第3章 職場の風と、少しの変化
昼下がりのオフィス。
窓の外では、春の名残を含んだ風がカーテンを揺らしていた。
書類の音と、パソコンのキーを打つ音だけが規則的に響く。
美咲は画面を見つめながら、メール文の言葉を何度も打ち直した。
相手の部署、取引先、締め切り。
一つひとつの言葉を慎重に選ぶ。
それが、彼女の仕事のやり方だった。
ふと視線を上げると、村瀬がデスク越しにこちらを見ていた。
いつもと同じ穏やかな表情。
けれど、その目はどこか探るような、優しい光を帯びていた。
「この書類、午後の会議までに確認しておいてもらえる?」
「はい、すぐに仕上げます。」
短いやりとり。
それだけのことなのに、声を交わすたびに空気が少し柔らかくなる。
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夕方、会議が終わる頃には外はすっかり暗くなっていた。
帰り支度をしていると、村瀬が声をかけてきた。
「高梨さん、少し歩かない?」
駅までの道。
夜の京都は静かで、遠くの車の音がかすかに響く。
「この時間、鴨川沿いを歩くのが好きなんです。」
「へぇ、意外だな。飲みに行くタイプかと思ってた。」
「それも嫌いじゃないですけど……。最近は、静かな方が落ち着くんです。」
二人の足音が、歩道の石畳に淡く響いた。
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川沿いに差しかかったところで、美咲は少し立ち止まる。
流れる水面に街の灯りが映って、ゆらゆらと揺れていた。
「高梨さん、あのとき……元彼、来てた日。平気そうに見えたけど、無理してなかった?」
不意に村瀬が言った。
声は静かで、まっすぐだった。
美咲は少しだけ息を吸い込んで、答えた。
「無理、してたかもしれません。でも、今はもう大丈夫です。」
「強いね。」
「そうでもないです。ただ……泣いても状況は変わらないし。」
「うん。でも、強いっていうのは、泣かないことじゃないと思うよ。」
その言葉に、美咲はわずかに目を見開いた。
川風が頬を撫で、前髪を揺らす。
「……村瀬さんって、意外と優しいですね。」
「意外、は余計じゃない?」
二人の間に、柔らかな笑いが生まれた。
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帰り道、駅前の人混みに近づくにつれ、
さっきまでの静けさが少しずつ現実に溶けていく。
「今日は、ありがとうございました。」
「こちらこそ。……また、歩こう。」
村瀬の言葉は、風のように軽く、
けれど確かに心に残った。
その夜。
美咲は家に帰り、机の上の御朱印帳を開いた。
新しいページに、まだ訪れていない寺の名前を書き込む。
――次の休みは、あの場所へ行こう。
心の奥に、かすかな期待が灯るのを感じながら、
美咲はカップに温かいお茶を注いだ。
夜の京都は静かで、どこまでも優しかった。




