初めての春②
次の日の昼、本館の図書館。
昨日とは違うドレスに着替えさせられた姿のクレアと、彼女を連れてきたフェリーチャを迎え入れた。
どうやら結局無謀な賭けに出ることは止めたらしい。
フェリーチャの服の裾を掴みながら後ろに隠れているのを見るに、随分とフェリーチャに懐いたものだ。
なぜそんなに懐いているのかと思ったが、確か父上から与えられたクレアの資料でフェリーチャと似た雰囲気の彼女の母親がいたと思い当たる。
名前は確かリリィ・パキフィカ、十一年前にクレリデイラ家を裏切った罪でもう処刑されていたはずだ。
母親が恋しいのか。
「君がやることは山積み。右の本から憲政史学、地政学的戦略論、比較儀礼文化論、紋章学、修辞学、古典言語論、戦略的遊戯論、形而上学、宗教学。それから……」
「ま、まぁまぁ、カミラお嬢様。クレアお嬢様が混乱されてますよ」
フェリーチャがそう言うので机の上の本を示しながら説明するのを一度中断し、後ろを振り返れば明らさまに混乱してますと言った様子のクレア。
暫くしてから、はっ、と正気を取り戻した。
「こんなにやらなきゃいけないの!」
「これでも少ない方だ、一ヶ月もあれば十分だろう」
「一ヶ月!? 私の身長よりも高く積み上がってるのに……?」
「最初は簡単な宗教学から。女神アペリウェールの聖典ぐらいは君も知ってるだろうし、そこから始めよう」
そう言うとクレアはぱっと顔を明るくして、陰鬱な雰囲気から一転。嬉しそうに口を開いた。
「それなら私もわかるよ! 毎日教会で女神様に祈りを捧げるのが日課だったの!」
『天上より春の訪れを告げる者、我らが偉大なる女神、母なるアペリウェールよ』
『今日も我らをお守りください。明日を我らにお与えください』
『みこころが憂うことなく、天も地も等しくみこころの通りにありますように』
『偉大なる母。偉大なるアペリウェールよ』
『その大いなる抱擁の中に、我らをお導き下さい』
クレアは目を瞑り手を胸の前で組み、深呼吸してから祈祷文を暗唱した。
詰まる様子もなく、流暢に祈祷文を読み上げるのを見るに毎日祈りを捧げていたというのは嘘では無いらしい。私も祈祷文は暗記しているが、この家の中で祈りを捧げる場面はないから、実際に読み上げたことは片手で数える程度だった。
「……この様子なら宗教学は直ぐに終わりそうだ。聖書に載っている内容はどれくらい頭に入ってる?」
「えっと、だいたいは覚えてるはず! お母さんがね、女神様は私たちを守ってくださったから大切にしなければならないのよって、よくお話してくれてたから」
「じゃあ……、そうだな十戒は?」
十戒。厳守されるべき十の戒律。ほとんどは法律で定められた普通のことが書かれているが、中にはあまり知られていない、覚えられていないものもある。
女神への信仰心が薄れて久しい今の時代、覚えているものは多くない。
「殺してはならない、盗んではならない、騙してはならない、母と父を敬え、主を軽んじてはならない、混血は禁ず、財を貪ってはならない……」
「うん。もういいよ、宗教学は終わりだ」
そう言ってもう要らなくなった宗教学の本を机の端に追いやる。
「……もういいの?」
「宗教学はもうやらない。そこまで覚えてるならわざわざ時間を費やす必要はない。」
最初に勉強の話をした時と同じように目をぱちぱちと瞬かせている。
今の流れで緊張がほぐれたのか、表情の引き攣りもなくなり声も大きくなっていた。
次は憲政史学でもやろうと言いかけたところで、後ろの本棚から床が軋むような音が聞こえた。




