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恋愛小説のはずでした

冤罪で婚約破棄された私の『愛した記憶』は偽物でした――本物の恋は、十年前に盗まれていました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/11

「エルシア・ヴェルネ。お前との婚約を、この場で破棄する」


シャンデリアの下、三百人の招待客の前で、私の婚約者はそう宣言した。

グラシウス公爵家の夜会。楽団が音を失い、扇の陰のささやきが、さざ波のように広間を走る。

レナード・グラシウス公爵子息。金の髪に完璧な微笑。七年前に婚約が整って以来、私が愛してきた――はずの、ひと。


「理由を、うかがっても?」

声は震えなかった。それだけが誇りだった。

「白々しいな」レナード様は嗤った。「お前は俺を愛したことなどない。そればかりか――余所の男と通じていた。そうだろう?」

「身に覚えがありません」

「証人ならいる」


彼が指を鳴らすと、見知った令嬢たちが進み出た。お茶会で隣に座った方。舞踏会で扇を貸してくださった方。

「見ましたわ。東屋で、殿方と寄り添っておいでのところを」

「わたくしも。手袋を交換していらしたわ。あれは恋人の作法ですもの」

見事なものだ、と他人事のように思った。日付も、場所も、ドレスの色まで揃っている。脚本があるのなら、台詞が上手いはずだった。


反論しようと口を開いて――喉の奥で、言葉が凍った。

だって、私は。

私は、自分の記憶を信じていない。

レナード様を愛した記憶なら、ある。春の庭園で薔薇を贈られた。冬の観劇で肩掛けをかけられた。思い出せる。ぜんぶ思い出せる。

思い出せるのに――手触りが、おかしいのだ。

他人の日記を書き写した文字のように、どこにもインクの匂いがしない。めくってもめくっても、紙の下に体温がない。三年前からずっと、私はその違和感を、誰にも言えずに抱えてきた。


自分の心すら、証人にできない。


冤罪を着せられた夜に、それがどれほど致命的か――皆さまはご存じないでしょう。


「沈黙は肯定と受け取る」レナード様は満足げに頷いた。「ヴェルネ伯爵家との縁組は白紙とする。違約の責はそちらにある。持参された霊脈の権利書は、慰謝として当家が預かる」

ああ、と思った。

そういうこと。欲しかったのは私の潔白の反対側――権利書と、違約金と、それから。

「紹介しよう。新たな婚約者、ミルレーヌ嬢だ」

彼の腕に、南部の侯爵家の姫君がするりと収まった。あちらの家の霊脈は、うちの三倍広い。

拍手が起きた。まばらに始まり、やがて広間を満たした。


私はひとり、三百人の拍手の中に立っていた。



帰りの馬車には、護衛騎士がひとりだけ付いた。

ユーグ。ヴェルネ家の先代護衛長の息子で、私より三つ上。無口で、剣の腕だけで今の地位に上がった人。彼はいつもどおり、御者台の隣ではなく、あえて馬で車窓の横に付いた。


「……あなたは、私を軽蔑しないのね」

窓越しに問うと、彼は前を向いたまま答えた。

「契約ですから」

素っ気ない。いつもどおりに。

ただ、手綱を握る彼の手の甲に、筋が浮いていた。ちぎれそうなほど強く、革を握り込んでいた。


それから彼の視線が、一瞬だけ――ほんとうに一瞬だけ、私の髪に落ちた。

銀細工の、鈴蘭の髪飾り。

いつから着けているのか、自分でも思い出せない。ただ、これを外すと落ち着かないのだ。今夜のような夜会にすら、ドレスに合わないと侍女に渋られても、私はこれを手放せない。

「……ユーグ。この髪飾り、変かしら」

「いいえ」

即答だった。それきり、彼は屋敷まで一度も私を見なかった。



その夜半のことだ。


眠れずに窓辺へ寄ると――部屋の中に、女がいた。

悲鳴は出なかった。出せなかった、のほうが正しい。女の佇まいが、あまりに静かだったから。

黒衣。異国ふうの、身体に沿う奇妙な仕立て。年の頃は私と幾つも違わないように見えるのに、目だけが、深い井戸のようだった。

女は胸に手を当て、すっと腰を折った。東の国の礼だ、と後で知った。


「夜分に、御免」

「……どちらさま」

「通りすがりの検死官です」女は顔を上げた。「今夜は、死んでいない方の検分に参りました」

意味が分からなかった。分からないのに、逃げようとは思わなかった。

女は三歩、私に近づいた。夜気が動いて、微かに香が匂った。白檀と、それから、雪の匂い。


「――あなたの(ともしび)から、贋作の匂いがいたします」

「……灯?」

「魂のことです。この国の言葉では」


女は指を一本立て、私の胸の前に――触れるか触れないかの距離に――かざした。そして、見えない糸を手繰るような仕草をした。

胸の奥で、何かが、きしんだ。

「ああ、やはり」女は目を細めた。「接ぎ目があります。あなたの中の『公爵子息を愛した三年』――あれは、後から植え付けられた偽物の記憶だ。それも、たいそう上等な仕事です」


息が、止まった。

三年間の違和感に、初めて名前が付いた。インクの匂いのしない日記。体温のない紙。あれは。

「偽物、だったの」

「はい」

「では、私は……私が本当に愛したものは」

女は答えなかった。代わりに、手繰る指が、すっと下がった。胸のもっと深いところ。


「……こちらは、ひどい」

女の声が、初めて低くなった。

「何度も、何度も、記憶を消された痕がある。まるで切り株だらけの野だ。……十年分」



女は説明のあいだ、私の胸の前で、細い指を針のように立てていた。

「記憶は、灯に刻まれています。そして呪いの針を使えば――」指が、すっと横に引かれる。「こうして、消すことも」今度は、布を縫うように上下した。「偽物を、縫い込むこともできる。魂の贋作。教会が定める、いちばん重い罪のひとつです」

理解できてしまうことが、恐ろしかった。


「消されたのは、恋の記憶です」女は言った。「それも一度ではない。記憶を消しても、心までは消せませんから――あなたは同じ人に、何度でも恋をした。そして恋をするたび、その記憶を消された。十年で、十回。切っても切っても春に芽吹く草を、刈り続けるように」


十年で、十回。


「消させた者の署名も、傷口に残っています。グラシウス。最初の注文は十年前、あなたが九つの年です。婚約を整える前に、邪魔な初恋の記憶を消すこと。以後、芽吹くたびに、何度でも」

「……なぜ、今になって捨てられたの」

「贋作は、必ず剥がれるからです」女は静かに言った。「植え付けた偽の愛は、三年ほどで剥がれ始める。近ごろあなたのそれが剥がれかけて、殿方は青くなった。……ここから先は、私の口で申し上げるより」

女は袖の中で、何かを検めるように、指を折った。

「明日の夜、ご本人の声でお聴かせしましょう。――同席なさいますか」

断る理由は、ひとつもなかった。


怒り、だと思う。膝が笑うほどのそれを、生まれて初めて知った。

でも、それより先に訊くべきことがあった。

「――戻るの」

声が、震えた。今夜、断罪の壇上でも震えなかったのに。

「盗まれた恋は、戻るの」

「剥がせば、戻ります」女は頷き、それから、初めて念を押すように私の目を見た。「ただし、痛みますよ。贋作を剥がすとき、本物の傷も開きます。十年分の春を、一晩で浴びることになる」


偽物の幸福と、本物の傷。

私は、笑ったらしい。女が僅かに目を見開いたから。


「傷をください」


女は、口の端だけで笑った。

「良い返事です」



翌夜。グラシウス公爵家では、新たな婚約の披露が催されていた。


その大広間の扉を、黒衣の女は――ノックもせずに、開けた。

その半歩うしろに、私はいた。

「なっ……何者だ! 衛兵!」

槍が二本、駆け寄って、女の半歩手前で、止まった。突き付けたまま、衛兵たちの腕が動かない。震えている。彼らの本能のほうが、主人より聡かった。

女は歩みを止め、広間の中央で、すっと背を伸ばした。


「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」


よく通る声だった。楽団が、音を落とした。


「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。

 聖務第九局、執行官。

 皆さまの灯、検めさせていただきます」


黒衣の袖が、鳴った。

女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。

燭台の火が、いっせいに低くなる。


女の背後で――夜が、立ち上がった。


それは大きな翼にも、異国の門にも、巨きな筆の一画にも見えた。誰も悲鳴を上げなかった。上げ方が、分からなかったのだと思う。


「まずは、証人の皆さまから」

女の指が、三人の令嬢を差した。昨夜、東屋の私を「見た」方々。

「昨夜のご証言、日付も場所も、ドレスの色まで揃っていたそうですね」女は、感心したように言った。「本物の記憶は、三人いれば三様に食い違うものです。一言一句揃った目撃は――同じ針の、同じ夜の、製品だけだ」

三つの胸元から、白く光る糸が、するすると引き出された。糸は宙で震え――声を、再生した。


『――令嬢を三人使う。ヴェルネの娘の不貞を「見た」という記憶を植え付けろ。日付と場所は揃えておけ。例の針師に、急ぎで』


レナード・グラシウス様の、声だった。


広間が、凍った。


「発注の署名は魂に残ります。焼いても、洗っても」女は淡々と続けた。「グラシウス公爵子息レナード。魂の贋作、教唆。ならびに――十年の、継続発注」

「で、でたらめだ! 父上、これは」

「先代のご署名は十年前の一筆のみ。以後の九筆は、成人なさったあなたの声で更新されています。お聴かせしましょうか。九年分」

「や、やめ――」

ミルレーヌ嬢の父君が、無言で娘の手を引いた。侯爵家の一行が広間を出ていく音だけが、しばらく響いた。

レナード様は、崩れるように膝をついた。金の髪が、シャンデリアの下でただ黄色かった。


私は、前へ出た。


三人の令嬢が、青ざめて立ち尽くしていた。私はまず、彼女たちに首を振ってみせた。

「あなたがたを、責めません。……植え付けられた記憶がどんな手触りか、私が、いちばん知っているもの」

ひとりが、声を殺して泣き出した。


それから私は、膝をついた元婚約者の前に立った。

「レナード様。ひとつだけ、教えてください」

彼は、顔を上げなかった。

「なぜ、毎年だったのですか。婚約は成っていた。権利書も、いずれ手に入った。……なぜ十年、消し続けたの」

長い沈黙のあとで、レナード様は、笑った。壊れた音だった。

「……何度、書き換えても」

黄色い髪が、揺れた。

「何度書き換えても……お前は、その髪飾りを、外さなかった」


ああ、と思った。

この人は、誰より先に知っていたのだ。自分の買った愛が偽物だと。十年前から、ずっと。


「権利書は、返していただきます」

私は、まっすぐに言った。

「あなたが盗んだものの中で――それだけは、返せるものだから」


「夜の裁きは、教会預かりです」


女がそう告げると、広間の隅で、枯木のような老人が自分から両膝をついた。針師。十年、私の春を刈り続けた手が、床の上で震えていた。

連行の間際、老人はぽつりと呟いた。

「……エマ。薬代は、もう、いいんだな……」

誰の名前かは、知らない。知らないままでいることが、なぜか一番つらかった。



屋敷に戻ると、女は「庭がいい」と言った。

「剥がした恋は、根のあった場所に還すのが早い」

根のあった場所。私の足は、考えるより先に、南の花壇へ向かっていた。

鈴蘭の花壇。誰が植えたのかも、もう誰も覚えていない、小さな白い群れ。


月の下で、女の指が、私の胸の糸をほどいた。


――痛かった。


縫い込まれた三年が、一針ずつ抜けていく。抜けた穴から、春が、雪崩れ込んでくる。

九つの春。厩の裏で、仔馬に触らせてくれた無口な少年。

十の冬。彼のお父様の葬列で、私は彼の手を、皆に隠れて握った。

十一の夏。「エルシアさま」が、二人のときだけ「エルシア」になった。

十二の春。彼は言った。大きくなったら、俺があなたの騎士になる。

十三の誕生日。銀細工の鈴蘭。騎士見習いの給金の、たぶん全部。

十四、十五、十六――婚約が決まった年。庭の東屋で、私は泣いて、彼は一度だけ、私の髪に触れて。


そこで記憶は、毎年、消されていた。

消されて、また恋をして、また消されて。それでも、心までは消せなかった。十年間、一度も。


「――ユーグ」


気づけば、彼がそこにいた。剣も持たずに、月の下に、棒立ちで。

「ユーグ。ユーグ、私……私、思い出し――」

最後まで言えなかった。言う前に、彼の顔が、くしゃりと崩れたから。

「……ああ」

十年分の声だった。

「……ああ、やっと――やっと、呼んだ。その呼び方で」


「なんで……なんで黙っていたの。あなた、ずっと、知っていて」

「思い出させようとしたことも、あった」彼は首を振った。「十二のとき。十四のとき。そのたびに、あなたの記憶がまた消された。俺が想いを口にするたび、あなたの中から俺が消えていくなら――誰でもない護衛でいようと決めた。そばにいられるなら、忘れられていても、いいと」

いいわけが、ないでしょう。

そう言おうとして、涙で言えなくて、私は彼の胸を叩いた。二度叩いて、三度目は、掴んでいた。


彼の手が、恐るおそる、私の髪に触れた。鈴蘭の髪飾りに。

「……外さないでいてくれた」

「外せなかったのよ。ずっと、理由も分からないまま――あなたのくれたものだけが、何度消されても、残っていたの」


月の下で、ユーグは跪いた。十二の春とおなじ、生真面目な顔で。

「十年、遅れましたが」

差し出された手に、私は自分の手を重ねた。

「――あなたの騎士に、戻ります」



門まで、女を送った。

「お礼を……何も、していないわ。あなたは、私の恩人なのに」

「仕事ですから」女は事もなげに言った。「贋作を追っていたら、あなたに行き当たった。それだけのことです」

「せめて、名前を」

「名乗るほどの灯では」

女は胸に手を当て、あの東の国の礼をした。


「あなたは、何者なの」


最後にそう訊くと、女は少しだけ考えて、

「――ただの検死官です。夜のあいだだけ、別の仕事を」

そう言って、夜に溶けた。



街外れの物見塔の上に、黒衣はいた。

袖から取り出すのは、今宵剥がした贋作の破片。月に透かすと、偽物の三年は、ただの薄い硝子屑に見えた。


――その屑の奥で、何かが、歌っていた。


とても古い言葉。祈りに、似ていた。針師の手には余る、遥かに古いなにかが、贋作の糸に一本だけ、紛れ込んでいた。

女はしばらくそれに耳を澄まし、やがて袖に納めた。


今夜も、霊網(えいもう)は静かに脈打っている。


【了】

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