第8章 届かないメッセージ
春の雨が上がり、
街路樹の若葉が陽に透けていた。
午前のオフィスは穏やかで、
コーヒーの香りが漂っている。
美咲はデスクに向かい、
資料を整理しながらふとスマートフォンを見た。
未読のメッセージがひとつ。
――山下孝太。
指先が一瞬止まる。
あの日、きっぱりと「さようなら」を送ったはずなのに。
ほんの数秒の逡巡のあと、画面を開いた。
「久しぶり。
仕事でまた京都に来てるんだ。
少し話せないかな?」
ため息が自然に漏れた。
本当に、変わらない。
彼の“軽さ”は、まるで呼吸のように自然だ。
無視しようと思いながらも、
なぜか親指が“既読”を押してしまった。
次の瞬間、再びメッセージが届く。
「怒ってる?
そんなつもりじゃなくてさ。
ただ、元気かなって思って。」
――元気かどうかなんて、あなたに関係ない。
心の中でつぶやく。
でも、画面の文字を見ていると、
あの頃の自分がほんの少しだけ顔を出す。
笑って彼の冗談に合わせていた自分。
寂しさを隠すために「平気」と言っていた自分。
もう、そんな自分には戻りたくなかった。
⸻
昼休み。
気分転換に会社の外へ出ると、
桜の花びらが風に舞っていた。
「……春なのに、心がざわつく日もあるのね。」
呟いた瞬間、後ろから声がした。
「高梨さん?」
振り向くと、村瀬が立っていた。
いつもの落ち着いた表情。
けれど、その目が一瞬、
彼女の疲れを見抜いたように揺れた。
「顔色、少し悪いよ。どうした?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足で。」
美咲は笑ってごまかした。
だが、村瀬は優しく言った。
「無理しなくていい。……話したくなったら、聞くから。」
その言葉が、不思議と心に沁みた。
⸻
午後、デスクに戻ると、
またスマホが震えた。
画面には、孝太からの新しいメッセージ。
「千春と最近、うまくいかなくて。
なんか、ずっと張りつめてる感じでさ。」
――まただ。
彼の“弱さ”を隠した同情の押し売り。
「君ならわかってくれると思って。」
瞬間、美咲の中で何かが冷たく切れた。
静かに、でも迷いのない指で返信を打つ。
「わかりません。
もう、あなたの話を聞く理由も義務もありません。
人の優しさを都合よく使うのは、やめた方がいいですよ。」
送信。
画面に「既読」がつく。
そのあと何も返ってこなかった。
⸻
夜、帰り道の鴨川。
雨上がりの空気が澄んでいて、
街の灯りが水面に反射していた。
川沿いを歩いていると、
小さなメッセージ通知が一件だけ届く。
村瀬からだった。
「今、鴨川の近く?」
「さっきまでいたけど、もう帰るところです。」
「じゃあ、気をつけて。
無理して強がらなくていいからね。」
短い言葉なのに、
心がふっと軽くなる。
美咲はスマホを見つめながら微笑んだ。
――届かなくていいメッセージもある。
でも、届くことで救われる言葉もある。
その違いを、今ははっきりとわかる。
春の風が髪を揺らす。
美咲は空を見上げ、
静かに目を閉じた。




