冤罪で婚約破棄された私の『愛した記憶』は偽物でした――本物の恋は、十年前に盗まれていました
「エルシア・ヴェルネ。お前との婚約を、この場で破棄する」
シャンデリアの下、三百人の招待客の前で、私の婚約者はそう宣言した。
グラシウス公爵家の夜会。楽団が音を失い、扇の陰のささやきが、さざ波のように広間を走る。
レナード・グラシウス公爵子息。金の髪に完璧な微笑。七年前に婚約が整って以来、私が愛してきた――はずの、ひと。
「理由を、うかがっても?」
声は震えなかった。それだけが誇りだった。
「白々しいな」レナード様は嗤った。「お前は俺を愛したことなどない。そればかりか――余所の男と通じていた。そうだろう?」
「身に覚えがありません」
「証人ならいる」
彼が指を鳴らすと、見知った令嬢たちが進み出た。お茶会で隣に座った方。舞踏会で扇を貸してくださった方。
「見ましたわ。東屋で、殿方と寄り添っておいでのところを」
「わたくしも。手袋を交換していらしたわ。あれは恋人の作法ですもの」
見事なものだ、と他人事のように思った。日付も、場所も、ドレスの色まで揃っている。脚本があるのなら、台詞が上手いはずだった。
反論しようと口を開いて――喉の奥で、言葉が凍った。
だって、私は。
私は、自分の記憶を信じていない。
レナード様を愛した記憶なら、ある。春の庭園で薔薇を贈られた。冬の観劇で肩掛けをかけられた。思い出せる。ぜんぶ思い出せる。
思い出せるのに――手触りが、おかしいのだ。
他人の日記を書き写した文字のように、どこにもインクの匂いがしない。めくってもめくっても、紙の下に体温がない。三年前からずっと、私はその違和感を、誰にも言えずに抱えてきた。
自分の心すら、証人にできない。
冤罪を着せられた夜に、それがどれほど致命的か――皆さまはご存じないでしょう。
「沈黙は肯定と受け取る」レナード様は満足げに頷いた。「ヴェルネ伯爵家との縁組は白紙とする。違約の責はそちらにある。持参された霊脈の権利書は、慰謝として当家が預かる」
ああ、と思った。
そういうこと。欲しかったのは私の潔白の反対側――権利書と、違約金と、それから。
「紹介しよう。新たな婚約者、ミルレーヌ嬢だ」
彼の腕に、南部の侯爵家の姫君がするりと収まった。あちらの家の霊脈は、うちの三倍広い。
拍手が起きた。まばらに始まり、やがて広間を満たした。
私はひとり、三百人の拍手の中に立っていた。
◇
帰りの馬車には、護衛騎士がひとりだけ付いた。
ユーグ。ヴェルネ家の先代護衛長の息子で、私より三つ上。無口で、剣の腕だけで今の地位に上がった人。彼はいつもどおり、御者台の隣ではなく、あえて馬で車窓の横に付いた。
「……あなたは、私を軽蔑しないのね」
窓越しに問うと、彼は前を向いたまま答えた。
「契約ですから」
素っ気ない。いつもどおりに。
ただ、手綱を握る彼の手の甲に、筋が浮いていた。ちぎれそうなほど強く、革を握り込んでいた。
それから彼の視線が、一瞬だけ――ほんとうに一瞬だけ、私の髪に落ちた。
銀細工の、鈴蘭の髪飾り。
いつから着けているのか、自分でも思い出せない。ただ、これを外すと落ち着かないのだ。今夜のような夜会にすら、ドレスに合わないと侍女に渋られても、私はこれを手放せない。
「……ユーグ。この髪飾り、変かしら」
「いいえ」
即答だった。それきり、彼は屋敷まで一度も私を見なかった。
◇
その夜半のことだ。
眠れずに窓辺へ寄ると――部屋の中に、女がいた。
悲鳴は出なかった。出せなかった、のほうが正しい。女の佇まいが、あまりに静かだったから。
黒衣。異国ふうの、身体に沿う奇妙な仕立て。年の頃は私と幾つも違わないように見えるのに、目だけが、深い井戸のようだった。
女は胸に手を当て、すっと腰を折った。東の国の礼だ、と後で知った。
「夜分に、御免」
「……どちらさま」
「通りすがりの検死官です」女は顔を上げた。「今夜は、死んでいない方の検分に参りました」
意味が分からなかった。分からないのに、逃げようとは思わなかった。
女は三歩、私に近づいた。夜気が動いて、微かに香が匂った。白檀と、それから、雪の匂い。
「――あなたの灯から、贋作の匂いがいたします」
「……灯?」
「魂のことです。この国の言葉では」
女は指を一本立て、私の胸の前に――触れるか触れないかの距離に――かざした。そして、見えない糸を手繰るような仕草をした。
胸の奥で、何かが、きしんだ。
「ああ、やはり」女は目を細めた。「接ぎ目があります。あなたの中の『公爵子息を愛した三年』――あれは、後から植え付けられた偽物の記憶だ。それも、たいそう上等な仕事です」
息が、止まった。
三年間の違和感に、初めて名前が付いた。インクの匂いのしない日記。体温のない紙。あれは。
「偽物、だったの」
「はい」
「では、私は……私が本当に愛したものは」
女は答えなかった。代わりに、手繰る指が、すっと下がった。胸のもっと深いところ。
「……こちらは、ひどい」
女の声が、初めて低くなった。
「何度も、何度も、記憶を消された痕がある。まるで切り株だらけの野だ。……十年分」
◇
女は説明のあいだ、私の胸の前で、細い指を針のように立てていた。
「記憶は、灯に刻まれています。そして呪いの針を使えば――」指が、すっと横に引かれる。「こうして、消すことも」今度は、布を縫うように上下した。「偽物を、縫い込むこともできる。魂の贋作。教会が定める、いちばん重い罪のひとつです」
理解できてしまうことが、恐ろしかった。
「消されたのは、恋の記憶です」女は言った。「それも一度ではない。記憶を消しても、心までは消せませんから――あなたは同じ人に、何度でも恋をした。そして恋をするたび、その記憶を消された。十年で、十回。切っても切っても春に芽吹く草を、刈り続けるように」
十年で、十回。
「消させた者の署名も、傷口に残っています。グラシウス。最初の注文は十年前、あなたが九つの年です。婚約を整える前に、邪魔な初恋の記憶を消すこと。以後、芽吹くたびに、何度でも」
「……なぜ、今になって捨てられたの」
「贋作は、必ず剥がれるからです」女は静かに言った。「植え付けた偽の愛は、三年ほどで剥がれ始める。近ごろあなたのそれが剥がれかけて、殿方は青くなった。……ここから先は、私の口で申し上げるより」
女は袖の中で、何かを検めるように、指を折った。
「明日の夜、ご本人の声でお聴かせしましょう。――同席なさいますか」
断る理由は、ひとつもなかった。
怒り、だと思う。膝が笑うほどのそれを、生まれて初めて知った。
でも、それより先に訊くべきことがあった。
「――戻るの」
声が、震えた。今夜、断罪の壇上でも震えなかったのに。
「盗まれた恋は、戻るの」
「剥がせば、戻ります」女は頷き、それから、初めて念を押すように私の目を見た。「ただし、痛みますよ。贋作を剥がすとき、本物の傷も開きます。十年分の春を、一晩で浴びることになる」
偽物の幸福と、本物の傷。
私は、笑ったらしい。女が僅かに目を見開いたから。
「傷をください」
女は、口の端だけで笑った。
「良い返事です」
◇
翌夜。グラシウス公爵家では、新たな婚約の披露が催されていた。
その大広間の扉を、黒衣の女は――ノックもせずに、開けた。
その半歩うしろに、私はいた。
「なっ……何者だ! 衛兵!」
槍が二本、駆け寄って、女の半歩手前で、止まった。突き付けたまま、衛兵たちの腕が動かない。震えている。彼らの本能のほうが、主人より聡かった。
女は歩みを止め、広間の中央で、すっと背を伸ばした。
「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」
よく通る声だった。楽団が、音を落とした。
「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。
聖務第九局、執行官。
皆さまの灯、検めさせていただきます」
黒衣の袖が、鳴った。
女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。
燭台の火が、いっせいに低くなる。
女の背後で――夜が、立ち上がった。
それは大きな翼にも、異国の門にも、巨きな筆の一画にも見えた。誰も悲鳴を上げなかった。上げ方が、分からなかったのだと思う。
「まずは、証人の皆さまから」
女の指が、三人の令嬢を差した。昨夜、東屋の私を「見た」方々。
「昨夜のご証言、日付も場所も、ドレスの色まで揃っていたそうですね」女は、感心したように言った。「本物の記憶は、三人いれば三様に食い違うものです。一言一句揃った目撃は――同じ針の、同じ夜の、製品だけだ」
三つの胸元から、白く光る糸が、するすると引き出された。糸は宙で震え――声を、再生した。
『――令嬢を三人使う。ヴェルネの娘の不貞を「見た」という記憶を植え付けろ。日付と場所は揃えておけ。例の針師に、急ぎで』
レナード・グラシウス様の、声だった。
広間が、凍った。
「発注の署名は魂に残ります。焼いても、洗っても」女は淡々と続けた。「グラシウス公爵子息レナード。魂の贋作、教唆。ならびに――十年の、継続発注」
「で、でたらめだ! 父上、これは」
「先代のご署名は十年前の一筆のみ。以後の九筆は、成人なさったあなたの声で更新されています。お聴かせしましょうか。九年分」
「や、やめ――」
ミルレーヌ嬢の父君が、無言で娘の手を引いた。侯爵家の一行が広間を出ていく音だけが、しばらく響いた。
レナード様は、崩れるように膝をついた。金の髪が、シャンデリアの下でただ黄色かった。
私は、前へ出た。
三人の令嬢が、青ざめて立ち尽くしていた。私はまず、彼女たちに首を振ってみせた。
「あなたがたを、責めません。……植え付けられた記憶がどんな手触りか、私が、いちばん知っているもの」
ひとりが、声を殺して泣き出した。
それから私は、膝をついた元婚約者の前に立った。
「レナード様。ひとつだけ、教えてください」
彼は、顔を上げなかった。
「なぜ、毎年だったのですか。婚約は成っていた。権利書も、いずれ手に入った。……なぜ十年、消し続けたの」
長い沈黙のあとで、レナード様は、笑った。壊れた音だった。
「……何度、書き換えても」
黄色い髪が、揺れた。
「何度書き換えても……お前は、その髪飾りを、外さなかった」
ああ、と思った。
この人は、誰より先に知っていたのだ。自分の買った愛が偽物だと。十年前から、ずっと。
「権利書は、返していただきます」
私は、まっすぐに言った。
「あなたが盗んだものの中で――それだけは、返せるものだから」
「夜の裁きは、教会預かりです」
女がそう告げると、広間の隅で、枯木のような老人が自分から両膝をついた。針師。十年、私の春を刈り続けた手が、床の上で震えていた。
連行の間際、老人はぽつりと呟いた。
「……エマ。薬代は、もう、いいんだな……」
誰の名前かは、知らない。知らないままでいることが、なぜか一番つらかった。
◇
屋敷に戻ると、女は「庭がいい」と言った。
「剥がした恋は、根のあった場所に還すのが早い」
根のあった場所。私の足は、考えるより先に、南の花壇へ向かっていた。
鈴蘭の花壇。誰が植えたのかも、もう誰も覚えていない、小さな白い群れ。
月の下で、女の指が、私の胸の糸をほどいた。
――痛かった。
縫い込まれた三年が、一針ずつ抜けていく。抜けた穴から、春が、雪崩れ込んでくる。
九つの春。厩の裏で、仔馬に触らせてくれた無口な少年。
十の冬。彼のお父様の葬列で、私は彼の手を、皆に隠れて握った。
十一の夏。「エルシアさま」が、二人のときだけ「エルシア」になった。
十二の春。彼は言った。大きくなったら、俺があなたの騎士になる。
十三の誕生日。銀細工の鈴蘭。騎士見習いの給金の、たぶん全部。
十四、十五、十六――婚約が決まった年。庭の東屋で、私は泣いて、彼は一度だけ、私の髪に触れて。
そこで記憶は、毎年、消されていた。
消されて、また恋をして、また消されて。それでも、心までは消せなかった。十年間、一度も。
「――ユーグ」
気づけば、彼がそこにいた。剣も持たずに、月の下に、棒立ちで。
「ユーグ。ユーグ、私……私、思い出し――」
最後まで言えなかった。言う前に、彼の顔が、くしゃりと崩れたから。
「……ああ」
十年分の声だった。
「……ああ、やっと――やっと、呼んだ。その呼び方で」
「なんで……なんで黙っていたの。あなた、ずっと、知っていて」
「思い出させようとしたことも、あった」彼は首を振った。「十二のとき。十四のとき。そのたびに、あなたの記憶がまた消された。俺が想いを口にするたび、あなたの中から俺が消えていくなら――誰でもない護衛でいようと決めた。そばにいられるなら、忘れられていても、いいと」
いいわけが、ないでしょう。
そう言おうとして、涙で言えなくて、私は彼の胸を叩いた。二度叩いて、三度目は、掴んでいた。
彼の手が、恐るおそる、私の髪に触れた。鈴蘭の髪飾りに。
「……外さないでいてくれた」
「外せなかったのよ。ずっと、理由も分からないまま――あなたのくれたものだけが、何度消されても、残っていたの」
月の下で、ユーグは跪いた。十二の春とおなじ、生真面目な顔で。
「十年、遅れましたが」
差し出された手に、私は自分の手を重ねた。
「――あなたの騎士に、戻ります」
◇
門まで、女を送った。
「お礼を……何も、していないわ。あなたは、私の恩人なのに」
「仕事ですから」女は事もなげに言った。「贋作を追っていたら、あなたに行き当たった。それだけのことです」
「せめて、名前を」
「名乗るほどの灯では」
女は胸に手を当て、あの東の国の礼をした。
「あなたは、何者なの」
最後にそう訊くと、女は少しだけ考えて、
「――ただの検死官です。夜のあいだだけ、別の仕事を」
そう言って、夜に溶けた。
◇
街外れの物見塔の上に、黒衣はいた。
袖から取り出すのは、今宵剥がした贋作の破片。月に透かすと、偽物の三年は、ただの薄い硝子屑に見えた。
――その屑の奥で、何かが、歌っていた。
とても古い言葉。祈りに、似ていた。針師の手には余る、遥かに古いなにかが、贋作の糸に一本だけ、紛れ込んでいた。
女はしばらくそれに耳を澄まし、やがて袖に納めた。
今夜も、霊網は静かに脈打っている。
【了】
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