第七章 春の光に溶けて
春の空は、少し霞がかかっていた。
駅前の並木道では、桜がほころび始めている。
美咲は御朱印帳をバッグに入れ、軽く深呼吸をした。
今日は、村瀬との約束の日。
彼の方から「御朱印巡り、教えてほしい」と言ってくれたのだった。
待ち合わせは出町柳駅前。
朝の光が川面を反射して、きらきらと揺れている。
彼の姿を見つけた瞬間、美咲は少しだけ胸が高鳴った。
「おはようございます、村瀬さん。」
「おはよう。……なんか新鮮だな。
こうやって外で会うの。」
彼は少し照れたように笑った。
スーツ姿ではなく、シンプルなシャツとジャケット。
仕事中のきっちりした印象とは違い、
どこか柔らかい雰囲気があった。
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二人は鴨川沿いを歩きながら、
下鴨神社へ向かった。
川の流れの音と、春風が混ざり合う。
足元に落ちた桜の花びらが風に舞い、
それがまるで、季節の合図のように見えた。
「御朱印って、全部集めると何か意味があるんですか?」
「特別な決まりはないですよ。
でも、こうして少しずつ自分の足跡が残るのが好きで。」
美咲は笑いながら言った。
村瀬は頷き、
「なるほどな。俺も、そういうの好きかも。」と呟いた。
境内の中に入ると、木漏れ日が落ちていた。
御朱印帳を差し出すと、
朱色の印が、静かな筆音とともに押される。
「不思議ですよね。
同じ印なのに、毎回ちょっと違って。」
「人の手で押されてるからね。
……だから、ひとつとして同じ“縁”はない。」
村瀬の言葉に、美咲は一瞬だけ目を伏せた。
その言葉が、胸の奥にまっすぐ届く。
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神社を出て、
近くのカフェで休憩することになった。
川沿いのテラス席。
少し冷たい風が、コーヒーの香りを運んでくる。
「こういう休日、久しぶりです。」
「俺も。……誰かとゆっくり話すの、こんなに落ち着くとは思わなかった。」
村瀬はカップを置いて、少し笑う。
「仕事中は、どうしても立場で話すから。
今日はなんか、ただの俺でいられる感じがする。」
「それ、わかります。」
沈黙が少し続いた。
でも、その静けさが心地よい。
「高梨さん。」
「はい?」
「この前の会議のあと、
俺、本当はあのあと……少しだけ腹が立ってたんだ。」
「え?」
「君が我慢して、何も言わずに笑ってたことに。
なんで言い返さないんだって。
でも、あの場で君が冷静に対応したのを見て、
“強い人”ってこういう人なんだって思った。」
美咲はカップを両手で包みながら、小さく息を吸った。
「我慢してたわけじゃないんです。
もう、何かを取り返すために怒るのが、
もったいなく感じてしまって。」
「……そうか。」
村瀬は少しだけ笑った。
「やっぱり、君はすごいよ。」
彼の声には、敬意と、どこか温かなものが混じっていた。
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カフェを出ると、
午後の光が少し傾き始めていた。
川沿いの並木を歩きながら、
村瀬がふと立ち止まる。
「高梨さん、ひとつ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「……今でも、元彼のこと、気にしてる?」
美咲は驚いて、足を止めた。
風が髪を揺らし、沈黙が少し続く。
「昔のことです。
でも、あの人と出会ったことを、
“失敗”だとは思っていません。」
村瀬は頷いた。
「そう言えるの、すごいな。」
「そう言わないと、自分が進めないからです。」
その言葉に、彼は静かに微笑んだ。
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別れ際、駅のホームで立ち止まり、
村瀬が言った。
「今日、ありがとう。
なんか、いろんなことがリセットされた気がする。」
「こちらこそ。
……次は、もう少し遠くの神社でも行きましょうか。」
「約束、だね。」
彼の笑顔が春の光に溶けていく。
電車のドアが閉まる瞬間、
美咲は窓越しに軽く手を振った。
胸の中に、柔らかい風が吹いていた。
それは恋の予感というより、
“誰かと同じ時間を心地よく過ごせる”という
小さな希望の風だった。




