第9章 揺さぶり
金曜日の夕方。
退勤の準備を進めていると、スマートフォンが震えた。
画面に映った名前に、美咲の指が止まる。
――川上千春。
あの会議の日に見た、完璧な笑顔の裏に潜む鋭さを思い出す。
プライベートで連絡が来るとは思っていなかった。
深呼吸をひとつして、画面を開いた。
「突然すみません。
少しだけ、個人的なお話がしたくて。
美咲さんの時間をいただけませんか?」
少しだけ——
その言葉が、静かに空気を締めつける。
「仕事の件でしょうか?」
「いえ。プライベートです。
一度、お会いできませんか?」
美咲は画面を伏せた。
心の奥で、過去の影が揺れる。
しかし恐れではなかった。
心が静かに構えるような感覚だった。
⸻
翌日。
烏丸の小さなカフェ。
人通りが少なく、ガラス越しに午後の光が差し込む。
千春はすでに席に座っていた。
淡いベージュのコート、完璧に整えられた髪、
そして、あの柔らかすぎる笑顔。
「お時間いただいてありがとうございます。」
「いえ。お話って……?」
千春は一拍おいて、
テーブルの上のグラスを指先で回した。
「最近……主人の様子がおかしくて。」
“主人”。
美咲はその呼び方に、ほんの少し胸が痛んだ。
「携帯を見てしまったんです。
あなたとのメッセージを。」
そう来たか、と美咲は心の中で呟いた。
千春は続けた。
「あなたを責めるつもりはないんです。
でも……彼、あなたのことを今でも……」
美咲はその続きを待たず、静かに言った。
「“責めない”って言いながら、責めてますよね。」
千春の表情が、一瞬だけ揺れる。
「そんなつもりでは……」
「大丈夫です。
でも、もし誤解しているなら言わせてください。」
美咲は目をそらさずに言った。
「孝太さんと連絡を取る気も、
戻る気も、一切ありません。」
千春の喉がわずかに震えた。
「でも……主人があなたを忘れられないみたいで。」
「それはあなたの問題であって、私の問題ではありません。」
千春の指が、ぎゅっとグラスを掴んだ。
「……強いんですね、美咲さん。」
「強いんじゃなくて、終わっているんです。」
静かな言葉。
しかし強烈な“線引き”だった。
沈黙が落ちる。
千春は唇を噛みしめ、俯いた。
「……ごめんなさい。
会ってみたら、思っていた人と違くて……
もっと、怖い人かと思っていた。」
美咲は微笑んだ。
「怖い人なら、今ごろもっと怒ってますよ。」
千春はかすかに笑った。
しかし、それは納得の笑みではなかった。
“引き下がるための仮の笑顔”にしか見えない。
「今日はありがとうございました。
主人にも……もう美咲さんに迷惑をかけないよう言います。」
“もう迷惑をかけない”——
その言い方が、どこか引っかかった。
「あの……」
千春が立ち上がる間際に口を開いた。
「また、お話しさせてくださいね。」
その言葉には、
柔らかさではなく “未練と不信の匂い” が含まれていた。
美咲はゆっくりと頷き、
「必要なら」とだけ答えた。
⸻
カフェを出ると、
冷たい春風が頬を撫でた。
千春は納得していなかった。
ただ一旦、退いただけ。
疑念は消えていないし、孝太への怒りも燃えているだろう。
――近いうちに、もう一度向き合うことになる。
美咲はそう確信した。
だけど、不思議と怖くなかった。
スマホが震いた。
村瀬からだった。
「今日、大丈夫?」
「少し心配で。」
美咲は思わず笑った。
「大丈夫です。
風が強いだけです。」
「ならいい。
でも……気が向いたら話して。」
春風が髪を揺らす。
温かい声と冷たい風のコントラストに、
美咲の心のざらつきが少しだけ和らいだ。
夕暮れの京都の空の下、
彼女は静かに歩き出した。




