第17章 ひび割れた日常、忍び寄る気配
千春との対峙から、
美咲は逃げるように河川敷を離れた。
川沿いの風は冷たく、
顔に当たるたびに思考が打ち消されていく。
(……怖かった。)
千春の最後の言葉が、何度も脳裏で反復する。
——あなたが全部悪いんだよ?
震える手をポケットに押し込み、
歩く速度を早めた。
⸻
家に戻る途中、
美咲の背中に、ずっと視線のようなものがつきまとった。
(……気のせい、だよね。)
振り返ると誰もいない。
けれど、心臓の鼓動は速いままだった。
玄関に入ると、
ようやく足が止まった。
(……誰にも言いたくない。でも——
誰かに言わないと、体がもたない。)
スマホを取り出し、
無意識に“村瀬”の名前を開いた。
⸻
【村瀬:退院後、無理してませんか?
もし何かあれば、連絡ください。】
その優しい文面に、
美咲の胸が熱くなった。
(……言いたい。でも……変に心配させたくない。)
指が迷い、
ようやく短い返事を送る。
【美咲:大丈夫です。今日は少し散歩してました。】
送信と同時に後悔が押しよせる。
(嘘ついた……。
本当は全然大丈夫なんかじゃない。)
すぐに返信がきた。
【村瀬:散歩できるくらいなら、よかったです。
……でも、無理しないでくださいね。】
文面は柔らかいのに、
どこか“気づいている”ような感覚があった。
(……なんで、こんなときに限って、
村瀬さんの言葉が心に刺さるんだろ。)
美咲はスマホを胸に抱き、
目を閉じた。
⸻
夕方。
実家の戸が開いた音がした。
兄が買い物袋を手に帰ってきた。
「おい、美咲。
……なんかあっただろ。」
美咲は顔を上げた瞬間、
ギクリとする。
(やっぱり……兄さんには隠せない。)
兄は靴を脱ぎもせず、まっすぐ近づいてくる。
「その顔……泣いた後じゃねぇか。」
「泣いてないよ。」
「嘘つくな。
俺は昔からお前の泣き顔も、怒った顔も、
“全部分かる”んだよ。」
美咲は返せなかった。
兄は深く息を吐いた。
「……千春に会ったんだな。」
美咲は小さくうなずく。
兄の表情が一気に険しくなる。
「何言われた。」
「……“私が全部悪い”って。」
兄の拳が震えた。
「……あの女。
もう一線越えかけてるな。」
美咲「兄さん、そんな言い方……」
兄「美咲、
こういうのはな……“嫌な予感”が当たるんだよ。」
兄の声は低く、
どこか本能で危険を察しているような響きだった。
⸻
その夜。
千春からは一切メッセージが来なかった。
既読もつかない。
(……大丈夫なのかな。
それとも……怒ってる……?)
美咲はスマホを握りながら、
布団の中で目を閉じた。
眠れない。
すると——
ポツン、と通知の音がした。
美咲は一瞬で飛び起きたが、
画面に表示されたのは千春ではない。
【孝太:……美咲。少し話せるか?】
美咲は息を呑んだ。
(なんで……孝太が……ここで……?)
胸の奥が、一気に冷える。
⸻
兄が廊下から声をかけた。
「美咲、今……誰からだ?」
美咲の手が震えた。
「……孝太さん。」
兄は目を細める。
「……最悪なやつだ。
“嵐の前”ってのは、こういう空気なんだよ。」
美咲はスマホを握りしめ、
画面を閉じた。
返事はしない。
絶対にしない。
外では、冬の風が窓を叩いた。
(……なにか、ここから一気に崩れそう。)
その嫌な予感は、
当たっていた。




