初めての春③
その瞬間、クレアの頭を押さえ込んで目の前の机の下に滑り込んだ。
状況を把握していないクレアが文句を言おうとしていたが、その言葉が出てくることはなく代わりに悲鳴が漏れ出ていた。
本棚がこちらに向かって倒れてきたのだ。
倒れたことで仕舞われていた本が全て滑り落ち、本棚は机に引っかかるようにして動きを止めていたが、隠れている机が本棚の重量に耐えきれずにミシミシと悲鳴をあげている。
「早く机の下から退けなきゃ、本棚に下敷きにされるぞ」
「下敷き……?」
クレアの腕を掴み机の下から抜け出す。私に言われたことを気にしているのか、クレアの顔は真っ青で、本棚に潰される想像でもしてしまったらしい。
彼女を放っておいて、倒れ込んできた本棚を観察する。魔法陣などの魔法が使われたそれらしき痕跡はないが、なにか細工が施されていたのは事実だろう。
運が良ければ、怪我でもしてくれれば良いとでも思っていたに違いない。こんな手を使うなんて、余程の愚か者だと自分で自己紹介しているようなものだ。
誰から手出しされたのかは細かくは分からないがある程度予想が着く。
「急に本棚が倒れてくるなんて……」
「別館の奴らがやったんだろう、新しく来た君を妬んでね」
彼女は言われた意味がわかっていないようだった。自分が危険な目にあったのは、偶然の産物で運が悪かったからだと思っているらしい。
そんなわけが無いのに。思わず呆れてしまった。
「こんな雑な手を使うのは本館の者じゃなくて、別館の奴らだよ。少なくとも第十位以上を与えられてる兄妹たちは頭が回るし、そう安易に誰かを敵に回すマネはしない。利用し潰す方が効率的だとわかっているから」
「それって、誰かがわざとこらをやったってこと?人を傷つけようとするなんて信じられない……。女神様が許すはずないわ」
信仰心があるのはいい事なのだろうが、それはここでは意味をなさない。必要の無いものは早めに切り捨てるべきだ。
「ここでは女神様を信じてる奴はいないし、この家の人間の行動原理はひとつだけだ。己の価値が上がるか否か、それだけが動く理由で、動かない理由だ」
忠告の意味を込めてそう言う。今まで平和に暮らしていたからとて、この家では過去のことは関係ないのだ。
「私が今君を助けたのもあくまで任務だから。任務が終わるまでは君を守って育てる必要がある、それだけだ。この家では人の善性を願ったりしない方がいい」
これは正式に与えられた任務ではないけれど、命令として受け入れたことだ。
私がクレアを第十位に置いておくに相応しい人間に一年という期間で育て上げられたなら、それは私の新しい価値で付属品になる。
この家の人間の行動原理はひとつだけ。つまり、私もそれに則って動いているだけだ。
「そ、それでも! ……その、ありがとう」
「……」
ありがとう。単純な言葉だ、感謝を伝えるもの、この家では聞かない言葉。
私に言っているのか? なぜ? 何に対して?
「……だ、だから! 助けてくれて、……ありがとう!」
「……」
助けてもらったことに対して、言っているのか。
たとえ、助けられたとしてもこの家では感謝の言葉なんて言わないし、助けられたとしても、口から出てくるのは皮肉の言葉に嫌味の数々。
初めてだ、ありがとうなんて言われたのは。
「な、なんで何も言わないの?」
「……、こういう時なんて返せばいいのか分からない」
「分からないって、普通にどういたしまして、とか言えばいいのに」
「そう、じゃあ、……どういたしまして」
彼女にとってはありがとう、もどういたしまして、も普通のことらしい。
初めて会う性質の人間でとても興味深い。
教えてもらった通りに「どういたしまして」を返すと、クレアの表情が驚きのものに変わっていた。




