第六章 母からの手紙
週末の午前、ポストに一通の封筒が届いた。
差出人は、東京に戻った母。
達筆な文字で「高梨美咲様」と書かれている。
紙を手に取ると、ほのかに懐かしい香りがした。
淹れたばかりのコーヒーを片手に、
美咲は静かに封を切った。
⸻
美咲へ
京都はもう春が近いでしょうね。
こっちは少し寒くて、毎朝おばあちゃんの手が冷たいです。
あなたたちが京都に残ってくれているおかげで、
私は安心しておばあちゃんの世話ができています。
でも、無理はしていない?
真(お兄ちゃん)から、
「美咲は相変わらず頑張り屋だ」って聞きました。
それと――、
孝太さんとはどうしているの?
この前までは結婚の話も出ていたから、
そろそろ報告があるのかと思っていました。
あなたが誰かに愛されて、
幸せになってくれたら、それだけで私はうれしいです。
体に気をつけて。
京都の桜、そろそろ咲く頃かしら。
――母より
⸻
「……そうだった。母さん、まだ言ってないんだ。」
封筒を伏せる。
母は悪気がない。
ただ、孝太とのことを「結婚目前の恋」と信じたまま、
あの日から時間が止まっているのだ。
言いそびれたままの報告。
もはや“言うタイミング”を失っていた。
「どうしようかな……。
言うなら早いうちに、だよね。」
独り言のように呟きながら、
窓の外に目をやる。
春の光が白いカーテンを透かし、
町の瓦屋根が遠くに光っている。
⸻
午後、美咲は久しぶりに実家へ向かった。
京都の東山にある小さな町屋。
二十年前、家族で東京から移り住んだ場所だ。
今は人が住んでおらず、
月に数回、美咲が掃除に戻っている。
引き戸を開けると、
古い木の香りと畳の匂いがふわりと漂った。
「ただいま。」
返事はない。
けれど、この家の空気は、
いつでも美咲を迎えてくれる。
掃除をしていると、
玄関の戸が開く音がした。
「おーい、美咲、いるか?」
兄の真が顔を出した。
二歳上で、離婚して三年。
気楽な一人暮らしを楽しみつつ、
妹を何かと気にかけてくれる。
「ちょうど来てたのか。」
「うん。掃除にね。」
「だろうと思った。……なんか顔、疲れてないか?」
彼は鼻を鳴らすようにして言った。
昔から妙に勘が鋭い。
“鼻が利く”兄、と家族に言われている。
「そんなことないよ。」
「ほんとか? ……元カレ関係だな。」
「なんでわかるの。」
「匂いでわかる。」
「動物か。」と笑いながら、美咲は雑巾を絞った。
真は畳に腰を下ろし、
天井を見上げながら言った。
「母さん、まだあの話信じてるっぽいぞ。
この前電話で“結婚式はまだなの?”って聞かれた。」
「……だよね。」
「いつ言うんだ?」
「わからない。……たぶん、もう少し自分の中で整理できてから。」
兄は苦笑した。
「お前、そういうところ、昔から変わらないな。
優しすぎて、誰も悪者にできない。」
「兄さんこそ、人の心読まないで。」
「読めちゃうんだよ。鼻が利くんでね。」
二人で笑い合う。
畳の匂いと陽射しが混ざり合い、
懐かしい時間が戻ってきたようだった。
⸻
帰り際、真が言った。
「なぁ美咲。」
「うん?」
「母さんに言うとき、俺もそばにいるよ。」
「え?」
「一人で抱え込むと、変にしんどくなるだろ。
だから、俺も一緒に笑いながら聞いててやる。」
その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。
「ありがとう。」
「いいって。……俺、妹には甘いから。」
手を振り合いながら別れ、
夕方の町屋通りを歩く。
西日の中、瓦屋根の影が伸びていく。
⸻
マンションに戻ると、
母の手紙がまだ机の上に置かれていた。
「……母さんも、大変だよね。」
東京で祖母の介護をしている母。
長電話のたびに、「大丈夫」と言いながらも、
その声に少しだけ疲れが混じっていた。
本当は、母も誰かに支えられたいのかもしれない。
美咲はペンを取り、便箋を一枚出した。
母さんへ
手紙ありがとう。
私も元気です。
こっちはもう春の気配がしてきました。
仕事も順調。
真も相変わらずのんびりしてます。
孝太さんのことは、また今度話すね。
いろいろあったけど、私は今、
ちゃんと自分の時間を生きています。
介護、無理しないでね。
私もできることがあれば言って。
書き終えて封を閉じたとき、
心の奥がすっと軽くなった。
春の風が窓を揺らす。
カーテン越しの光の中で、
美咲は微笑んだ。
――私は、もう一人じゃない。
家族の声が、ちゃんと届いている。




