第5章 ざらついた夜
夜の鴨川沿いは、静かだった。
昼間の観光客の声も消え、
遠くで聞こえるのは、風に揺れる柳と水の音。
美咲は橋の手すりに手を置きながら、
暗い川面に自分の影を映していた。
あの会議室で見た孝太と千春。
そして、村瀬の穏やかな眼差し。
何も特別なことはなかったのに、
心の奥に、砂のようなざらつきが残っている。
――私、まだ気にしてるんだろうか。
――それとも、もう気にしないって自分に言い聞かせてるだけ?
冷たい夜風が、答えの代わりに頬を撫でた。
⸻
家に帰ると、
部屋の明かりがやけに白く感じた。
外の夜と自分の心の温度差が、
静かに浮き上がるようだった。
コートを脱ぎ、バッグをソファの上に置く。
テーブルの上には、開きかけの御朱印帳。
上賀茂神社の朱印の隣に書かれた「縁」の文字が目に留まる。
「……縁、ね。」
声に出すと、その二文字がやけに遠くに感じた。
人と人の縁なんて、
きっと紙の上の印のようなものだ。
押された瞬間は鮮やかでも、
時間が経てば、色もかすれていく。
それでいい。
それが自然だ。
――そう思おうとした、その時。
テーブルの上のスマートフォンが小さく震えた。
画面には、見慣れた名前。
山下孝太。
まさか、と思いながら開く。
「久しぶり。元気にしてる?」
「この前の会議、懐かしかったな。」
……何が懐かしいの。
裏切られた記憶しか、ないのに。
スクロールしても、まだ続く。
「あの頃はさ、俺も若かったっていうか。
でも美咲はいつも落ち着いてて、
正直、今思えば支えられてたと思う。」
文面は一見、誠実そうだ。
でも、行間から漂うのは“自己陶酔”。
謝罪でも、反省でもない。
ただの「俺、今ならわかる」アピール。
美咲は小さく笑って、スマホを伏せた。
だが、すぐにもう一度、震える。
「今カノ(って言うのも変か)
最近ちょっとピリピリしててさ。
なんか、俺まで息詰まるんだよね。」
――“今カノ”じゃない、“妻”でしょ。
つい口に出して呟く。
笑うしかない。
人を選ぶ時も、言葉を選べないのも、相変わらず。
「……お花畑も、ここまで来ると才能ね。」
スマホを手に取り、返信欄を開く。
指先が一瞬止まるが、すぐに文字を打ち込む。
「ご結婚おめでとうございます。
でも、既婚者の愚痴を聞く趣味はありません。
私はもう、過去より“今”を大事にしているので。」
送信。
即座に既読。
そして、しばらくの沈黙。
ほんの数分後、また通知が鳴る。
「そんな冷たいこと言うなよ。
俺、別に何かしたいわけじゃないけどさ。
美咲が元気か気になってただけ。」
――出た、“何かしたいわけじゃない”。
それを言う人に限って、
一番めんどくさい何かを抱えてるんだよ。
美咲はため息をつき、もう一度だけ返信した。
「だったら、なおさら返信いりませんね。
私、もう“あなたのたまに”には付き合えませんから。」
指を離した瞬間、
小さな解放感が体の中を駆け抜けた。
もう、誰かの都合のために
心をすり減らす自分には戻らない。
⸻
リビングの窓を開けると、
冷たい夜気が部屋に流れ込んだ。
遠くの街灯が滲んで、
まるで新しいページの余白のように見えた。
「……これで、やっと終わり。」
自分の声が、思ったよりも穏やかだった。
寂しさも後悔も、
もう痛みではなく静かな記憶に変わっている。
スマホを伏せ、
御朱印帳のページをそっと撫でた。
次に押す印は、
きっと“自分のための縁”になる。
⸻
翌朝。
会社に向かう電車の中で、
美咲はぼんやりと窓の外を見ていた。
川沿いの桜並木が新芽を出している。
春が、もうすぐそこまで来ていた。
スマホが震えた。
村瀬からのメッセージだった。
「今日、昼休み空いてる?」
思わず小さく笑って、返信する。
「はい。久しぶりに鴨川でも歩きませんか?」
電車の窓に映る自分の顔は、
どこか少しだけ明るく見えた。




