆく辺境


王都を発ってから十日後。


リディアの馬車はノルディア辺境領へ到着した。


窓の外には、枯れた畑が広がっていた。


北方の山脈から冷たい風が吹き下ろし、大地を覆う。雪解けの季節だというのに土は硬く、農民たちは痩せ細った牛を使って畑を耕していた。


領都と呼ばれる町も、王都の一地区ほどの規模しかない。


石造りの建物は古く、道には穴が目立つ。子どもたちは破れた服を着て、馬車を物珍しそうに眺めていた。


統治館の前では、白髪交じりの男が待っていた。


「リディア様。よくぞ、お越しくださいました」


「あなたが代官のバーナードね」


「はい。先代公爵閣下の時代より、こちらを預かっております」


バーナードは片脚を引きずっていた。


かつて領地を魔獣から守った元騎士である。


リディアは統治館に入ると、旅装を解くより先に帳簿を求めた。


「まずはお休みになっては?」


「状況が分からなければ休めないわ」


「しかし、王都からいらしたばかりで……」


「王都から来たからこそよ。わたくしが使用した宿代や食費も、領民の税から出ているのでしょう」


バーナードは目を見開いた。


やがて、諦めたように積み上げた帳簿を差し出す。


リディアは三日間、部屋にこもった。


収穫量。


人口推移。


租税。


街道の補修費。


魔獣による被害。


王都へ送られる上納金。


数字を追うたび、問題の根が見えてくる。


「バーナード」


四日目の朝、リディアは領地の役人たちを会議室へ集めた。


「この領地は貧しいのではありません」


役人たちが顔を見合わせる。


「は?」


「搾取されているのです」


リディアは机の上に地図を広げた。


「ノルディアの羊毛は南部の三分の一の価格で買い取られている。鉄鉱石は王都の商会に独占され、輸送費を理由に不当に値を下げられている。さらに王都への上納金は、豊作だった十五年前を基準に据え置かれたまま」


「しかし、それは王都の決まりで……」


「決まりではないわ。慣習です。契約書にも法令にも、永続的な義務とは書かれていない」


リディアは羊皮紙を掲げた。


「公爵家の権限で、来月から上納金を半減します」


「そのようなことをすれば、王都の役人が黙っておりません!」


「わたくしも元は王都の人間です。どの役人が、どの法律を根拠に抗議してくるのか楽しみね」


誰も反論できなかった。


「それから羊毛は、王都を経由せず西方のベルク商業連邦へ直接輸出します。鉄鉱石も同様です」


「街道がありません」


「造ります」


「資金がありません」


「あります」


リディアは別の帳簿を開いた。


「王都でいただいた十一年分の王妃教育手当。わたくし個人の資産です」


ナタリーが目を丸くする。


「すべて使われるおつもりですか?」


「ええ」


「お嬢様が王妃になったときのため、ご実家が蓄えていたお金です」


「王妃にはならないもの」


リディアは淡々と答えた。


「使わずに腐らせるより、道に変えた方がいいわ」


それからの日々は、慌ただしく過ぎた。


リディアは村々を回り、住民から直接話を聞いた。


痩せた土地でも育つ北方麦の種を取り寄せ、農民へ無償で配った。代わりに収穫の一部を種籾として返却させ、翌年ほかの農家へ貸し出す制度を設けた。


山から流れる雪解け水を貯めるため、小規模な貯水池を造った。


魔獣対策のため、領兵だけでなく猟師を雇い、討伐報酬を引き上げた。


読み書きのできる者を増やすため、冬の間だけ教会を学校として開放した。


だが、すべてが順調だったわけではない。


「女に何ができる!」


ある村では、古参の村長がリディアに怒鳴った。


「王都の貴族様が、気まぐれで俺たちの生活をかき回すな!」


「そうですか」


リディアは怒らなかった。


「では、何もしません」


「なに?」


「村へ配る予定だった北方麦を引き上げます。貯水池の建設も中止しましょう」


「待て!」


「あなたがおっしゃったのです。生活をかき回すな、と」


村長の顔が赤くなった。


リディアは村人たちを見回す。


「ただし、村長の意見と皆様の意見が同じかどうかは、確認させていただきます」


沈黙の後、一人の若い女性が手を挙げた。


「麦を、育てさせてください」


赤子を抱いた母親だった。


「去年の冬、上の子を亡くしました。食べるものがなくて……。もう、あんな思いはしたくありません」


次に老人が手を挙げた。


さらに若者たちが続く。


やがて村長を除くほぼ全員が、リディアの提案を受け入れた。


「では決まりね」


リディアは村長へ視線を戻す。


「あなた一人の誇りと、村人百二十六名の命。どちらを守るべきか、考えてください」


三日後、村長は統治館まで歩いてきて、頭を下げた。


リディアは謝罪を求めなかった。


ただ、種麦の袋を渡した。


「来年、倍にして返してください」


「必ず」


秋になるころ、リディアがもたらした北方麦は黄金色の穂を実らせた。


それは例年の二倍近い収穫だった。


村人たちは笑い、子どもたちは畑を駆け回った。


収穫祭の夜、広場では素朴な音楽が奏でられた。


リディアは領民たちに誘われ、ぎこちなく輪へ加わる。


「お嬢様、笑ってください!」


ナタリーが叫んだ。


「笑っているわ」


「王都の作り笑いではなくて!」


リディアは言い返そうとして、足をもつれさせた。


隣にいた農婦に支えられ、周囲から笑い声が上がる。


初めて、彼女も声を上げて笑った。


その光景を、広場の端に立つ一人の青年が見つめていた。


旅用の黒い外套をまとった、背の高い男。


金色の瞳を持つ彼は、どこか面白そうに笑っていた。


第三章 北方から来た客人


翌朝、リディアは統治館で昨夜の青年と再会した。


「アルヴィン・レグルスと申します」


青年は胸に手を当て、礼をする。


聞き覚えのある名だった。


北方の大国、レグルス帝国。その皇帝の弟にして、北部軍総司令官。


通称、氷狼公。


無口で冷酷。戦場では一切の慈悲を見せないと噂される人物だ。


「帝国の公爵閣下が、護衛も連れずに収穫祭へ?」


「護衛は連れている。目立たないところにいただけだ」


「わたくしの領内へ無断で入ったことは、認めるのですね」


「祭りへの参加料金が必要だっただろうか」


「祭りではなく、国境の問題です」


リディアが冷ややかに答えると、アルヴィンは声を立てて笑った。


「噂とは、随分違う」


「どのような噂でしょう」


「王子への愛に狂い、聖女を虐げた毒婦」


「ご期待に添えず、申し訳ございません」


「いや。安心した」


アルヴィンは一枚の書状を取り出した。


正式な訪問許可と、帝国皇帝の署名がある。


「前置きは終わりだ。貴領で産出される鉄を、帝国に売ってほしい」


「武器にするのですか」


「一部はな。しかし大部分は農具と鉄道に使う」


「鉄道?」


「蒸気機関で動く車両だ。帝国では実用化に向けた試験を行っている」


リディアの目が輝いた。


アルヴィンはそれを見逃さなかった。


「興味があるか」


「もちろんです。しかし、帝国に鉄を売れば、我が国から敵国への軍事支援と見なされる可能性があります」


「レグルス帝国とアストリア王国は、現在交戦していない」


「十年前に休戦しただけです。平和条約は締結されていません」


「だからこそ、締結すればいい」


アルヴィンは地図を広げた。


「両国の間には、お前の領地がある。交易が始まれば、ここが戦場になる可能性は下がる。自国の利益を焼く者はいない」


「利益が十分なら、でしょう」


「その通りだ」


二人は三日間、交渉を続けた。


鉄鉱石の価格。


関税。


輸送経路。


労働者の待遇。


技術者の派遣。


アルヴィンは決して譲りやすい相手ではなかった。だが、理屈を無視して感情をぶつけることもなかった。


リディアが根拠を示せば、彼は検討する。


彼が代案を出せば、リディアも利益を計算する。


それは彼女にとって、初めて経験する対等な交渉だった。


「では、こちらで」


最終日、リディアが契約書へ署名する。


アルヴィンも隣に名を書き入れた。


「実に楽しい三日間だった」


「わたくしは疲れました」


「それは残念だ。俺はお前を帝国へ連れて帰りたいと思い始めている」


「引き抜きのお話でしたら、お断りします」


「求婚なら?」


リディアのペン先が止まった。


アルヴィンは真顔だった。


数秒の沈黙の後、リディアは契約書を閉じる。


「冗談はおやめください」


「冗談に聞こえたか」


「出会って三日です」


「交渉相手としてのお前は十分に理解した」


「それは人格の一部にすぎません」


「では、残りを理解するために滞在を延ばそう」


「公爵閣下には、お仕事があるのでは?」


「皇帝である兄から、良質な鉄を確保するまで帰ってくるなと言われている」


「契約は成立しました」


「より良い鉄が見つかるかもしれない」


あまりに平然とした言葉に、リディアは眉をひそめた。


アルヴィンは楽しそうに笑う。


「そのような顔もするのだな、リディア」


「馴れ馴れしく名前を呼ばないでください」


「俺のことはアルヴィンでいい」


「お話を聞いていらっしゃいましたか?」


その日から、アルヴィンは辺境領に居着いた。


彼は帝国の技師を呼び寄せ、鉱山と領都を結ぶ鉄道の試験路線を提案した。


工事には多くの領民が雇われた。


現場で問題が起これば、アルヴィン自身が泥にまみれて確認した。


魔獣が現れた際には剣を取り、領兵の先頭に立った。


冷酷な氷狼という噂とは違い、彼は働いた者に正当な報酬を与え、怪我人を見捨てなかった。


それでもリディアは警戒を解かなかった。


一度捨てられた心は、簡単には誰かを信じられない。


そんな冬の夜。


猛吹雪の中、一人の少年が統治館へ駆け込んできた。


「助けてください! 妹が熱を出して!」


医師は隣村へ往診に出ていた。


道は雪に埋まり、馬車は使えない。


リディアは外套を取った。


「案内して」


「お嬢様が行くのですか?」


「王妃教育で応急処置と薬草学を学びました」


ナタリーが止める間もなく、リディアは外へ出た。


少年の家は山裾にあった。


だが吹雪は激しさを増し、途中で少年が足をくじいた。


リディアは少年を背負おうとする。


そこへ、大きな影が現れた。


「何をしている」


アルヴィンだった。


彼は少年を軽々と抱き上げ、リディアへ自分の外套をかける。


「なぜ来たのですか」


「お前が吹雪の中へ消えたと聞いた」


「領民の命がかかっています」


「お前の命も命だ」


強い口調だった。


リディアは何も言えなくなる。


三人はようやく少年の家へたどり着いた。


リディアは少女の体を冷やし、持参した薬草を煎じた。アルヴィンは火を起こし、雪を溶かして湯を作った。


夜明け前、少女の熱は下がった。


帰り道、吹雪も弱まっていた。


「ありがとう」


リディアが言う。


「珍しいな。お前が素直に礼を言うとは」


「礼くらい言えます」


「では、もう一度求婚してみるか」


「なぜそうなるのです」


アルヴィンは立ち止まった。


「俺は、守られるだけの妻を求めていない」


金色の瞳がリディアを映す。


「隣に立ち、ともに国を動かせる相手を求めている。お前が転びそうなら支える。俺が誤れば、お前に止めてほしい」


「わたくしは失敗しました」


リディアは雪原へ目を落とした。


「十一年かけても、未来の王を正しく導けなかった」


「一人の愚か者を教育できなかった程度で、自分の価値を疑うのか」


「愚か者だなんて……」


「公の場で無実の婚約者を断罪し、証拠を求められて逆上する男だ。十分に愚かだろう」


反論できなかった。


「リディア」


アルヴィンが手を差し出す。


「今すぐ答えを求めるつもりはない。お前が自分の人生を取り戻すまで待つ」


リディアは、その手を見つめた。


やがて握る代わりに、彼の手袋についた雪を払った。


「待っていただく必要はありません」


「それは断りか?」


「保留です」


アルヴィンは目を細める。


「ならば、待つ価値はある」


春が来るころ、二人の間には言葉にしがたい信頼が芽生えていた。


同じころ。


王都では、破滅の種が静かに芽吹いていた。


第四章 王都の崩壊


リディアが去った翌月。


王宮では、慈善院へ送られるはずの資金が停止した。


「どういうことだ!」


エドワードは財務官を怒鳴りつけた。


「リディアが毎月、支出の承認を行っておりました」


「ならば別の者にやらせろ!」


「殿下の署名が必要です」


差し出された書類は、百枚を超えていた。


孤児院の運営費。


診療所への補助金。


老朽化した橋の修復費。


洪水対策費。


エドワードは最初の三枚を読んだところで放り出した。


「こんなものは官僚に任せろ!」


「最終決裁は王族の任務でございます」


「父上に回せ」


「陛下はご病気でございます」


「ならば母上だ!」


「王妃陛下は外交使節への対応で、お時間がございません」


以前なら、リディアが草案を整理し、重要な点に印をつけ、エドワードへ説明していた。


彼は署名するだけでよかった。


それすら面倒がっていたことを、王子は忘れている。


「ミレイユなら手伝ってくれるな?」


執務室の長椅子で菓子を食べていたミレイユは、びくりと肩を揺らした。


「わ、私、難しいことは分かりません」


「少し目を通すだけでいい」


「でも、今日は新しいドレスを選ぶ約束が……」


その日、書類は放置された。


一週間後、王都南部の堤防が崩れた。


補修費の決裁が遅れたためだった。


多数の家屋が水に浸かり、人々は王宮へ押しかけた。


「リディアなら、もっと早く気づいていた!」


王妃は珍しく声を荒らげた。


「彼女は半年前から堤防の危険性を報告していました!」


「私は聞いていません!」


「説明を聞かずに、書類を暖炉へ投げ込んだのはあなたでしょう!」


エドワードは唇をかんだ。


そのころ、ミレイユは王太子妃として社交界へ出ていた。


彼女は笑顔が愛らしく、流行にも敏感だった。


しかし国賓の前で帝国の国章を「怖い狼の絵」と笑い、神殿の式典では聖句の順序を間違えた。


穏健派の大臣を「地味なおじさん」と呼び、商人たちの献上品を「安っぽい」と口にした。


そのたび、周囲が取り繕った。


「私は平民に近い感覚を忘れたくないの」


ミレイユはそう主張した。


だが、毎月新しい宝石を求める彼女の支出は、かつての王妃とリディアを合わせた額を超えていた。


さらに、彼女を支えていた若者たちも問題を起こし始める。


宰相の息子クライヴは、父の許可なく税制改革を発表した。


税率を一律に下げれば民が喜ぶと思ったのだ。


結果、財源が不足し、兵士の給与が遅れた。


騎士団長の息子ロベルトは、実戦経験のない新米を抜擢し、古参の騎士たちを「時代遅れ」と追放した。


国内の治安は急速に悪化した。


大神官の甥ユリウスは、ミレイユを正式な聖女と認定するため、神殿の資金を大量に使った。


しかし、ミレイユの光の魔力は美しく輝くだけで、傷一つ治せなかった。


「おかしいわ」


戴冠式の予行で、ミレイユは首をかしげた。


「学園では、みんな私を聖女だと言ってくれたのに」


彼女は名門の子息たちが示した好意を、天から与えられた証明だと思っていた。


だが彼らが彼女に夢中になったのは、聖なる力のためではない。


「あなたは間違っていない」と微笑み、面倒な責任から逃げる口実を与えてくれるからだった。


夏には、王都で食料価格が高騰した。


ノルディアからの麦が入ってこなくなったためである。


「なぜ辺境の麦が必要なのだ!」


エドワードは商務官に詰め寄った。


「従来、北方麦の多くは家畜用でした。しかし南部で干ばつが発生し、人が食べる小麦が不足しております」


「ならばノルディアに供出を命じろ!」


「すでに使者を送っております」


「返答は?」


商務官は一枚の書状を差し出した。


そこには、流麗な文字でこう記されていた。


『当領は昨年、王都より飢饉救済の要請を拒絶されました。現在の備蓄は領民の生命を守るために必要なものです。余剰分については正当な価格で販売いたします』


エドワードは書状を握りつぶした。


「リディアめ! 王家へ逆らうつもりか!」


「殿下」


宰相が重い声で告げる。


「ノルディアの要求は、王国法に照らして正当でございます」


「王国法、王国法! どいつもこいつも!」


エドワードは机を殴った。


「リディアがいなくなってから、なぜ何もかもうまくいかない!」


誰も答えなかった。


答えは、あまりに明白だったからだ。


第五章 聖女の涙と毒の証拠


秋。


王都からノルディアへ、予告のない一団がやってきた。


豪華な馬車から降りたのは、ミレイユだった。


「リディア様!」


ミレイユは統治館の玄関で、悲劇の主人公のように胸を押さえた。


「どうか、王都へ戻ってください!」


リディアは執務机から顔を上げた。


「なぜですか」


「殿下が苦しんでいます。国も大変なんです」


「存じております」


「なら、どうして助けてくださらないのですか?」


ミレイユは信じられないという顔をした。


「王妃になるために、ずっと勉強してきたのでしょう?」


「婚約を破棄されたからです」


「でも、国民に罪はありません!」


「国民のために、わたくしは麦を販売すると申し上げました」


「もっと安くしてください。できれば無料で」


「お断りします」


ミレイユの瞳に涙が浮かぶ。


「ひどい……。リディア様は、やっぱり冷たい方です」


「あなたは今、宝石をいくつ身につけていますか」


「え?」


「首飾り、耳飾り、腕輪、指輪。馬車は金細工で飾られ、護衛は二十人。彼らが乗る馬も、我が領の農耕馬より多くの穀物を消費するでしょう」


ミレイユの顔が強張った。


「国民のためとおっしゃるなら、まずご自分の宝石を売ってはいかがです?」


「これは殿下からいただいたものです!」


「では、殿下にお返しください」


「そんなことをしたら、嫌われてしまいます!」


「それがあなたの本音でしょう」


室内が静まり返った。


「国民を救いたいのではない。殿下に嫌われたくない。面倒な仕事はしたくない。だから、かつてそれを引き受けていたわたくしを連れ戻そうとしている」


「違います!」


「では、王都へ戻って何をしろと?」


「前と同じように、殿下を支えてください」


「あなたとの結婚を祝福しながら、殿下の公務を代行し、失策の責任だけ負えと?」


ミレイユは口を閉ざした。


おそらく、それがどれほど身勝手な要求なのか、初めて気づいたのだろう。


しかし次の瞬間、彼女は袖の中から小瓶を取り出した。


「リディア様が悪いのよ」


震える指で、透明な液体を杯へ注ぐ。


「あなたが帰らないから。あなたが私を許さないから」


リディアは立ち上がった。


「何をしているの?」


「これを飲んで、あなたに毒を盛られたと言います」


ミレイユは涙を流しながら笑った。


「そうすれば、殿下があなたを捕まえてくださる。王都へ連れて帰れば、また仕事をしてもらえるわ」


「その瓶を置きなさい」


「近づかないで!」


ミレイユは杯を口元へ運ぶ。


扉が開いた。


「そこまでだ」


アルヴィンとバーナード、そして数名の兵士が入ってきた。


ミレイユの手から杯が落ちる。


「な、なぜ……」


「最初から記録していた」


アルヴィンが壁際を指す。


帝国製の魔力記録器が設置されていた。音声と映像を魔石へ保存する試作品である。


リディアは目を見開く。


「わたくしも知りませんでした」


「言えば、お前は客人を疑うのは失礼だと止めただろう」


「当然です」


「だから黙っていた」


ミレイユは青ざめた。


「違うの! 脅されたんです! リディア様に、そう言えって!」


「今、すべて記録されていると言ったばかりだが」


アルヴィンの指摘に、ミレイユは言葉を失う。


バーナードが小瓶を布で包んだ。


「以前、リディア様が毒を盛ろうとしたと証言されましたな」


「あれは……」


「同じ毒でしょうか」


小瓶には、王宮薬剤庫の印が刻まれていた。


さらに調査すると、驚くべき事実が判明した。


学園で毒殺未遂が起きたとされる日、薬剤庫から同じ毒が持ち出されていた。


持ち出した者の署名は、ミレイユ。


彼女はリディアを陥れるため、自分の料理へ毒を入れようとした。


だが怖くなり、直前で皿を落とした。


そして「リディアに毒を盛られた」と訴えたのである。


教科書を隠したのも自分。


階段から落ちたのも自作自演。


「だって、仕方なかったの!」


拘束されたミレイユは泣き叫んだ。


「殿下が好きだったの! 自分の運命を変えたかった!」


「だから、わたくしの人生を奪おうとしたのですか」


「あなたは何でも持っていたじゃない! 家柄も、美貌も、才能も!」


リディアは静かに答えた。


「あなたが欲しがったものを得るために、わたくしが努力していないと思っていたのね」


毎朝五時に起き、日付が変わるまで勉強した。


友人と遊ぶ時間を削り、公務を優先した。


感情を押し殺し、理不尽な批判にも耐えた。


それらはミレイユには見えていなかった。


彼女が見ていたのは、完成したドレスと王子の隣という席だけだ。


「ミレイユ・ローレンス」


リディアは告げた。


「あなたを王国法に基づき拘束します。身柄は中立国の立会人を加えた上で、王都へ引き渡します」


「嫌よ!」


「わたくしを陥れたとき、あなたは法ではなく殿下の愛を選びました」


ミレイユの顔から血の気が失せる。


「しかし今度は違います。あなたには裁判を受ける権利がある」


それがリディアとミレイユの違いだった。


リディアは、自分を陥れた相手からさえ法を奪わなかった。


第六章 公開裁判


ミレイユの身柄が王都へ送られると、国中が騒然となった。


国王は事態を放置できず、公開裁判の開催を決定した。


リディアも証人として王都へ召喚される。


一年ぶりに見る王都は、以前の輝きを失っていた。


閉店した商店。


給与を減らされた兵士。


パンを求めて列を作る人々。


王宮へ入ったリディアを見て、かつて彼女を嘲笑した貴族たちは気まずそうに目をそらした。


裁判当日。


大法廷には国王夫妻、王子、重臣、周辺国の大使が集まった。


アルヴィンも帝国の代表として同席している。


ミレイユは証言台に立ち、震えていた。


魔力記録器が再生される。


『これを飲んで、あなたに毒を盛られたと言います』


自らの声が法廷へ響き渡ると、ミレイユはその場へ崩れ落ちた。


次に、王宮薬剤庫の管理官が証言した。


「毒を持ち出したのは、ミレイユ嬢です」


学園の教師も続いた。


「リディア様が教科書を隠したとされる時刻、彼女は私とともに隣国の大使を出迎えておりました」


侍女が証言する。


「階段から落ちた日、ミレイユ様は一人で練習されていました。周囲に人が集まってから、リディア様に押されたとおっしゃったのです」


すべての疑いが晴れた。


今度は、エドワードへ視線が集まる。


国王が息子を見据えた。


「エドワード。お前は調査を命じたのか」


「ミレイユが泣いて訴えたのです!」


「問うているのは、調査をしたかどうかだ」


「彼女の言葉を信じることが、愛だと思ったのです」


「答えになっていない!」


国王の怒声が法廷を揺らした。


「王たる者は、証言と証拠を区別しなければならぬ! 己の愛情と国家の法を混同してはならぬ!」


エドワードはリディアを見た。


「リディア」


一年ぶりに、彼は彼女の名を呼んだ。


「私が間違っていた」


「そうですね」


あまりに簡潔な返答に、王子の顔が歪む。


「謝罪する。だから、戻ってきてほしい」


法廷がざわめいた。


「ミレイユとの婚約は解消する。改めて、君を王太子妃として迎えたい」


「お断りいたします」


リディアは即答した。


「なぜだ! 君は王妃になるために生きてきたのだろう!」


「いいえ」


リディアは、真っすぐ彼を見た。


「そう生きるよう命じられていただけです」


「私は反省した! 今度こそ君の意見を聞く!」


「それは、わたくしを愛しているからですか。それとも、わたくしがいなければ国を治められないからですか」


エドワードは黙った。


その沈黙が答えだった。


「ミレイユ様は、殿下に心地よい言葉を与えました。わたくしは、殿下に必要な言葉を申し上げました」


「これからは、必要な言葉を聞く!」


「国が傾くまで、その価値に気づかなかった方を信じろと?」


リディアの声は静かだった。


だが、法廷の隅々まで届いた。


「殿下は、わたくしの婚約者である前に、この国の王太子でした。感情で法を曲げ、証拠もなく臣下を罪人と決めつけた。その事実は、謝罪だけで消えるものではありません」


エドワードは国王を振り返った。


「父上!」


「王太子エドワード」


国王は玉座から立ち上がった。


一年前より、ずっと老けていた。


「お前の王位継承権を剥奪する」


「そんな!」


「余は父として、お前を甘やかした。王として、リディア嬢一人にあまりにも多くを背負わせた」


国王はリディアへ頭を下げた。


列席者から息をのむ音が聞こえる。


「すまなかった」


リディアは目を伏せた。


「謝罪を、お受けいたします」


「許してくれるか」


「それは、別の話でございます」


国王はしばらく彼女を見つめ、やがて苦い笑みを浮かべた。


「もっともだ」


ミレイユには、爵位剥奪と北方修道院への終身奉仕が言い渡された。


教会で病人や孤児の世話をし、生涯をかけて償うことになる。


クライヴは官職を失い、横領にも等しい独断的な財政運営について賠償を命じられた。


ロベルトは騎士団を追放され、国境の鉱山警備隊へ送られた。


ユリウスは聖職者の資格を剥奪された。


エドワードは離宮へ幽閉されることになった。


法廷を出る直前、彼がリディアを呼び止める。


「君がもう少し優しくしてくれていたら、私は間違わなかった」


リディアは足を止めた。


一年間抱えていた最後の痛みが、その言葉で消えていくのを感じた。


「殿下」


彼女は振り返る。


「それが、あなたが王になれなかった理由です」


「何?」


「いつも、ご自分の失敗を他人のせいになさる」


エドワードの顔が青ざめる。


「わたくしが厳しかったから。ミレイユ様が誘惑したから。陛下が甘やかしたから」


「違う、私は……」


「あなたが選んだのです」


リディアは、はっきりと言った。


「婚約破棄も。冤罪も。公務を放棄したことも。すべてあなた自身が選んだ。誰かに責任を押しつけている限り、あなたは何度でも同じ間違いを繰り返します」


もう、彼の返事を聞く必要はなかった。


リディアは前を向いた。


法廷の出口では、アルヴィンが待っている。


「終わったか」


「ええ」


「泣かないのか」


「あの夜に、泣くのは後にすると決めました」


「今なら泣いてもいい」


アルヴィンが両腕を広げる。


「慰める準備はできている」


リディアは呆れたように見上げた。


そして、一歩だけ近づく。


「少しだけ、お借りします」


彼の胸に額を預けた瞬間。


十一年間、外すことのできなかった鎧が、ようやく音を立てて崩れた。


リディアは泣いた。


失った年月のために。


報われなかった努力のために。


それでも自分を捨てず、ここまで歩いてきた少女のために。


アルヴィンは何も言わず、ただ彼女を抱きしめていた。


第七章 王冠を選ぶ者


裁判から三か月後。


ノルディアへ、国王から正式な書状が届いた。


リディアを新たな王位継承者に迎えたい。


血筋としても資格がある。リディアの母は国王の従妹であり、王家の血を引いていた。


重臣たちも、彼女こそ次代の統治者にふさわしいと考えた。


「王になればよい」


アルヴィンは平然と言った。


「随分、簡単におっしゃいますね」


「お前なら務まる」


「務まることと、望むことは違います」


リディアは窓の外を見た。


鉄道の試験車両が、煙を上げながら走っている。


街道には商人の馬車が連なり、畑には北方麦が揺れていた。


一年前には閉ざされていた店が再び開き、広場からは子どもたちの笑い声が聞こえる。


「わたくしが王都へ戻れば、ノルディアはどうなるでしょう」


「代官に任せればいい」


「かつてのわたくしなら、そう考えたでしょうね」


王妃になることが、最も多くの人を救う道だと思っていた。


けれど辺境へ来て知った。


国を救う方法は、一つではない。


玉座に座らなくても、人を守ることはできる。


「わたくしは、王にはなりません」


リディアは国王へ返書を送った。


代わりに求めたのは、ノルディアの自治権拡大だった。


独自に外国と通商条約を結ぶ権利。


領内の税額を決める権利。


魔獣討伐軍を保持する権利。


国王は悩んだ末、それを認めた。


王国は弱体化し、レグルス帝国との安定した交易路を必要としていた。ノルディアを敵に回す余裕はなかったのである。


それから間もなく。


アルヴィンは再びリディアを丘へ呼び出した。


二人の前には、雪解けを迎えた領地が広がっている。


「リディア・アーデルハイト」


アルヴィンは片膝をついた。


「俺と結婚してほしい」


差し出された箱には、大粒の宝石ではなく、小さな黒曜石の指輪が入っていた。


リディアの瞳と同じ色だった。


「わたくしは帝国へ行きません」


「俺がこちらへ来る」


「北部軍の指揮は?」


「半年ごとに往復する」


「わたくしは愛想の良い妻にはなれません」


「知っている」


「意見が合わなければ、容赦なく反対します」


「望むところだ」


「仕事を優先する日もあります」


「俺もだ」


「子どもを持たない選択をするかもしれません」


「二人で決めればいい」


一つ答えるたび、リディアの中に残っていた恐れが消えていく。


「最後に一つ」


「なんだ」


「わたくしが王子に捨てられた、哀れな令嬢だから選んだのではありませんね?」


アルヴィンは不満そうに眉を寄せた。


「俺が求婚しているのは、吹雪の中で領民を救いに行き、商談では銅貨一枚も譲らず、自分を陥れた者にすら裁判を受けさせた女だ」


彼はリディアの手を取る。


「過去の誰かに捨てられた女ではない。今、俺の目の前にいるお前を選んだ」


リディアはしばらく彼を見つめた。


やがて、黒曜石の指輪を手に取る。


「では、条件があります」


「聞こう」


「ノルディアと帝国北部を結ぶ鉄道を、三年以内に完成させること」


「求婚の返事に国家事業をつける女は、帝国中を探してもお前だけだろうな」


「嫌ですか?」


「まさか」


アルヴィンは笑った。


「喜んで受けよう」


リディアは彼へ左手を差し出す。


「わたくしも、お受けいたします」


指輪が薬指にはめられた。


丘の下から、歓声が上がる。


振り向くと、ナタリーやバーナード、工事の作業員までが隠れていた。


「皆、何をしているの!」


「公爵閣下に頼まれまして!」


バーナードが笑う。


「お断りになった場合は、気づかれぬよう撤収する予定でした」


「最初から成功すると思っていた」


アルヴィンが胸を張る。


「その自信はどこから来るのです?」


「一年待った。これ以上待たせるなら、お前の方が悪い」


「責任転嫁なさらないでください」


リディアはそう言いながら、笑っていた。


王都で身につけた作り笑いではない。


誰かの期待に応えるためでもない。


自分の意志で選んだ人生を祝福する、心からの笑顔だった。


最終章 悪役令嬢の戴冠


三年後。


ノルディアとレグルス帝国北部を結ぶ、大陸初の国際鉄道が完成した。


開通記念式典には両国の代表だけでなく、ベルク商業連邦や南方諸国の使節も訪れた。


辺境と呼ばれた土地は、大陸交易の中心地へ成長していた。


鉱山で採れた鉄。


北方麦。


羊毛。


帝国の機械技術。


西方の染料と香辛料。


品物だけではない。


人が行き交い、知識が集まり、新しい仕事が生まれた。


飢えに苦しんだ子どもたちは学校へ通い、成人した若者たちは他国の言葉を学んだ。


魔獣の襲撃は、訓練された辺境守備隊によって激減した。


領民たちは、リディアをこう呼ぶようになった。


北方女王。


正式な王位ではない。


けれど、誰かから与えられた呼び名でもなかった。


彼女に救われた人々が、自ら敬意を込めて贈った称号である。


鉄道開通式の日。


リディアは深い青の礼服をまとい、壇上に立った。


隣にはアルヴィンがいる。


二人は結婚後も、それぞれの地位と姓を保っていた。


どちらかが従属するのではない。


対等な統治者として、ともに歩むためである。


「三年前」


リディアは集まった人々へ語りかけた。


「この土地には、何もないと言われていました」


枯れた大地。


崩れかけた家。


飢えた子ども。


希望を失った人々。


「しかし、本当に何もなかったのでしょうか」


聴衆の中には、あの日リディアを怒鳴りつけた村長もいる。


彼は今、北方麦の栽培指導者として周辺地域を回っていた。


「ここには鉄がありました。羊がいました。厳しい冬を生き抜く知恵がありました。何より、諦めずに働く人々がいました」


拍手が起こる。


「価値がなかったのではありません。価値を見ようとする者がいなかっただけです」


それは、かつてのリディア自身にも向けた言葉だった。


冷たい女。


可愛げがない。


愛されない。


王子の隣にいるから価値がある。


そう思い込まされていた少女へ。


「人も、土地も、誰かに選ばれなければ価値を持てないわけではありません」


リディアは胸を張った。


「わたくしたち自身が、自らの価値を見つけ、育て、未来を選ぶのです」


汽笛が鳴った。


真新しい列車が、ゆっくりと動き出す。


群衆が歓声を上げ、子どもたちが列車を追いかけた。


式典を終えた後、リディアは駅舎の二階からその光景を眺めていた。


アルヴィンが隣へ来る。


「いい演説だった」


「あなたが褒めるなんて珍しいですね」


「俺はいつも褒めている」


「半分はからかっているでしょう」


「愛情表現だ」


「分かりにくいです」


窓の向こうで国旗が揺れている。


アストリア王国とレグルス帝国。


かつて争った二つの国の旗が、同じ風になびいていた。


「王都から手紙が届いた」


アルヴィンが一通の封書を渡す。


差出人は王妃だった。


国王は病を理由に退位し、傍系王族から選ばれた新王が即位したという。


新王は堅実な人物で、議会と協力して再建を進めていた。


エドワードは離宮で歴史と法を学び直している。


以前のように他人を責めることは少なくなったらしい。


ミレイユは修道院で、病人の衣服を洗う仕事をしている。


初めのうちは逃げ出そうとしたが、最近は孤児たちに文字を教え始めたという。


リディアは手紙を畳んだ。


「満足か?」


アルヴィンが尋ねる。


「何がです?」


「お前を傷つけた者たちが、相応の報いを受けた」


リディアは少し考える。


かつて、自分を嘲笑した者たち。


冤罪を信じ、断罪を見物していた貴族たち。


彼らの多くは失脚し、ある者は財産を失い、ある者は爵位を失った。


だが、それを喜びたいとは思わなかった。


「いいえ」


「そうか」


「彼らの不幸を望むほど、わたくしは暇ではありません」


リディアは遠ざかる列車を見つめる。


「わたくしの幸福は、彼らが不幸になることで完成するものではないから」


アルヴィンが笑った。


「やはり、お前は恐ろしいな」


「どういう意味です」


「最高の復讐とは、相手の存在がどうでもよくなるほど幸福になることだ」


その言葉に、リディアも小さく笑う。


「では、わたくしは十分に復讐を果たしたようですね」


眼下の広場では、領民たちが祝宴の準備を始めていた。


長い机にパンと肉料理が並べられ、大きな鍋から湯気が立ち上る。


かつて飢えていた土地で、誰もが腹いっぱい食べられる祭りが開かれようとしている。


「行くぞ、リディア」


アルヴィンが手を差し出した。


「皆がお前を待っている」


リディアはその手を取る。


王子から与えられるはずだった王冠は、結局手に入らなかった。


けれど、惜しいとは思わない。


黄金と宝石で作られた王冠よりも、ずっと誇らしいものを手に入れたからだ。


領民の信頼。


対等な伴侶。


自分の意志で選んだ未来。


そして何より、誰の隣に立たずとも揺らがない、自分自身の価値。


悪役令嬢と呼ばれた少女は、もういない。


そこにいるのは、滅びゆく辺境を蘇らせ、大陸の未来を変えた一人の統治者だった。


階段を下りるリディアを見つけ、人々が歓声を上げる。


「北方女王万歳!」


「リディア様、万歳!」


その声は、王宮で浴びた嘲笑よりも大きく、どこまでも温かかった。


かつて彼女を捨てた王子は知らない。


自分が手放した令嬢が、王冠など必要としないほど偉大な存在になることを。


かつて彼女を陥れた少女も知らなかった。


他人から奪った幸福は、決して自分を満たしてはくれないことを。


リディアは広場の中央に立つ。


春の光が銀の髪に降り注いだ。


「皆様」


彼女が呼びかけると、人々が静かになる。


リディアは笑った。


もう二度と、誰かに愛されるために笑う必要はない。


「新しい時代を、始めましょう」


再び汽笛が鳴り響く。


それは、一人の悪役令嬢が自らの人生を取り戻したことを告げる、祝福の鐘のようだった。


完

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