最終章 遠くへ行く人、離れたくない人
週明けの朝。
美咲は胸の奥にざわつきを抱えたまま、会社へ向かった。
(村瀬さん……何か抱えてる顔をしてる。)
噂は収まりかけていたが、
その静けさが逆に不安を煽った。
昼休み、村瀬からメッセージが届いた。
「仕事後、例の日のカフェで会えますか。」
(……やっぱり、今日なんだ。)
美咲は、小さく「はい」と返した。
⸻
夕焼けが差し込むカフェ。
温かなコーヒーの香りの中、
村瀬は静かに席に着いた。
「来てくれて、ありがとうございます。」
その声は、決意と迷いを同時に含んでいた。
美咲は、胸の奥のざわつきに逆らわず、
ストレートに聞いた。
「……村瀬さん、隠してることがありますよね。」
村瀬は一度目を閉じ、そして正面を見た。
「海外転勤が、決まりました。
三ヶ月後です。シドニー支社。」
心臓が一瞬止まったように感じた。
「……そんなに急なんですか。」
「はい。前から打診はありましたが、正式な辞令は先週です。」
美咲の喉がきゅっと締まる。
「どうして……すぐ言ってくれなかったんですか。」
村瀬は、ゆっくり言った。
「あなたを不必要に悩ませたくありませんでした。
噂のこともあったし……
でも本当は——」
そこから先は、まっすぐだった。
「離れたくなかったからです。」
美咲の胸に熱いものが広がった。
「村瀬さん……」
村瀬は深く頭を下げた。
「こんなタイミングで言うのは卑怯なのは分かっています。
でも……
あなたが好きです。
しっかり、自分で考えてほしいからこそ……
今、伝えたかった。」
美咲は息を整えて、はっきり言った。
「……私も好きです。」
村瀬の肩がふっとゆるんだ。
美咲は続ける。
「でも……転勤はあなたの大切なチャンス。
それを止めるつもりはありません。」
「……。」
「だから……行ってきてください。
私は、待ってます。」
村瀬はまっすぐ見つめて言った。
「必ず……戻ります。」
それは約束ではなく、
彼の“決意”だった。
⸻
その夜、町屋に戻ると、
兄がちゃぶ台に座って待っていた。
「……話、終わったか。」
美咲は小さく頷いた。
「村瀬さん、三ヶ月後にシドニーに転勤することになった。」
兄は「やっぱりな」と言う顔をした。
「空気がそう言ってた。
あいつ、腹決めてたろ。」
美咲は、少しだけ迷いながら言った。
「……兄さん。話があるの。」
「ん?」
「マンション……出ようと思う。
実家に戻るの、考えてる。」
兄は意外そうな顔をした。
「お前……本気か?」
「うん。
一人暮らしも楽しかったけど……
町屋に帰ると、なんか落ち着く。
お祖母ちゃんの介護もあるし……
兄さんばかりに任せてるのも気になってたんだ。」
兄はしばらく黙っていたが、
やがてぽつりと言った。
「……美咲がそう思うなら、止めねぇよ。」
少し照れくさそうに、しかし真剣に続けた。
「ただし。」
指がつん、と美咲の額を突く。
「村瀬のことは、ちゃんと考えろよ。
“逃げるため”に戻るのは違う。」
美咲は微笑んだ。
「うん。逃げない。
私は待つよ。ちゃんと。」
兄はため息をつきながらも、優しい声で言った。
「泣かせるような男じゃねぇ。
なら安心して送り出してやれ。」
美咲の胸にあたたかいものが広がった。
⸻
兄が部屋に戻ったあと、
美咲は町屋の静かな空気の中にひとり残った。
障子越しの月明かり。
畳の匂い。
お湯を注いだ急須から立ちのぼる湯気。
(……そういえば、私。)
“おひとり様生活”を愛していたことを思い出した。
朝の喫茶店、
御朱印巡り、
ひとり散歩、
静かな夜の料理、
町屋の掃除。
誰の影響も受けず、
自分のリズムだけで過ごす時間。
(ひとりの生活は、私の大事な宝物。)
その宝物を抱えたまま、
誰かを想ってもいい。
ひとりを楽しめるからこそ、
誰かと一緒にいる意味が生まれる。
(私は何も失わない。
私は私のままで、誰かを好きになれる。)
美咲は湯飲みを片付け、そっとつぶやいた。
「……行ってらっしゃい。
私はここで、ちゃんと待ってるから。」
町屋を吹き抜ける冬の風が、
やわらかく彼女の背を押した。
未来は、もうそこにある。
——完。




